10.Look what the cat dragged in

第21話

 静寂に飲み込まれた森。ひと握りの音もなく、ひと欠片の光もなく。太陽はついに山峰に沈み、暖かい光は夜の闇に駆逐されてしまった。山は徐々に暗闇をその身に貯え始めていた。深い海に潜るように足元から光が失われて行く。重たい泥を掻き分けて歩くような、密度のある黒い影がしんみりと辺りを埋め尽くしていく。


 蟲達さえも黙りこくる夜。何かが近付いて来ている。


 鬼。4体の鬼が暗闇を貫いて森を行軍していた。

 



『四つのマーカーが見えるだろ? それが山臥のみんなのポインタだ』


「うん。なんかすっごいチカチカしてる」


『視点クリックを採用しているから、ヒマワリがそこに視点を合わせるとそのポインタが選択されたって事になるんだ。仮想ウインドウでは見たいモノだけ見て、見なくてもいいモノは見ないってのが大事なんだ』


「よくわっかんない」


『その四つのマーカーを無視してジュンのスマホのマーカーをトレースしな』


「チカチカが消えたよ。ジュンくんのがチカチカし始めた」


『大きく瞬きを二回。ダブルクリックのように』


「わ。これ便利!」



 

 純は避難小屋に装備されている狩猟用のライフル銃に弾丸を込めていた。弾倉をライフルに差し込む。山臥のヘッドセットならライフルの照準とリンクされ、視線だけで照準をコントロールできる。無論、暗視装置で夜の世界を視るので深い森程度の暗闇なんて何ら問題ではない。


 窓の外はもはや一枚の黒い布を被せたように何も見えない。山臥として鍛えられた戦闘能力と、そして射撃もある程度の自信はあるとは言え、こちらは生身の人間だ。暗闇の中ではたして何が出来るだろうか。野生動物の感知能力には足元にも及ばないだろう。しかも敵は猿の主だ。こちらが先に見つけなければ、自分が食われてはじめて奴に見つかったと気付く事だろう。


 リンドウを守る事。それが今の自分に課せられた最低限の成すべき事だ。このライフル一挺で、どこまでできるか。


 と、スマートフォンが鳴る。耳に差していたワイヤレスイヤホンに手を添えて応える。


「ハイ、ジュンです」


『ジュン。じっとしていろって言ってもおまえは聞かないんだろうな』


「はい、そのつもりです」


『この通話はもう全員にリンクされているから、このまま電話を切らずに行動しろよ。そして自分の行動には自分で責任を取る事』


「わかってます。リンドウはこの山小屋に居てもらって、僕一人で行動します」


『任せる』


「リンドウ、聞こえたろ? 僕を信じて、ここでじっとしていてくれ。僕が戻るまで、決して動かないでくれよ」


 純は背後に呟いた。



  

『次だ、ヒマワリ。これで山臥全員と君はリンクされた。そのまま、他の何にも見ないで、左のウインドウ枠の、名前が貼っていないケータイの番号を視点で一回だけクリック』


「何も見ないって難しいよ」


『集中力を切らすのがコツだ』


「集中力を切らせってアドバイス初めて聞いたわ」


『その番号のマーカーが、今回のラスボスだと思う。そいつは今どこにいる?』


「んー」


『集中力を絶やせよ。ぼんやり、何も見ずだ』


「だからかえって難しいってば」




 修司は狩猟用ライフル銃を両手に構え、暗闇にすっぽりと包まれた森を見張っていた。


 山小屋の側には流れる小川がある。モノノケの類いは流水を跨いで越える事ができない。そう言う意味ではこの山小屋は結界に守られている。しかし、敵は猿の主だ。モノノケではない。さらに悪い事に人の皮を被っているらしい。人の知能を持ち、人の武器を持った猿。


 薄暗い真樹士の部屋で、マスター用ヘッドセットを被った向日葵がパソコンに向かっている。マスター用なだけに、センサー類は山臥用のヘッドセットよりも大きい。小柄な向日葵がそれを被ると、いやに頭身がデフォルメされた小鬼のように見える。仮想視界に慣れていないせいでやたら頭が上下左右に揺れ、その都度に重そうにぐらりと頼りなく傾く。


 熊の主の使いである若いヒグマがそれを興味深気に眺めていた。真樹士と向日葵のダブルベッドの上に伏せるようにしてどっかりと居座り、向日葵の揺れる頭を顔を動かして追い掛けていた。山で最強の生き物であるヒグマが向日葵のボディガードとして降りて来たのだ。ここは任せても大丈夫だ。修司は山小屋の正面入り口で番をする事にした。


 一人、ヒグマと同じ部屋に残された向日葵の視界は淡い緑色の光が走っていた。真樹士の言う通り、集中せずにぼんやりとあそこらへんを眺めようっと視点を移動させると、余計な情報はフォーカスされない。そこらへんと言う漠然とした情報の中で、見たいところだけに視点を置くとそこだけ画面がクリアに見えて、他の画像情報はぼやけて見えなくなる。確かに、見たいモノだけが見えるシステムだ。


「マキシくん、位置情報をどう説明したらいいかわかんない」


 都会の夜空のように深い灰色をした背景に、淡いグリーンのワイヤーフレームが山の形を向日葵に教えてくれている。今は最低限の情報だけをオープンにしているので、森を進行中の山臥達の4つのマーカー、避難小屋を出たばかりの純を示すポインタ、ぽつんとかなり離れたところを異常な速度で移動している真樹士のポインタ、それらがグリーンに明滅しているだけだった。


『左のウインドウ枠にスレイブってないか?』


「ある」


『それを視点で合わせて瞬きでダブルクリック』


「おわ、マキシくん登場」


 向日葵の仮想視界にウインドウがさらに一つ開き、真樹士の顔が現れた。


『よし。これで俺と繋がった。これで俺も君が視ている情報を見れるよ』


 真樹士は山小屋を出る時、山臥達が装備しているのと同じヘッドセットを一式と、両腕に装着するセンサーグローブを持って行った。ヘッドセットのインカメラを通して真樹士の顔の画像が向日葵のヘッドセットとリンクしていた。


 それにしても、かなり高速度で山を移動しているはずなのに、真樹士の顔は激しい運動をしているようには見えない。


「ねえ、マキシポインタの移動がやたら速いけど、どうなってるの?」


『こうなってるの』


 真樹士の表情が消える。画像がインカメラから外部カメラに切り代わり、夜の空が見えた。暗い山腹が見えた。分厚い雲の隙間に星空と月が流れて見えた。


「空飛んでるの? どうやって!」


『トリのヌシのタクシー。クマのヌシが寄り合いの滝で待ってるからって、文字通り飛んで行ってるの』


「あんた、すごいわ」


 ものすごく素直な感想を呟いてしまう向日葵。




『みんなー。聞こえるか?』


 真樹士の声が電子的に分解されてデジタルの波に乗って信号として再構築され、山臥達と向日葵の耳に同時に届いた。


『いまクマのヌシ様と合流した。これからあっちに渡って……』


 「あっち?」向日葵は思わず首を傾げる。


『山の神様に逢って来るよ。しばらく存在しなくなるから、みんな自己判断、自己責任で行動してくれよ』


 存在しなくなるって、簡単な文章なはずなのに素直に文面通りに理解できない。向日葵は首を傾げ続ける。


『また会おう。みんな、無事で』


 そして真樹士の座標を示すポインタがふっと消える。


 点在する四つの山臥マーカー。避難小屋の入り口あたりから動かない純のポインタ。山臥の山小屋にある二つのポインタは修司と向日葵自身のものだ。そして、見知らぬ携帯番号のポインタ。そのポインタはゆっくりとだが、確実に真っ直ぐにここへ向かっている。これが、ラスボス? 猿の主?


『ヒマワリさん、聞こえるかい?』


 ひび割れ、しわがれているが優しみを含んだ声が聞こえて来る。現治朗だ。


「はい。聞こえます」


『この会話は他の誰にも聞こえない。直接通話だ』


「はい」


『マキシの性格は誰よりも君が一番よく理解していると思う』


 少し沈黙を置く。向日葵の視線は仮想ディスプレイの中の真樹士ポインタを探し求めた。しかし、忽然と消えたまま山のどこの山域にも現れない。


『カネユキが死んだ。なのにマキシはゲームでも続けるかのように振舞う。そう感じているか?』


「……少し。でも、マキシくんは哀しんだり、怒ったり、そんな事しちゃいけない。マキシくんは、ヒトのヌシ様だから」


『正解だ。だからこそ、マキシは無理をする。無理に平静を装う。ヒマワリさん、マキシを頼むよ。無理しすぎないよう、無茶しないよう、うまくコントロールしてやってくれ』


「難しいかも。あのヒト、絶対逃げないから」


『そうか。じゃあ、終わったらいっぱい慰めてやってくれ。カネユキが死んだ事を自分の責任だと感じている。何もかもを自分で背負い込もうとしている』


 向日葵は重いヘッドマウントディスプレイを軽く揺らしながら胸を張って答えた。


「幸福も、苦難も、分かち合うのが夫婦です」


『……よろしい』

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