第10話
ぐびりと、二人の男が盃の酒を飲み干す。ずるりと、小粋な音を立てて蕎麦を手繰る。かちりと、徳利と盃が堅い音を響かせる。じわりと、汗が滲む蒸し暑さの夏の盛りの宵のうち。
と来りゃあ、話はおのずと決まってくる。
あるところに一人の男がいた。矢っつぁんと呼ばれるその男は何でも知っていないと気が済まない男だ。それがどんな話であろうと自分の知らない話があると、知ったかぶりしてまで周りに話したがる男。それが矢っつぁんだ。
そんな男が近所の男衆と集まって酒を酌み交わす蒸し暑い夜、お馴染みの怪談話が始まった。
「おい、矢っつぁん。あんた、『牛の首』ってえ話を知ってるかい?」
百物語とまでは行かないが、男達は順繰りに怖い話を披露し、矢っつぁんは一際恐ろしい話を語り終えたばかりで気持ちよく盃を煽っていた。
「……なんだい、『ウシノクビ』って奴は?」
「おいおい、物知りの矢っつぁんが『牛の首』を知らないってのかい?」
さて、矢っつぁんは困った。ここいらの旦那方の中でも、特に怪談話では一番の物知りで通っていた矢っつぁんだが『牛の首』なんて話は聞いた事すらない。
「いやあ、あんな恐ろしい話を俺は聞いた事もねえよ。まさか矢っつぁんが知らないとはねえ」
「『ウシノクビ』が何だって?」
「あんな恐ろしい話を聞いた事がねえな。初めて聞いた奴は三日三晩震えが止まらねえって話だ」
隣の旦那がそう言ってうまそうに蕎麦をずるずるっと。
「だからなんなんだい。『牛の首』ってのはどんな話なんだい?」
「そうさなあ……」
徳利が盃に触れるか触れないかのかすかな音を奏でて、隣の旦那は顎をくいと上げてのど仏をこくりと動かす。
「おい、話してくれよ、『牛の首』を」
「少しは俺にも焦らさせてくれよ、矢っつぁん。こちとらいつもあんたに焦らされているんだからよ」
さあ、どうする。確かにいつも怪談話をしては途中で切り上げて、じりじりと焦らしてやってはその様子を楽しんでいた。まさかこの自分が逆に焦らされるとは思ってもいなかった。
「まあ、他ならぬ矢っつぁんの頼みとあっちゃあ、教えてやらねえでもねえがな」
きょろきょろと隣の旦那は縁台の周りを見回した。蕎麦屋には他にも呑み客が何組か居座っている。矢っつぁん以外に誰か盗み聞きしてやいないか。そして、静かに耳うち。
また、別の日の事。
今度は近所の寄り合いだ。また別の男衆が四人集まって、夏の宵のうちの恒例、怪談話が始まった。
「おい、おまえら、『牛の首』って話を知っているかい?」
さあ、矢っつぁんの出番だ。仕入れたばかりのとびきりの怪談話をこの場で披露しない手はない。両手を揉み合わせ、ついと前屈みになる。つられて周りの連中も自然と額を寄せる。矢っつぁんは縁台を囲むそれぞれの顔をじっくりと眺める。お楽しみの時間だ。今夜はたっぷりと焦らしてやる。
「俺はあんな恐ろしい話を今まで聞いた事ないね」
酒をちびり。
「初めて聞く奴は恐れおののいて、三日三晩は震えて眠れねえって、いやあ、本当に恐ろしい話だ」
さらに酒をぐびり。
そのもったいぶった様子に男衆もじりじりと膝をこするように近付いてくる。
「いいから焦らさないで聞かせてくれよ、矢っつぁん。『牛の首』って奴を」
「そうだ、矢っつぁん。早く話しておくれよ。『牛の首』を」
「おお、俺も聞いた事ないぞ。『牛の首』って話は」
男衆の食い付きの良さに気を良くした矢っつぁんはさらに盃を煽る。
「なんだおまえら『牛の首』も聞いた事ねえのか。あんな恐ろしい話は誰も聞いた事がないぞ」
「いいから早く話しておくれよ、『牛の首』を」
「『牛の首』ってのはそんなに恐ろしい話なのかい?」
「『牛の首』を話してくれるまで酒は注ぎ足さねえぞ」
いよいよ得意になる矢っつぁん。だが、しかし。
「話し上手の矢っつぁんの事だ。まさしく誰も聞いた事がない『牛の首』に仕上げてくれてるはずだ」
今度は矢っつぁん が驚く番だった。男衆がそれぞれ酒を煽り、蕎麦を手繰り、やいのやいのと喋り出す。
「さあ、矢っつぁん仕立ての『牛の首』だ。どんなアレンジが加わってるか、楽しみだ」
「矢っつぁんならではのオリジナル要素があるはずだ。震えて眠れないほどのな」
「ゴシックホラーの中にもポップチューンされたバックボーンがあって……」
「ちょ、ちょっと、何時代よ?」
「なんだい、これからって時に」
ぽかんと開いた口が塞がらない向日葵。真樹士は眠そうにあくびをしつつ、さっさと話を締める事にした。
