3.Still waters run deep
第8話
水の砕ける音のなんとさわやかな事か。
風の冷たい感触のなんと心地よい事か。
厚い靴底のスニーカーと靴下を脱ぎ去り、細いジーンズの裾をくるくるとまくる。向日葵は川の水際までそうっと忍び足で歩いた。柔らかな足の裏を小石がちくちくとつついて気持ち良く痛い。バレエダンサーのように片足でバランスを取り、もう片方の足を透明な川面に浮かべるように浸す。足の裏をくすぐる清らかで冷たい水。えいっ、と一気に川底まで足を沈める。かき氷とはまた違った冷たさが染み込んで来て、頭のてっぺんまできんっと電気が突っ走る。
人の主の妻として山小屋での生活を始めて日はまだ浅い。
しかしそれでも向日葵の毎日の生活は一変した。フリーライターとして雑誌の編集の手伝いをしたり、ウェブマガジンのコラムを一つ任されたり、自分のしたい形の仕事とは言え、時計の針を逆に回したくなるような時間に追われる生活をしてきた。
山に入り、まず向日葵は愛用の腕時計を外した。目覚まし時計のアラーム設定を解除した。スマートフォンをベッドの枕元に置きっぱなしにした。日の出と共に目を覚まし、日が沈むと山小屋へ帰り山臥達と飽きるまで会話を交わす。彼らの話は今までの都市での生活と匂いがまるで違った。色彩が違った。眠くなるまで彼らの話を聞く。眠くなれば眠りにつき、起きていたければいつまでも山臥達と会話を楽しむ。時間など在って無いに等しい。
「おーい、ヒマワリさん。川の魚をなめちゃいかんぞ。そんな勢いで踏み込めば魚に気配を感付かれる」
小柄な相撲取りのような、いかにも山臥的な無精髭を生やした男がひそめた声を遠くから投げかけて来た。彼は森に溶け込む緑色のジャケットを着込み、大きな身体を小さく丸めて手元の仕掛けに意識を集中させていた。
「あ、ごめんなさい。でも、冷たくて気持ちいいですよ」
もう片方の素足はゆっくりと水に沈めた。川の冷たい水が向日葵の足の下の砂を少しずつ少しずつ削り取る。砂地の川底にじわりと両足が沈みゆく
「テツヘイさん、ヒマワリが暴れたくらいでこちらは問題ないよ。それとも何? 負けた時の言い訳作り?」
真樹士は川から離れた所で姿勢を低くしたまま背中からリュックを下ろした。するすると一本のカーボンロッドを引きずりだし、ぴしっと空気を震わせロッドを振るう。延べ竿式のロッドは真樹士の身長と同じくらいに音もなく伸びた。
「マキシくん、君のためだよ。キャリア二十年の俺が釣りで負ける訳がない」
山臥の
「釣りのキャリアなら……」
鋭い剣を構えるローマの剣闘士のように、真樹士はカーボンロッドを天に突き立てた。
「俺も二十年ですよ」
「これはこれは。お手並み拝見と行こうか」
子供のようにはしゃいでいるのは向日葵だけではないようだ。向日葵は両足をすくうように流れる冷たさを楽しみながら、父と息子程に年の離れているくせにまるで兄弟のように張り合っている二人の男を眺めた。
七人の山臥の中で釣りを趣味として楽しんでいるのは鉄兵だけ。向日葵から見ればかなりがっしりとした体格だが、その足裁きはさすがは往年の山臥。足音も立てずに河原を歩く。
真樹士はと言うと、引きこもりがちな電脳技師のくせに、釣りに関してはやたらうるさい。真樹士は片膝立ちでロッドを構え、少しだけ目を細め、ぴたり、動きを止める。ロッドの先に揺れるルアーが振り子の動きを止めた時、真樹士は腕を大きくしならせた。
ロッドのひゅうと風を切る音が向日葵の耳まで届いた。極細のケミカル合成繊維を束ねたラインが陽の光を反射させ、まるで真樹士が魔法で波打つ光の線を空間に描いているかのように見える。するすると伸びる光のラインの先には、虹のような光彩を放つ小さなスプーン状のルアーが結わえられている。
「……お見事」
その一投を見て鉄兵は思わず呟いた。片膝立ちの姿勢で、真樹士は腕のしなりだけで大きな岩影の裏、絶好のポイントへとルアーを落とし込んだ。光のラインがふわりと水面に落ちる。するとラインは川に溶け込むように光が失われて見えなくなった。
「うまいもんね」
ごつごつと両手のスニーカーをぶつけ合わせて拍手する向日葵。鉄兵と向日葵がじっと見守る中、真樹士は片膝の姿勢を崩さずにロッドを低く寝かせ、くんっと弾くように腕を引く。ロッドは音もなくしなり、弛んだ光のラインをすばやくリールで巻取る。
と、真樹士が動きを一瞬だけ止めた。そして叫ぶ。
「フィッシュ!」
