第3話

 森のほこらからさらに小一時間程なだらかな山道を歩くと、深い緑が開けてようやく人工物が見えてくる。山臥達が暮らす山小屋だ。ハイキングには厳しく、登山には易しい道乗りだったが、日頃から運動不足気味の真樹士が汗だくになるには十分過ぎる行程だった。


「やっと着いたか。俺達のスイートホームだ」


 真樹士が大きなため息をついて背中のリュックを担ぎ直す。文明社会から離れてはや数時間。早く電子の世界に飛び込まないと心の底まで乾ききってしまう、とスマートフォンを見る。大丈夫、アンテナはちゃんと三本立っている。自分が配備したネットがきちんと機能している事を確認し、少し潤う。


「よし、中継基地に異常なし」


 そんな真樹士の内心を知る由もなく、向日葵が彼の肩を叩く。


「マキシくん、誰かいるよ」


 真樹士がスマホから顔を上げる。丸太で組まれた山小屋の階段に一人の若い男がライフルを片手に腰掛けていた。


 髪を長く伸ばしてさらりと流し、くすんだブラウンに染め抜いている。左の耳には連なったピアスが夕日に輝いていて、やや顎を突き出すようにして階段の上から真樹士と向日葵を見下ろしていた。


 男はついと大きな身振りで立ち上がる。向日葵よりも頭二つ分大きな身体は、だぶついたパーカーの上からでもよく鍛えられているのが見て取れた。


 真樹士には見覚えのない顔だった。と言う事は、まだ顔合わせをしていない七番山臥の新人か。確か、名前は卓也。


「やあ、君がタクヤくん、かな?」


 答えは解りきっていたが、真樹士は彼のリアクションを見たくてわざとすっとぼけて切り出してみた。敵意とまでは言わないが、卓也が真樹士を見る目付きは、山臥が人の主を見やる本来のそれとは違う意味の光を持っていた。


「そうっすよ。あんたが新しいヌシ様?」


「そ。マキシだ。よろしく。こっちはヒマワリ」


「こんにちは、よろしく」


 向日葵が真樹士の後ろにぴったりとくっついて軽く頭を下げる。卓也は頭を下げると言うよりも、礼のつもりか顎を前に押し出すような仕種をした。


「いいっすね、ヌシ様は。女人禁制の山に女も連れ込めて」


 だらりと靴紐が緩んだトレッキングシューズを叩きつけるようにして、わざとらしく堅い靴音を響かせて階段を降りて来る卓也。手にしていたライフルを大きく振り回して肩に担ぎ、真樹士の目の前に対峙する。


 真樹士は先代の主を捜索していた時の卓也とのやりとりを思い出して、自分よりも背の高い卓也の顔を見上げる。


 軽く恥をかかせてやったのをまだ根にもっているのか。肩をすくめて見せる真樹士。


「細かい事気にするなよ。足元すくわれるぞ。ゲンさんいるか?」


 真樹士は強い視線を真正面から叩き付けてやった。見下ろすようにして卓也はそれに応える。視線をぶつけあわせたまま顎で背後の山小屋を指した。


「奥にいるっす。ヌシ様のご命令なら呼びましょうか?」


「自分で探すよ。着いて早々だけど大事な話があるんだ。こいつも新鮮なうちにさばいてもらいたいし」


 真樹士は小さなコンビニ袋にねじ込んだ二枚のヒラメを卓也に手渡した。ビニール袋よりも大きなそいつが跳ねる度に白い袋をがさがさと言わせて、はみ出た尾びれがぴちぴちと卓也の手を叩いた。


「シュウジさんに渡してくれ。今晩こいつで一杯やろうって」


 真樹士はそのまま卓也の脇をすり抜けて山小屋の階段に足をかけた。向日葵もそれを

に倣おうしたが、思い出したかのように卓也の前に立ち、くいと首を上げて彼を見上げた。しかしちょっと近過ぎたか、首の角度がきつい。一歩下がる。


「女人禁制の山だってのは知っている。でもね、あんた一つ勘違いしている」


 向日葵は細く白い人差し指を突き出してやる。その整えられた爪を見ながら卓也はわざとらしく首を傾げた。


「私はオンナじゃないの」


 自分の下腹にそっと手を添える向日葵。ここに、小さな命が宿っている。


「私はすでに人のヌシ様と同体なの。つまり、山の一部なの。山を穢すような目で見ないでちょうだい」


 真樹士がそうしたように、彼女もするりと卓也の脇をすり抜けて真樹士と肩を並べた。


「お恥ずかしながら、ま、そういう事」


 真樹士は卓也に振り返らず背中越しに手を振ってゆっくり階段を昇った。トレッキングシューズの堅い靴底のせいで、ごとっごとっと階段を叩く音が嫌に大きく聞こえる。二人分の足音が扉の向こうに消えるまで、卓也は山小屋に背中を見せたまま動かなかった。


 やがて山はいつものように静まり返る

った。そよ風に木の葉が一枚一枚擦れあう音しかしない、さわさわとした森の静寂が辺りに染み渡る。しばらくして、舌打ちを一つ残して卓也は自分の仕事、山小屋の番に戻ろうとした。しかし、それはできなかった。


 足が動かない。


 まるで地面に縫い付けられたように足が持ち上がらず、卓也はバランスを崩して派手に尻餅をついてしまった。靴が異常に重い。何事かと卓也は足元に目をやった。


「……なんだよ、これは」


 思わず声が漏れる。


 いつのまにか両足の靴紐が解けていて、それぞれ地面の雑草にきつく結わえられていた。

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