6.Hita-Hita noisy footsteps

第12話

 山際の色が変わった。


 山臥長の現治朗は空を見上げて白髪混じりの短い髪をかきあげた。薄く色を重ねていく青い空が水面に揺れる風景のように山を滲ませている。風に異質な不純物が含まれているのか、上空を巻く風が濁っているような違和感が漂っている。


「ゲンさん、どうかしました?」


 向日葵が現治朗に倣って空を仰いだ。切りそろえられた柔らかい前髪が耳に垂れる。


「ん、いや、何か空気が重たいなと思ってね」


 現治朗は空を睨みながら腕組みをして、しかしすぐに腕を解いて丸い顎をさすった。そして腕の置き場に迷い、すぐにまた腕を組む。実の娘よりも若い女性と二人きり。いったい何を話せばいいのか。真樹士も人が悪い。あいつめ、こうなると知ってて仕込んだな。


「雨、ですか?」


 ぐるり、向日葵は周囲を見回した。雨を落としそうな灰色の雲はなく、森の散歩道はややひんやりとした空気が足元に溜まっている感じはするが、山歩きで汗ばんだ頬に心地いい感触の風が吹いているだけだ。


「ん、いや、風だな」


「風、ですか」


 そこで会話が途切れる。そういえば、子供達としばらく会っていないな。現治朗は思い出した。妻に先立たれ、親戚に娘と息子を預けて完全に山に入る事を決意したのはまだ娘が中学生の頃だったか。


 その頃、山には六人の男しかいなかった。


 元料理人の修司。沢歩きの釣り師、鉄兵。静かな語り部の左太郎。樹木医のくせにヘビースモーカーの兼之。現治朗。そして、先代の人の主。


 その後、すっかり老人の域に足を踏み入れている山臥達に若い力の純が加わり、生意気な盛りの卓也が山に入る。世代交代の波がこんな山にまでやってきたか。


 そうかと思えば、人の主が代替わりの更新をすると言い出した。新しい人の主は自分の息子程に若い男で、女人禁制の山に女房まで連れ込んで来た。確かに、新しい時代の風か。


「……ゲンジロウさん?」


 気が付くと向日葵がこちらを覗き込んでいた。


「ん、いや。風が変わったかな、とね」


「なんか冷たい風ですね。やっぱりもう秋ですもんねー。それにしても、マキシくん、私を置いてさっさと町に降りちゃうなんて。欲しい雑誌あったのにな」


 ふくれる向日葵。彼女のお守役を人の主から直々に仰せつかっている現治朗は一応真樹士のためにフォローをいれてやる。


「ん、いや、マキシくんは買い出しに出掛けたんじゃないよ。警察に呼ばれて行ったんだ。ちょっとふもとで事件があったみたいでね」


「事件って、銀行強盗の犯人ですか?」


「ん、おや、知っていたかい?」


 現治朗は少し意外に思った。テレビもラジオもこの事件についての情報はほとんど掴んでなく、ニュース番組でも昨晩から新情報は伝えられていなかった。


「猟銃を持った銀行強盗犯が山に逃げ込んだ。一応ネットで情報収集しています」


「別に隠していた訳じゃないが、そうか、ネットか。いまではインターネットで何でもできる時代なんだな」


「まだ料理は人間様が自分でしないといけませんけどね。シュウジさんのごはん、インターネットであの味は出せませんよ。まさか山に入ってあそこまで本格的なフレンチを食べられるなんて、正直びびりました」


「ん、私も驚いた。あんなの食った事なかったからな」


 風がひゅるりと音を立てて現治朗と向日葵の頭上を通り過ぎた。そして、ある音が現治朗の耳に届く。水に浸した薄い布切れを荒れた岩肌に貼り、剥がしたような音。脳裏にへばりつき、神経にまとわりつくように障る音。


