7.Unidentified misfortunes never come singly
第15話
生きた心地がしない。
彼女の人生においてそんな慣用句を実際に使った事はなかった。大きな怪我も深刻な病気もなく、平々凡々に暮らして来た向日葵にとって、今この時間はまさに生きた心地を実感できる瞬間だった。
山臥達が生活する山小屋の扉をくぐる。まだ数日しか過ごしていない我が家。それでも、懐かしい木の匂いのするこの空間に身を置くだけで気持ちの有り様が違う。
生きて帰ってこれたんだ。
まだ山に入って日も浅い。それなのに、自分が生きて山小屋に戻れた事がこんなにも嬉しく感じるだなんて。向日葵はここが異世界なのだと改めて理解した。ここはヒトの住む世界ではない。ここは山なのだ、と。
妖怪ヒタヒタを追い返した後、山臥長の現治朗が側にいるのに、背後が気になって気になって仕方がなかった。風にひるがえる木の葉のかすかな物音でさえヒタヒタの濡れた足音に聞こえてしまう。
山のルールが思い出された。背後から声をかけてはいけない。確かに、ヒタヒタの脅威を知っている以上、背後から声をかける事、そしてかけられる事が命に関わる事だと理解できた。
自分が生きている証である落ち着かない呼吸、早い鼓動、背中を伝う汗、それぞれを感じる事が嬉しく思える。つい一週間前までの、自分は明日も当たり前に生きている。そんな生温い日常が懐かしくさえ思えた。
山小屋のキッチンで修司が煎れてくれたお茶をすすっていると、窓から見える木漏れ日の風景が一瞬だけ暗くなり、大きな羽音とともに真樹士が空から降って来るのが見えた。
「って、マキシくん?」
真樹士はステップを踏むようによろけながらもなんとか踏み止まり、空に向かって軽く手を振った。向日葵は何事かと窓から身を乗り出して天空を仰ぎ見る。空にはとても大きな鳶がくるりと円を描いているだけだった。
「みんな無事か?」
真樹士は山小屋に飛び込むなり叫んだ。
「ゲンさん、みんなと連絡は取れてる?」
真樹士は向日葵の姿を見つけると少しだけ表情を緩めて、彼女の頭をそっと撫でた。向日葵は右手に拳を作って見せて微笑んでやる。
「よくやった。ヒタヒタを殴り倒した女はおそらく世界で君だけだよ」
そう言って真樹士は現治朗に向き直った。現治朗は携帯電話を軽く振って応える。
「テツヘイ、サタロウ、タクヤの組とは連絡が取れた。あと一時間もすれば戻る。しかし、カネユキ、ジュン……」
少し言いにくそうに口元を歪めて、現治朗の言葉尻が濁る。
「リンドウの三人とはまだ繋がらない。どこか、谷間にいるのかも知れない」
「……リンドウが? あの子が山に入っているのか?」
真樹士の顔が曇る。
「ヒタヒタが出たって時にお散歩か。カネユキさんとジュンが一緒だから大丈夫だとは思うけど、嫌な予感がするよ」
「すまない。止めるべきだったんだろうが、リンドウ自身が自分が何者なのか思い出す何かのきかっけになればと思って……」
「いいって。ゲンさんがよしと思ってやった行動はそれでよし。問題は、それを知った今、俺達が何をすべきかだよ」
真樹士は自分の父親ほどの年齢の男に説教をするように軽く人差し指を振るった。現治朗は現治朗でそれに違和感を覚える事なく素直に頷いた。
真樹士も小さく頷くと、溜息を一つ吐き捨てて、大きな音を立てて自分の頬を張った。
「ヒマワリ、最先端の山を見せてやるよ」
「オンラインモードでシステム起動」
真樹士の声に反応し、寝室に設置された彼のパソコンが小さなドライブを高速回転させる音を立てて有機ディスプレイに明かりを灯した。ぱきっとペットボトルの蓋を捻り、真樹士は一息で三分の一ほどよく冷えた緑茶を喉に流し込んだ。
「システムチェック。ああ、こんな時にまだ覗いていやがるか。……ダミーも起動。宇宙人を探してくれ。あとでおしおきしてやる」
妙に聞き慣れない単語に思わず顔を見合わせる向日葵と現治朗と修司。宇宙人を探す? おしおき?
