4.Don't tell anyone yet
第9話
「その時、私は気付いてしまったんだ」
嫌に冷たく低いその声は、地を這う重たい霧のようにじわりじわりと身体の中に染み込んでくる。山臥の中でも一際背の高い彼はテーブルに両肘を付けて窮屈そうに背をかがめて、組んだ指先に細い顎を突き刺すように乗せていた。
「彼女はこの部屋にどうやって入ったのか? 鍵は間違いなくかけたのだ……」
不安感を煽る沈黙が置かれる。
「そして、鏡に写る彼女の姿は……」
山臥として山に入れば、普通の生活の中でおよそ体験できない奇妙な現象にいくらでも出喰わしてしまう。そんな山臥達ですら、左太郎の低い声、物静かな仕草、絶妙な間を含んだ呼吸、閉塞感を纏った空気、それらに捕われて儚い物語に取り込まれてしまう。ましてや山に入ってまだ数日の向日葵にとっては未体験の空間だった。
「いったい死後何日経てばあんな姿になれるのか。溶けかけた頬の肉をずるりと歪めて彼女は言った。『やっと気付いてくれた?』と」
「たぅっ!」
いったい何を思えばそんな声を出せるのか。向日葵は両手を上げていきおいよく立ち上がった。
「ごめんなさいっ! 私リタイアッ。もう寝ますっ。おやすみなさいっ!」
向日葵は全員がぽかんとする中、カップの底に残ったすっかり温くなったココアを一息にあおり、やけにぎこちない直線的な動きでテーブルを離れた。
「なんだよ、これからいいとこだってのに」
真樹士はそう言って、立ち上がった向日葵のパーカーの裾をくいと引っ張った。それでも彼女はかまわず突き進み、へそを丸出しにしてまでも寝室へ向かって歩き出した。
せっかく上等なヤマメと山菜が手に入った事だ、と言う訳で山臥達は今夜も酒盛りをしていた。そして怪談話をさせたら右に出る者はいない左太郎の出番となった。しかし、最初のエピソードが語り終わられる前に早くも脱落者が出てしまった。
向日葵はパーカーを引っ張る真樹士の腕を取り強引に立ち上がらせる。
「さあ、マキシくん、もう寝るよ」
「まだ話は終わってないだろ」
と言いつつも素直に向日葵に引っ張られていく真樹士。
「……よし、じゃあこうしようか」
左太郎は話を中断させ、議会に一つの議題を掲げるように片手を上げて場を制する。
「『牛の首』の話をしよう。こいつを聞いたら、今夜はお開きだ。眠っても良いよ、ヒマワリさん」
山臥達のにやけ顔が彼女に集中する。
「うしの、くび?」
左太郎は向日葵にゆっくりと頷いた。
「ああ。新人山臥のタクヤもいるし、ちょうどヒトのヌシ様のマキシくんも山にやってきた事だ。……聞きたいかい? まだ聞いた事ないだろ、……『牛の首』」
ウシノクビ。それぞれ聞き慣れた単語の気味の悪い組み合わせに向日葵は不安げに首を傾げた。牧歌的な想像が恐ろし気な映像に変換されて徐々に頭の中にバケモノの姿が描かれていく。
「よせやい」
そう言ったのは真樹士だ。
「あんな恐ろしい話、俺は聞いた事がないよ。やめてくれよ、『牛の首』の話だなんて」
新人山臥の卓也を除く山臥達の顔が一層にやける。
「なんだ、マキシくんは知っていたのか。……『牛の首』。君が話してみるかい?」
「俺を誰だと思っているんだか。ヒトのヌシが知らない訳ないだろ。悪いが俺も今夜は休むよ。窓の外を監視しないとな」
向日葵はもう何も言わずに真樹士を寝室へと引っ張って行った。そして、ぽつりと一人だけ置いてけぼりを食らった新人山臥、卓也は憮然とした表情で左太郎に切り出した。
「『牛の首』ってそんなに怖い話なんすか?」
「そうか、君は知らないのか。……『牛の首』を」
怪談話に長けた山臥は、ターゲットを向日葵から卓也に切り替えたようだ。
「……ね、マキシくん」
向日葵はベッドに片肘をついて半身を起こし、真樹士の背中にそうっと声をかけた。「なに?」と真樹士は振り返る事なく生返事を返した。液晶ディスプレイが放つ光が真樹士にかぶり、まるで後光を背負っているかのように見える。
「ここんとこ寝る前に必ずPCいじってるけど、何してんの?」
「宇宙人を探しているの」
「私は真面目に質問しているつもりですけどー」
予想外の答えに思わずベッドに突っ伏す向日葵。
「俺も真面目に答えたつもりですよー」
リズミカルにキーボードを叩く音とマウスをクリックする音がようやく止む。くるり、回転椅子をもったいぶって回してこちらに向き直る真樹士。
「深宇宙から放たれた謎電波を解析する謎の民間組織の謎のプロジェクトがあるんだ。謎電波と言ってもそれが単なる太陽フレアの小規模爆発かも知れないし、遥か遠く離れた惑星の知的生命体からの謎のメッセージかも知れない。それを解析するにはスーパーコンピュータレベルの演算能力が必要で有志を募ってパソコンの空きメモリーの……、理解できそう?」
「無理」
あくびをしている向日葵を見つけて、真樹士は軽く肩をすくめて液晶ディスプレイの電源を落とした。
「単純に言えばパソコンを貸し出ししてネットで繋いで演算処理のお手伝いしてるんだ」
真樹士はネルシャツを脱ぎ捨ててTシャツ姿で向日葵のベッドに潜り込んだ。向日葵は身体をずらして彼のためにベッドを空けてやる。仰向けに寝転んだ真樹士はちらりと向日葵を覗き見た。ふと、肘をついたまま半身のままの向日葵と目が合った。
「まだ何か言いたそうだな」
「……リンドウちゃん、出てこなかったなーって」
「百物語の一話目で君がリタイアしたからだよ」
「だってほんとに怖かったんだもん」
怪談話を始めるきっかけを作ったのは向日葵の一言だった。山に捕われている記憶をなくした少女、リンドウ。向日葵は未だ彼女の顔を見た事がなく、声を聞いた事もない。彼女はずっと部屋に引きこもっている。そこで向日葵は一つの提案をした。何か面白い話をしてみんなの笑い声で彼女を部屋から呼び出そう、と。命名、天岩戸作戦。しかし、どこで何を間違えたのか、始まってしまったのは百物語だった。
「慌てる事はないって。すべては関係し連鎖する。原因があって結果が生まれる。それが因果だ。自然の因果の成りゆきに任せよう。リンドウが出てきたいと思ったら、きっと出てくるさ」
枕元の電気スタンドを消そうと真樹士は手を伸ばしたが、向日葵の顔から消化不良の色がまだ消えていないのに気が付いた。
「まだ、何か?」
向日葵と真正面から向き合うように、真樹士も片肘をついて笑顔を見せてやる。「何でも聞いてよ」と言う人の主様の笑顔に、向日葵は伏し目がちに口を開いた。
「……『牛の首』って、どんなお話?」
少しだけ間を置く。
「……聞きたい?」
向日葵ははぐらかすように視線を反らし、それでも切りそろえた前髪が揺れる程度にかすかに頷いた。
「……後悔しない?」
人の主様でさえ怖がる話だ。その恐怖の箱の蓋を軽々と開け放っていいものか。向日葵の前髪はなかなか揺れなかった。伏せられた視線も頼りなく泳いでいる。
「いいよ。話そう。『牛の首』だ」
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