「と言う訳で、哀れ、物知りをひけらかしていた矢っつぁんは男衆の計略に嵌り、物笑いの種となってしまいましたとさ」
「何話してるかわかんないんだけど」
「それでいいんだ。言葉通り『牛の首』は誰も聞いた事がないんだから」
「確かにそうは言ってたけど」
「言葉遊びみたいなもんさ」
「つまり、全然怖い話でもなんでもない訳?」
「そうだよ。創作落語の笑い話さ」
真樹士はもう一つ大きくあくびをし、本格的に寝に入ろうかと枕に頭を落とした。しかし向日葵がそれを許さない。くいと身を乗り出して真樹士のTシャツの襟首を掴む。
「ちょっと、寝る前にちゃんと説明してよ。意味わかんないって」
「落語のオチを解説させるなんて不粋な事しなさんな、矢っつぁん」
「誰が矢っつぁんよ」
真樹士は向日葵の両手を振りほどいてそっと包み込んで布団の中に引きずり込んだ。そのまま肩を小さくすくめて首まで布団に沈み、枕を頭でぐりぐりと慣らしてまぶたを閉じた。完全に眠りの姿勢を取ってから囁き声で続ける。
「『牛の首』の話は実在しないんだ。ただ、それを知っている者同士の中にあるキーワードがある。『誰も聞いた事がない恐ろしい話』ってな」
「キーワード?」
「うん。ある人が言う。『牛の首』って知っているか? と。それを知らない奴は、はて、と首を傾げるだけだけど、ネタを知っている奴は反応が違う。こう応えるんだ。ああ、あんな恐ろしい話は聞いた事がないってな」
向日葵はベッドの中で首を傾げ続けた。
「で、知らない人を影で笑うの?」
「いいや、言葉遊びの一種だって言ったろ。ある種のゲームみたいなもんだ。知っている人だけ周囲の反応を見て楽しめる。だって誰も聞いた事がないってちゃんと証言してるし」
「なんかいじわるー」
枕に頭を押し付けたまま真樹士はニヤリと悪そうに微笑む。
「その代わりちゃんとルールもあるよ。『牛の首』を知ってるって答えた人は自分なりにアレンジしたオリジナル牛の首の話をするんだ。三日三晩以内に誰かに話さなければならない」
「そんなルールって、話さなかったらどうなるのよ」
「まあ、人偏に牛って書く件、人の顔をした牛の妖怪クダンがやって来るとかなんとか」
「ああ、実はそういう後で来る系なのね」
「対抗ルールもあるよ。話し手に『牛の首』の話をしてって逆に要求する事で、話し手は必ずアレンジ版『牛の首』の話をしなければならないんだ」
「変なの」
「覚えとき。牛の首返し技として有効だよ」
片目を開けてちらりと向日葵を覗く真樹士。
「さて、もう眠ってもいいですかな?」
暗い部屋でパソコンのハードディスクが小さなドライブ音を響かせていた。
「どんな怪談話なんすか、サタロウさん」
一人だけ蚊帳の外状態に放り込まれた卓也にとってはかなりおもしろくない空気だった。あの真面目な純でさえこの環境を楽しんでいるように見えてしまう。
「さあ、どうしようか。本当に誰も聞いた事がない恐ろしい話だからな。『牛の首』って奴は」
と、左太郎の視線が卓也から逸れた。驚いたように顔を引き締めて、それからすぐに笑顔を作って純に向き直る。
「ジュン。天の岩戸が開いたようだぞ。お姫さまをお迎えしよう」
純を含め、山臥達は左太郎の視線の先、自分達の背後を振り返った。
「やあ、リンドウ。君もこっちに来て温かいココアでも飲まない?」
一人の少女が扉から顔を覗かせていた。純が笑顔で彼女を招く。
リンドウはうつむいたまま扉から全身を現した。深い山奥で見つかった時と同じ黄色いパジャマに身を包んだ身体の細い少女。柔らかく真っ黒な髪の毛はわざと乱しているようで、しかし全体としてぎりぎり眼にかからないようバランスが取れているようにも見える。顔が小さく髪の毛が長いためか、小柄な向日葵よりも首が長く見え身長も大きく見える。
「……こんばんは」
かすれた声。ぺこりと頭を下げ、ちょこんと純の隣に座る。アーモンドを横に並べたように大きく形の整った瞳が山臥達全員を見回すようにくるりと回った。
「それじゃあ、リンドウさんも参加した事で、とっておきの話をしようか。そうだな、『ヒタヒタ』なんてどうだろう?」
左太郎がぱんと一つ手を叩いて場を引き締めた。
「で、『牛の首』はどうなったんすか?」
卓也はけっこうしつこい性格をしていた。しかし、却下。
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