「アクセスポイント、Rの1から8までサーチ」
真樹士の音声入力にパソコンは小さな電子音を奏で、有機ディスプレイの画面は波打つ海のようにその色合いを変えた。
真樹士は山臥達の装備の一つ、センサーがまるで鬼の角のように伸びるヘッドマウントディスプレイを取り出した。ただ、山臥達の装備品のように顔面部分に番号は書き込まれてはいない。そこにはマジックで書き殴ったような「MASTER」の文字があった。
「HMD、リンク。センサーグローブとの座標誤差を修正」
鬼の角が生えたHMDをすっぽりと頭にかぶり、感触を確かめるように小刻みに頭を振る。そしてデスクに置きっ放しだったセンサーグローブを探し、銀色の鋲のような突起とそれぞれの指にシルバーリングをはめたグローブをぎこちなく装着した。
「先にグローブ着ければよかったのに」
いろいろと言いたい事を黙っていようと思っていたが、我慢できずに呟いてしまった向日葵。
「うるさい」
力強い楽曲を奏でようとするコンサートピアニストのように真樹士は中空で両手を大きく開いた。それに呼応して有機ディスプレイが明滅する。真樹士のHMDの視界も落ち着いた深いグリーンに染まる。
「俺のHMDとディスプレイの画面表示は違うけど、画面は第三者に分りやすいように表示されてるから、何か気付いたら何でも言ってくれ」
画面は細かいワイヤーフレームで構築された洛朱九崚の全景を映し出していた。テレビで観た事がある山脈として連なる九つの峰をよく表現できているな、と向日葵は感心した。
「リサーチ。ジュンのスマホの電波だ」
真樹士の両手が宙で踊る。どこか厳しい意味の手話のような、見えない何かを手刀で斬り付ける鋭角な動きが繰り返される。
画面の九つの峰が分断され、一つの山の形がクローズアップされた。ワイヤーフレームの密度がさらに細かく表示される。
「三の峰だ。そんなに遠くはないな」
現治朗が画面を指差した。向日葵は真樹士の手の動きを目で追い、それに連動するディスプレイとを交互に見比べた。
表示されているワイヤーフレームに山肌のテクスチャーが貼り付けられて、半透明の3D映像へと切り替わった。幾つかの数字データが画面上に表示されている。
「カネユキさんの携帯の電波も拾ってくれ」
即座に数字データがもう一つ現れた。二つとも重なるほどすぐ近くに存在した。
「十五分前まで電波が拾える場所にいたのに、ちょうどアクセスポイントの死角に入っちゃったか」
数字データをよく見ると、GPSデータの緯度と経度、そして時刻表示のようだ。確かに今からちょうど十五分前の数字が見える。
「ゲンさん、この辺に何かあったかな?」
真樹士の手話のような両手の動きが少し丸くなる。緩やかなカーブを描いて大きなツボを磨いているような振り付けになった。するとディスプレイに新たなウインドウがもう一つ現れて、実際の山間の映像が表示された。
「さあ、単なる峰と峰の谷間だとしか思えないな」
「だよね。何も特別な地形でもなかったと思うな。なんでこんなとこにいるんだ?」
山の各地点に設置された定点カメラのリアルタイム映像がズームされる。映像の角度は違うが、メインウインドウのCG映像と同じ場所を映しているとよくわかる大きさに拡大された。
「……ここは、秋咲きの桜だ」
修司が思い出した。確か、リンドウが兼之に秋に咲く桜の事を尋ねていたはずだ。
真樹士の両手が居酒屋ののれんをくぐるように動いた。リアル映像の画面がひらりとめくれるように映し変えられて、別な角度からさらにズーム。真樹士は素人カメラマンがよくやるように両手の人差し指と親指でフレームを作り、HMDの近くに持って来た。
「マキシくん、その手の動きにはどんな意味があるの?」
やっぱり我慢しきれなくて、ずっと気になっていた事を向日葵は口に出した。