 この音は山臥として山に入って以来何度か聞いた忌まわしい音だ。


「……ヒマワリさん。落ち着いて話を聞いてくれよ」


「……はい?」


「山の掟は聞いているかい? 山の中で真後ろから声をかけられても決して背後を振り返ってはいけないって」


 向日葵はすぐ隣に立つ現治朗の顔に異様な緊張感を感じ取った。山のルールに関してはちょっと前に純に聞いた事を思い出す。


「はい。ジュンくんに聞きました」


「よろしい。今から、決して後ろを振り返ってはいけないよ。そして、生きてまたマキシくんに会いたいのなら彼に電話するんだ。今すぐに。後ろを振り返らずに」




 真樹士は新米警官の煎れたお茶を旨そうにすすった。


「いやいや、『牛の首』の話を聞いた事がないとなると、まだまだ警官として経験が足りないな」


 ベテラン警官は煙草を吹かし、人の主様に付き合ってまだまだ警官として経験が足りない山脇をからかう。


「ああ。あんな恐ろしい話は俺も聞いた事がない。山脇、おまえはまだ若いんだ。知らない方が身の為だ」


「別にいいですよ。そんな怖い話ならむしろ聞きたくないです」


 特にふくれっ面を作るでもなく、山脇は町の地図を広げて淡々と事件のあらましを真樹士に説明し続けた。


「話を戻しますね。容疑者はこの地点で車を乗り捨てました」


 地図上の参道入り口を人差し指でとんとんと叩く。そこから先は禁制された山だ。等高線だけが引かれていて地図上では何もない山地となっている。


「それから八時間近く経ちます。付近に奴が逃げ込みそうな廃墟の山小屋とか無人のお社とかありませんか?」


 真樹士は思わずにやついてしまった。なかなか勤勉でまじめくさってる警官だ。純と同じく可愛がりがいのある奴だ。


「ない訳でもないけど、そうか、八時間か」


 真樹士は駐在所の窓から重たそうな空を眺めた。風の気配が違う。気のせいじゃない。この荒れ始めた山の中を訓練も受けていない一般人が八時間も彷徨っている。考えただけで無残な結果しか思い浮かばない。


「ぶっちゃけ、ヒトのヌシ様の特殊能力とかで容疑者をぎゅーんって出来ませんか?」


 山脇が真面目な顔で言った。真樹士はますますこいつが気に入った。


「ヒトのヌシって言ったって神じゃないんだ。山で特殊能力を使う場合は山ノ神の許可がいる。それにヒトより上位のクマのヌシ様がヒトの侵入者を許さないさ」


「ヒトよりクマの方が上位なんですか」


「山ではな」


 真樹士がにやついた顔からイエローレンズのサングラスを外した。


「……あなた達に隠し事はしたくない。正直に言おう」


 ベテラン警官も緩んだ頬を引き締めて煙草を灰皿に添えて、ひと呼吸置いて真樹士に膝を近付けた。山脇は始めから真面目な顔つきでずっと真樹士を見ていた。


「ここんとこ山の様子がおかしい。そのおかしな空間の中、何の訓練も受けていない人間が八時間もうろついている。すでにナニモノかに喰われていたとしても、俺は不思議に思わないよ」


 山脇はまだ記憶に新しい山での遭難事件を思い出した。先代の人の主と身元不明の人間が一人、何か大型の生き物に捕食され死亡した事件だ。


「脅す訳じゃないが、いくら事件だからと言って今の山の状況では警察の山への立ち入りを許可する訳にはいかない。彼らの安全のためだ。うちの山臥達で捜索するよ。七人しかいないからそんなに期待しないで欲しいけど……」


 ちょうど真樹士の言葉を打ち切るように彼のスマートフォンが陽気な音楽を鳴らし始めた。視線を地図上からスマホの画面へ移す真樹士と山脇。


「……奥様から。出てもいい?」


 黙って頷く山脇。ベテラン警官はあとは任せたと言わんばかりに煙草をつまんで駐在所の外に視線を向けた。


「はいはいー、マキシだよ。……あ? マジで? いいか、たとえ何があっても、絶対に後ろを振り返るな。隣にゲンさんがいるんだろ? じゃあ大丈夫だ」


 ふうと真樹士は大きく息を吐き捨て、スマホを両手で包み込むように覆い、こちらを覗き込む山脇に告げた。


「悪い、緊急事態だ。ヒタヒタが現れやがった。山に逃げ込んだ容疑者はもうこの世にいないと思っていい」

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