第34話

 左太郎の皮を脱ぎ去った猿の主は夜の町を疾走していた。あまりにもダメージが大き過ぎる。あの人の皮を被り続ける事はもうできなかった。そして、この猿の身体も限界がきている。早く新しい肉体を見つけなければ。


 そうだ。人の主を探さなければ。


 おそらく人の主は戦いを山臥に任せて、自分は安全な場所で高みの見物をしていたに違いない。あのコンピュータとか言う箱を使って、自分では何もせずに、暖かい場所で油断しきっているに違いない。


 今がチャンスだ。この傷付いたぼろぼろの身体でも、油断しきった人の主なら襲って身体を奪えるはずだ。


 人の主の身体を奪った後は、すぐにあの山臥を始末する。人の主の身体ならば先程の人の身体よりも数段強く動けるはずだ。人の主の子供とオンナは後からゆっくりと食ってやればいい。


 猿の主は鼻を鳴らした。


 すぐ近くだ。このすぐ近くに、人の主がいる。


 あそこ、か。


 奴の臭いがする。




 薄暗い中、キーボードをゆっくり叩く音が小さく響いている。誰かと喋っているのか、羽虫のはばたくような囁き声が聞こえる。


 猿の主はその窓ににじり寄った。壁にへばりつき、焦る心を落ち着かせ、痛む身体を静ませて、室内の気配を窺う。少しずつ身体を動かして窓を覗き込むと、コンピュータに向かっている人影が一つだけ見えた。


 音に変化はない。室内からは憎っくき人の主の臭いがする。


 やはり、完全に油断しきっているな。今だ。


 猿の主はガラス窓を突き破って暗い部屋に踊り込んだ。明かりの元はコンピュータのでディスプレイだけ。青白く弱い光を浴びているその人影はびくりと全身を震わせて、息を漏らすような情けない悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。


 猿の主は立ち上がった。床に転がって無様に四肢を震わせている男を見下ろす。


「?」


 何者だ、こいつは?


 見覚えのない男はわなわなと震えて、恐怖に声も出せない様子だ。猿の主の知っている人の主の顔ではない。


 猿の主は動きを停めてしまった。と、その時、赤い光が目に入った。空間に赤くぽつんと光る点が見えた。その点はゆっくりと猿の主の身体を這っている。猿の主は視線でそれを追い掛けた。腹から胸へ、喉へ。そして見えなくなった。


 窓の外か?


 猿の主は床の男から窓の外へと顔を向けた。


 その眉間に、赤い光の点が一つ。


 風を切る鋭い音が聞こえた、気がした。それが、猿の主の感じた最後の感覚だった。


 猿の主は音も立てずに大きく仰け反り、眉間を撃ち抜いた弾丸は後頭部から抜け出して猿の主の頭の中身を壁にぶちまけた。全身の力が失われ弛緩した肉体はただそこに置かれた一匹の猿となった。


 床に転げ落ちた男はぱくぱくと口を動かし、言葉もないままただ時間だけが過ぎ去っていった。


 やがて、窓に人影が現れる。


「よっ、お邪魔するよ」


 真樹士は土足のまま部屋に上がり込んだ。突然に窓から飛び込んで来た猿に続き、次は人の主が乗り込んで来た。ここはマンションの四階だ。あり得ない事の連続に、この部屋の主の自称スーパーハッカーアナイデンティファイド様は完全に声を失ってしまった。


「しょせんは猿だな。こんな罠にひっかかるなんて」


 真樹士は狙撃用ライフルを担ぎ直して、かつてスーパーハッカーを名乗って真樹士のサーバーにちょっかいを出した男に語りかけた。


「よっ、大丈夫か?」


 ぶるぶると首を横に振るだけで応えるアナイデンティファイド様。真樹士は軽く肩をすくめて見せて、友達の家に遊びに来たかのような軽い口調で言う。


「厳しいお仕置きが必要だったからな。猿の主にも、おまえにも」


 もうすでにただの物体となった猿の主の身体を見下ろす。人の大きさだったものが、だんだんと縮んでいき、普通の猿の大きさになって倒れている。


「これに懲りたら、いや、まあ、いいか。これからどうするか、おまえが選べ。人の生き方にとやかく言うのは好きじゃない」


 真樹士が窓に歩み寄る。窓枠に脚をかけ、ふと、思い出したように振り返った。


「あ、そうそう。おまえが作ったヒマワリのコラージュな。あいつ、あんなに胸おっきくないの。それを踏まえて、もしまた作ったら送ってこい。その度胸があるならな」


 真樹士はそう言い残して、四階の窓から夜の町へと飛び降り、ふっと姿を消した。


 そして、やっと静かな夜が訪れた。

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