「グローブの動きをこのセンサーが拾って、HMDに直接投影している画面とアイコンを操作しているんだ。モーション入力だよ。そっちの画面にはアイコンが表示されないから、俺が踊っているみたいに見えてけっこうおもしろいだろ?」
「夜一人でやってたら何か間抜けだね」
「システムの開発者としてもそう思う。最初はけっこう恥ずかしかった」
「見てる方もちょっと恥ずかしいよ」
「でもヒトのヌシのチカラを使えば山と連動するんだぜ。すごいだろ」
湯上がりの火照った頬を冷ますように両手をひらひらと扇ぐ。テクスチャーがさらに拡大され、兼之と純が持つモバイル端末の電波が動いた軌跡を現し、真樹士が片手を遠くを見やるように額に持って行くとその軌跡がさらに伸び始める。
「移動速度が変わらなければもう電波の谷間を抜けて携帯が通じる領域に出てもいいはずだけど、まだ繋がらないか。たぶん桜の所で立ち止まっているな」
端末電波の移動速度から予想の行動範囲がテクスチャーの色を変えて表示される。しかし、時刻表時をいくら切り替えても兼之と純の携帯電話の電波は山に現れない。じっとその場を動かないでいるのか。
真樹士が両手でひょいと中空に何かを置く仕種をした。メインで開いているウインドウが小さくなり奥側にスライドして、いつの間にか開いていたもう一枚のウインドウが手前にズームされる。そしてぴたりと、両手のグローブの動きが止まった。
「……これはこれは。何でこうも次から次に厄介事が舞い込んでくるかな」
手探りでペットボトルを掴む。画面のウインドウが真樹士の手の動きを正確にトレースして揺れ動く。HMDをくいと持ち上げて隙間からペットボトルを口に運び、ごくごくと喉を鳴らして半分くらいまで一息で飲んだ。
「山へ逃げ込んだ銀行強盗の話は知っているよね?」
ペットボトルを置く真樹士の手の軌跡通りにウインドウが動く。
「どうやら、ジュン達のすぐ近くにいるようだな」
ズームされたウインドウには三つ目の電波の移動予想図が示されていた。純のスマホでもなく、兼之の携帯電話でもなく、見覚えのない携帯番号が点滅して彼等の電波信号を追い掛けていた。
閉め切った部屋の空気はエアコンによってよく冷やされていたが、決して新鮮なものではなかった。
小さな冷蔵庫を開ける。ぎゅうぎゅうに押し込まれた炭酸飲料のペットボトルが雪崩のように転がり落ちて来た。そのうち一本を手に取る。狭い庫内に何本も詰め過ぎていたせいか、あまり冷えてはいないようだ。
「ちっ。もっと大きいのにしてくれよ」
ペットボトルの事か、それとも冷蔵庫の事か。その男は嫌に濡れた音のする舌打ちを一つ残して苛立たしく冷蔵庫の扉を叩き閉めた。何本かの炭酸飲料がこぼれ出たまま転がっていた。
「せっかくおもしろくなってきやがったのに、ちっとも冷えてねえ」
液晶ディスプレイをぐいと手前に引っぱり、ペットボトルをこじ開けて冷えてないせいかやけに甘ったるい炭酸飲料を一気に煽る。液晶画面には、広い宇宙のどこかにいるはずの知的生命体からのラブレターを探す民間団体のサイト。もう一つの小さなウインドウには一人の女性が青い海を背景にワンピースの水着姿ではにかんでいる画像。人の主のハードディスクから盗んだ向日葵の画像だ。
「何がヒマワリだ。何が地球外知的生命体だ。このアナイデンティファイド様の目を節穴だと思っているのか?」
誰に言うとなく、芝居めいた抑揚をつけた台詞を吐き捨て、ペットボトルの残りを飲み干す。そして、湿ったげっぷを一つ。
「スーパーハッカー、アナイデンティファイド様の実力を見せつけてやるぜ。待ってな、人の主様よ!」
もう一つ画像を開く。適当な成人サイトから勝手に拝借してきた画像に、向日葵の首から上を貼付けたコラージュを作ってやる。
「これは挨拶代わりさ。ヒトのヌシめ。驚くなよ」
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