14.Stand over-man
第32話
左太郎の皮を被った猿の主は考えた。
ヒトと言う生き物はなんて多くの事を思い浮かべ、そして深い思考を繰り広げる生き物なのだろう、と。
ヒトの肉体が身体に馴染んでくると、見るモノすべて、その意味が鮮明に読み取れるようになった。ヒトの意識の深層に蓄積された膨大なデータベースが流れ込む勢いさえ感じられる。
山の上位のヒトと下位のサルにこれだけ魂容量に差があるものか。しかし今はそのヒトの力を得たのだ。それだけではなく身体の大きさまでも同等になった。もはやヒトもサルもない。あとは実力の勝負だ。喰うか、喰われるか。
猿の主は左太郎のポケットから携帯電話を取り出した。この小さな機械の使い方も自然と頭に浮かんで来た。左太郎の頭の中にあった知識も猿の主の血肉となりつつある。携帯のメモリーを呼び出し、ある男の名前を探し出した。
握り潰せるほどに小さな機械を耳にくっつける。電気的な連続音が数回繰り返されると、聞き覚えのある男の声で返事をしてきた。
『よう、サルのくせに勝手にヒトのケータイ使うなよ』
真樹士だ。猿の主は人の主の口調を真似て話しかけてやる。
「よお、今は俺の機械だから使ってもいいんだぜ」
『まさに猿真似じゃねえか。まったくめんどうばかり起こしやがって』
「うっとうしかったんだよ、ヒトのヌシも、山臥どもも。俺のアタマの上をちょろちょろしやがって」
携帯電話の向こうから笑い声が漏れて来る。小さなトゲのある手触りの悪い笑い声だ。
『頭の上をちょろちょろしてたのはお前らの方じゃねえか』
「表現の手法だ。実際にそうでなく、そうした比喩方法じゃねえか。ヒトのヌシ様ともあろう方が理解できないのか?」
『……なんかムカツクな』
今度は猿の主が嫌味を含んだ笑い声を聞かせてやる番だ。ひとしきり笑ってやった後、沈黙したままの携帯電話にゆっくりと染み込ませるように語りかける。
「まあ、いくら俺がヒトと対等になったとは言え、さすがに現役のヒトのヌシを食えるほど、まだこの身体に馴染んでいない」
『で?』
「先代のヒトのヌシはおいぼれだったからあっさりと食えたがな。うまくもなんともなかったぜ」
『何が言いたいのかわかんねえな。はっきり言ってくれないか?』
「ヒトのヌシの子だよ、俺が食いてえのは。オンナごと食いてえな」
携帯電話の向こうでかちゃかちゃと何か機械を扱っているような音が聞こえる。人の主がいつもの箱に情報が詰まった機械を使っているのか。
『今この瞬間にぶち殺してやりたくなったよ。あまり俺をなめるな』
「できるもんならやってみろよ。怖くて俺の前に出て来れないくせによ」
もう一度ねっとりとした笑い声を電話越しに人の主に聞かせてやる。
『それができるんだよ。ただやらないだけだ』
「なぜだ?」
『ジュンがな、わかるか? 最強の山臥がな、あっさり殺してしまったら、山伏達の無念も晴らせないって言うんだ』
相変わらず携帯電話の向こうではかちゃかちゃと言う音が続いている。
『おまえに後悔させるためにじっくりといたぶりたいんだとさ』
「それで?」
『もうすぐそっちに着く。ジュンに遊んでもらえ』
猿の主は携帯電話を耳から離した。一台の車がこちらに近付いて来る。猿の主は真樹士の気配を探りながら夜の街を歩き、今はバス通り沿いの人影のまったくなくなった歩道で、明るい自動販売機に寄り掛かりながら真樹士へと電話をかけていた。それまで車の通りはまるでなかったが、一台の自動車がヘッドライトをこちらに向けて二車線の道路を斜めに横切って来る。
人の形をした猿の主は額に手をかざしてその車を睨み付けた。屋根の上に誰か乗っている。頭には大きな面のようなものを被り、鹿のように鋭い角が見える。鬼か、いや、山臥か。
「よお、山臥が来たぜ。ヒトのヌシ様よ、あんたは来ないのか?」
猿の主は再び携帯電話にねっとりと語りかけた。
『俺だと一瞬で片付けてしまうからな。それじゃあジュンの気持ちがおさまらないらしい』
「仕方ねえな。じゃあ山臥と軽く遊んでやった後、あんたに会いに行くよ」
『ああ、安心しな。ジュンには言ってある。トドメは俺が決めるってな』
猿の主が迫り来る自動車に視線を戻した。その途端違和感に襲われる。車の屋根にいたはずの山臥の姿がない。降りたのか? いや、車は今も速度を落とさずにこちらに突き進んでいる。あの速度で降りられるだろうか。
『ヒントやろうか?』
携帯電話から真樹士の声。
『アタマの上だよ』
真樹士の声につられて上を向く。そこには空を飛ぶ鬼がいた。
町の街灯が純のシルエットに鋭角の影を纏わせていた。まばたきする間もなく、純の鬼のように角の生えた影は大きく迫って来る。
とっさに猿の主は身体を横に開いた。その瞬間、上着をかすめるように純の身体が風を巻き起こして通り過ぎた。空よりかけ降りて来た純の膝は自動販売機に突き刺さり、激しく火花を飛び散らせて、自販機はアルミ缶を大量に吐き出してショートした。
猿の主は身をかわした弾みで一歩二歩と道路側によろめいてしまい、すぐさま純に向き直ろうとしたが、不意に目の前に目映い光が溢れだした。純の乗っていた車がハイビームで光を撒き散らしながら突進してきた。
猿の主は跳んだ。人間離れした猿の跳躍力で高く宙に舞い、紙を破くようにガードレールを突き破った車を軽く飛び越えた。
『よくかわしたな』
携帯電話から真樹士の声が続く。
『でも、まだまだだぜ』
ぞくりと、禍々しい気配が猿の主を襲う。猿の主は空中で背後に振り返った。そこには逆さまの体勢で脚を振り上げた山臥の姿があった。純は上下逆さまになりながら振り上げた脚を猿の主の身体へと落した。猿の主の全身に強い衝撃が走り、背中から冷えきったアスファルトに叩き付けられた。
視界がちかちかと光をほとばしらせて歪む。胸の中の空気が口から漏れてしまい悲鳴をあげる事すらできない。取り落としてしまった携帯電話が割れた。
猿の主はひゅうひゅうと音を立てて息を吸い込み、車道に四つん這いになったまま山臥の姿を探した。と、二本の脚が目の前に降り立った。山臥の物だ。人間が普段身に付ける登山の服装とは違う、樹の幹がしなるような音を立て、ホタルのように光を放つ服を身に付けた山臥だ。
「これぐらい全然平気ですよね? サルのヌシ様」
視線を上げると、夜空に輝く月を背負うように山臥が仁王立ちしていた。頭に被っている面から生える角が光って見えた。
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