ロッドを強く引き、立ち上がり川ににじり寄る。真樹士の両腕の延長にあるロッドはその中程から急激にしならせて川面を指差すように光のラインをぴんと張った。
「もうヒットしたのか?」
鉄兵が自分の仕掛けを作る手を放り出して思わず真樹士の元に歩み寄った。向日葵も真樹士に駆け寄ろう、とした。
「……」
しかし向日葵は動けなかった。
真樹士がロッドを引き立てた瞬間、川がぴたりと流れを止めたように見えた。きらきらと太陽を写し込む川の流れがデジタルカメラで画像を切り抜いたように動きを止め、白く崩れる波のかけらさえも水の一粒一粒が見てとれた。
踏み付けた足の裏の砂地をさらう程に流れの強い川のはずが、その瞬間だけ鏡みたいに川面に映る空と雲をくっきりと向日葵に見せつけた。まるで時間が止まったように、何もかもが動きを止めていた。
向日葵は思わず息を飲んだ。この一瞬、自分だけが世界からこぼれ落ちてしまったのか。いや、違う。真樹士がいる。この美しく停止した世界の中で、真樹士はそっとこちらを向いて片目をつぶって見せた。そしてすぐまた竿先のラインに集中する。
そして次の瞬間、世界は元に戻っていた。
「ははっ! でかいね、こいつは!」
真樹士がきりきりとリールを巻き、魚との賭け引きを子供のように楽しんでいる。川はいつもの様相を取り戻していた。
「ヒマワリ! 見ろよ!」
川の水が暴れている。岩影から引きずり出された黒い魚影が川面を尾ひれで叩いていた。真樹士はロッドを立てて暴れる魚を浅瀬へと誘い込む。さて、あとはじっくりと疲れさせて取り込むだけだ。陽の光を反射させる川面を割って、身体の側面に並ぶ斑紋模様がよく映えるヤマメが飛び跳ねた。
結局のところ、カーボンロッド装備、最新技術のケミカルライン、ネットで取寄せたまるで工芸品のようなルアーを使った真樹士と、伝統の手作り竿、天然の鳥の羽根仕掛け、エサは川の石底に住む川虫を使った鉄兵と、双方四匹ずつ釣り上げ、この釣り勝負は引き分けとなった。ただ、真樹士の釣り上げた魚は四匹ともすべて腹をぱんぱんに膨らませたたっぷりと太ったヤマメだった。
早速、晩酌の肴となるヤマメ。山小屋の食事全般は、山臥になる前は料亭の板前だった
「シュウジさん、何かお手伝いする事ありますか?」
ほこらで拾ったヒラメをさばいてもらった時の見事な腕前に見とれて以来、向日葵は元板前の修司の包丁さばきを盗もうと調理場に入り浸りだった。
「マキシくんとゆっくりしててもいいのに、いいのかい?」
修司が真樹士が釣り上げた獲物をまな板に供え、腕まくりをしながら向日葵に向き直った。向日葵は柔らかい髪をふるふると横に揺らし、エプロンを身に付ける。
「手伝わせてください。なんか、私だって役に立ちたいんですよ」
かつんと包丁でまな板を一つ叩き、修司は痩せた頬をにこやかに緩ませる。
「じゃあ塩でそっちのヤマメのぬめりを取っていてもらえるかな」
そう言ってまるまると太ったヤマメの腹にぷつりと包丁を突き立てた。そして、向日葵と修司は言葉を無くしてしまった。
「……こいつは驚いたな」
「……川のお魚って、こんなの食べているんですか?」
包丁を刺し入れたヤマメの腹から緑色した物がもりもりと溢れだした。山菜だ。それもかなりの量の新鮮な山菜がヤマメの腹に詰め込まれていた。修司がヤマメの腹に収まっていたフキノトウを手に取り、恐る恐る鼻に近付けて匂いを嗅いでみる。
「生臭くない。て言うよりも、まるで摘みたてみたいだ」
「フキノトウって、今の時期に採れましたっけ?」
向日葵は小さな蕾のような明るい緑色の塊を摘んで言った。修司は首を横に振るだけで答えた。
「おー、いいね。ヤマメの塩焼きにフキノトウの天婦羅としゃれこもう」
いつのまにか向日葵と修司の背後に立っていた真樹士が嬉しそうな声を上げた。向日葵の手から小さなフキノトウを受け取り、山の土の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「ウオのヌシが俺にプレゼントしてくれたんだ。渓流釣りで遊んでた訳じゃないぞ。ちゃんとヌシ同士の情報交換をしてたんだ」
そして向日葵にさりげなくウインク。
「テツヘイさんには内緒な。俺が実力で釣ったんじゃないってばれちまう」
まるまる太ったヤマメはまだ三匹もいる。今夜は豪勢な晩酌になりそうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます