第17話
『……でたか…、……ジュ……さわ……ってい…』
純は耳の中にスマートフォンをねじこもうとするかのように小さな機械を耳に押し当てていた。ノイズとともに飛び飛び聞こえて来る真樹士の声は、電子的に歪んだ五十音をランダムに並べただけにしか聞こえず、解読はもちろんの事、双方向通信もできなかった。はたしてこちらの声が正しく向こうに伝わっているかさえ疑問だ。
「すみませーん、マキシさん。こ、ち、ら、か、ら、か、け、な、お、し、ま、す、ん、でー」
通じたかどうか。純は役に立たない薄っぺらい機械を胸ポケットに収めた。谷間の山域にいるせいか、電波がまったく届かずメールの送受信さえできない。
「せめてメールくらい届けばいいんだけど」
そう一人呟いて、純は兼之とリンドウに向き直りながら背中のザックから使い込まれた色合いのロープを取り出した。
「ちょっと樹に登りますね」
樹に? リンドウが柔らかく首を傾げる。
兼之も自分の携帯電話を折り畳み、ポケットにしまいながら頭上を見上げた。ここら一帯は杉の樹が密集して立ち並んでいる。杉の太い幹の隙間から狭い空を見上げると、まるで杉の樹が青い天井を支えているかのように見えた。ここは峰に挟まれた谷間。狭い空は山の壁に囲まれている。
「カネユキさん、リンドウを頼みます」
純はトレッキングシューズのつま先を二度強く地面に突き立てた。すると厚い靴底から金属のスパイクが鋭い音を立てて現れた。適当に太く育った杉に歩み寄り、右脚を大きく振りかぶって幹に突き立てる。靴底のエッジが幹をがっちりと噛んだ。
「君の事だから問題ないとは思うが、一応、気を付けて」
兼之は腕組みをしてその杉から離れた。
「いってきます」
くるり、ロープを幹に回して手首に巻き取って長さを調節する。びしっと音が立つほどに強く張り、自分自身に一つ頷くとそのロープを手繰り寄せるようにして一気に左足を振り上げた。ロープがぎしりと唸る。
靴底の鋭いエッジが樹の幹に食い込み、純は両手のロープをさらに高い位置に持って行き身体を持ち上げる。同じ要領で右足で樹の幹を蹴り、さらに高みへするするとリズムに乗って登っていた。
「うまいもんだ」
思わず呟く兼之。上を見上げてリンドウもそれに倣う。
「うまいもんですね」
あっと言う間に見上げる首の角度はきつくなる。
「お猿さんみたい」
と、リンドウは大きく目を瞬く。
「あ、お猿さんとお侍さんって、何か似てますね」
そして言ってしまってからあまり似ていないのに気付いたか、少し恥ずかしそうに俯いた。
「ごめんなさい。今のナシ」
兼之は目の前に存在する自分自身の事を何も覚えていない少女に、諭すようにできるだけゆっくりと語りかけた。
「さっきのお侍さんの話かい?」
「お侍さんの?」
「ほら、山にぽつんと一本だけ桜の樹があるのは、そこが侍の無縁仏の墓だって話さ。桜はそもそも山に自生していないからね」
少女はほんの少しの間を置いて慌てて秋咲きの桜の樹から離れた。
「ごめんなさい。踏んじゃった」
誰に謝ったのか。兼之か、侍か。リンドウは桜の樹に頭を下げた。
そしてリンドウが黒髪をさらりと流して頭を上げた時、兼之は誰かに背後から影を踏まれたような、体温が少し下がるような、どうしても真正面を向けない居心地の悪さを感じ取った。
誰かが、何かが、こちらを見ている。
純は張り出した枝を器用にすり抜けて、薄青の空が十分見晴らせる高さにたどり着いてから胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
大丈夫。アンテナは三つ立っている。この谷間にも音声が途絶え途絶えだったがかろうじて電波は届いていたのだ。おそらく真樹士が中継ポイントをこちらへ移動させたのだろう。
純は太く水平に張り出した枝を選んで跨ぐように腰掛け、真樹士の電話へ折り返した。コール音を聞きながら下を覗き見る。森を遮るように伸びた木の枝が邪魔をしてリンドウの姿どころか地面すら見えなかった。
『ジュン? よかった。うまく繋がらなかったから心配したよ』
二回目のコール音が終わる前に真樹士の明瞭な声が聞こえて来た。
「全然声が聞こえなくって、ちょっと樹に登って電波を拾いました」
『よし。いいか、現状を説明するから好きに解釈してくれ』
真樹士らしい言い回しに純は空に向かって頷いた。
『ジュン達はちょうど深い峰の陰にいるみたいで、俺からの電子的なフォローは全然できない位置にいる』
「みたいですね」
純は改めて周囲を見回した。樹に高く登っているとは言え、純の周りは緑しかない。見渡せる範囲すべてが緑に覆い尽くされている。ここは完全に山の中だ。ヒトが覚悟もなしに踏み入ってもいいトコロではない。
『情報その一。ヒタヒタが現れやがった。ヒマワリとゲンさんが遭遇した。もちろん二人とも無事だ。そっちにも出るかもしれない』
「ヒタヒタですか。ずいぶん久しぶりですね」
ヒタヒタ。成仏できずにさまよう死者を消去する役割を持ったモノノケだ。過去に起きた大地震の時もヒタヒタが山を徘徊したのを覚えている。純自身もそのモノノケに遭遇し、恐怖を体験した記憶がある。
「どこかで大きな災害でも起きたんですか?」
『いや、不思議な事だが好き勝手に山を歩き回っているっぽい。何かが変だ。そして情報その二。銀行強盗犯も勝手に山に侵入しやがった』
純は今朝のラジオのニュースを思い出した。猟銃を持った銀行強盗が一人、地元警察の懸命な捜索にも関わらずまだ包囲網に引っ掛かっていない、と。山に入っていたのか。見つからないはずだ。
「ヒタヒタと銀行強盗ですか。嫌な組み合わせですね」
『けっこういやらしいコンボだ。で、情報その三。その銀行強盗の物と思しき携帯番号電波がそこのすぐ近くで見つかった。移動距離にして十分とかからないポイントだ』
純は思わず周囲を、そして足元を見回した。鬱蒼とした森の中、どう首の角度を変えても杉の枝葉しか見えない。それは何も見えていないに等しい。
「けっこうシビアな状況ですね」
『かなーりシビアだ。テツヘイさん達が戻ったらすぐにフル装備で迎えに行かせるから、おまえはリンドウを最優先で守れ。一番近い三の峰の山小屋へ避難しといてもらえるか?』
「了解しま、し……」
『どうした? 聞こえたか?』
……何かがいる。
「マキシさん、ちょっとやばそうです。すいません。避難小屋着いたらまた電話します」
何か真樹士が言いかけたが、純は通話をシャットして沈黙と静寂を取り戻した。
背筋が冷たくざわつくこの感覚。妖怪ヒタヒタではない。もっと悪意のある意識が根底に渦巻いている視線だ。しかも、周り中から感じられる。いつのまにか、囲まれていたようだ。
「なかなかシビアですよ、マキシさん」
スマホを胸ポケットにしまい、木の枝を跨いだまま腰に装備していたアウトドアナイフを音を立てずに抜く。今日はリンドウを伴った秋咲きの桜を眺める散歩だったので、鋭い金属の武器はこれしか持っていない。刃渡り十五センチはあるナイフをそうっと口にくわえた。磨き油の鉄臭い苦い味が広がる。
「……サル、かな」
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