2.Talking with unidentified

第5話

 墨を溶かしたような薄暗い部屋。明かり取りの窓はブラインドで塞がれ、さらにそこへひと昔前に流行った美少女ゲームのポスターを重ね貼り。太陽の光なんてこれっぽっちも必要ない。


「さあ、腕の見せ所だな」


 男が一人、誰に言うともなく呟く。暗い部屋に眩しい光を投げかける液晶ディスプレイの周囲に、さまざまな色の髪を艶やかに躍らせるフィギュア達が惜し気もなく肌を露出してなまめかしいポーズでご主人様を見上げている。


「今ここから、伝説が始まる」


 狙いは霊山、洛朱九崚。座王連峰の神格小規模サーバー。今まで何人ものハッカー達が侵入を試み、そして抵抗し難い不可思議な力に阻まれて、未だ誰も踏破した事のないまさに前人未到の電子の秘境だ。


「史上最強のスーパーハッカー、アナイデンティファイド様が山に舞い降りる!」


 男は湾曲したキーボードを柔らかく撫で回す。すると自由に輪郭を歪められるシリコンキーボードは男の指先に馴染むように少しだけ膨らんだ。


「今ここから、UID《アナイデンティファイド》の伝説が始まる!」


 もう一度、観客などいない仄暗い舞台で、男は声を張り上げた。



 

 薄暗い部屋。窓からは小さな光が漏れている。木漏れ日のような、和紙で仕上げたちぎり絵を陽に透かしたような、そんなかすかな光。まだ夜が舞台を去るには早いのか、部屋はぼんやりとしたほのかな暗闇が漂っていた。向日葵はベッドの上でまぶたを半開きにして部屋を眺めていた。


 隣にあるべき真樹士の身体はなく、寝室のパソコンデスクに座る彼の姿が薄明かりにおぼろげに浮かんで見える。


 そろりとベッドに手を這わす。すでに温もりは抜けているようだ。だいぶ前に真樹士はベッドから抜け出したのか。


「マキシくん、もう、朝?」


 窓の向こうは未だ暗い。まだ夜だと解りきっているが、少し意地悪してやる。


「あ、起こしちゃったか? もう七時だよ」


 真樹士は振り返らずに答えた。


「ウソ。まだ暗いもん」


 向日葵は少し身体を起こして、ベッドに肘をついて真樹士の後ろ姿を見つめた。部屋に漂う空気は寝起きのTシャツ姿にはまだひんやりと冷たい。カーテンの隙間から見える窓の外の暗さから考えて、もう午前七時と言う事はないだろう。まだ夜明け前のはずだ。


 真樹士はカーゴパンツにTシャツの重ね着、いつものイエローレンズのサングラスと言うラフな部屋着でパソコンに向かっていた。


「……何してんの?」


「誰かがサーバーに侵入しやがった」


 だからこんな夜中に起きだしたのか、と、向日葵は本格的に二度寝モードに切り替えて毛布に潜り込んだ。しかし真樹士ののんびりとした声がそれを許さなかった。


「起きろ起きろー。ほんとにもう七時だよ。山臥のみんなはとっくに山の見回りに出ている時間だよ」


 毛布からひょっこり小さな頭を出す向日葵。さっきよりまぶたはだいぶ軽くなったが、だからと言って窓から朝日が溢れだす事はない。七時と言われても暗いものは暗い。眠いものは眠い。


「侵入って、何かまずい事でも?」


「いいや、今までのような遊び半分のハッカーじゃないってくらいしかわからないな。今回は様子見ってところかな。泳ぐ前にプールの深さを調べてるってとこか」


「ふうん。そう」


 向日葵は真樹士の言葉を半分聞き流してベッドから抜け出した。背伸びをするように大きな欠伸を一つして、すらりと細い腕を伸ばして窓のカーテンに手をかける。


「慎重さに欠けるけど、なかなか面白味のある奴だ。また来たら存分に泳がせてやるよ。子供用のプールじゃなくて、何が潜んでいるかわからない海でな」


 真樹士はお茶のペットボトルを傾けながら、向日葵の滑らかな曲線を描く細い後ろ姿を眺めた。そんな真樹士を気にもとめず、向日葵は外の様子を覗こうと、カーテンの隙間から黒く塗り潰された窓に顔をそっと近付ける。恐る恐る視線を右へ、左へ。


「大丈夫。あいつらは昼間は出てこないよ。そもそもあんな近くまで飛んで来る事が珍しい」


「べ、別に怖がってる訳じゃないよっ」


 慌ててぴんっと姿勢を正す向日葵。真樹士はパソコンの前を離れて直立不動の彼女の隣に立った。さあっと半開きだったカーテンを一気に開け放つ。


「ラフカディオ・ハーンだっけ? 小泉八雲か? 生首が飛び回るなんて怖い話書くよな」


「あいにく私はお化けに興味ないの」


「お化けじゃないよ。レアな自然現象を具現化した妖怪だよ」


「おんなじよ」


 本当にいないんだろうね、と向日葵は窓の外の暗闇にじっと目を凝らす。はっと気付く。これは違う。窓の外が暗い訳ではない。


「何、これ?」


 細かい何かが隙間なく窓を覆っていて、それが朝日を遮って部屋に光が届いていないようだ。薄い布を幾重にも重ねたその向こうに眩しい朝日が降り注いでいるような、真っ黒い中にもそんな透明感がある。


「ああ、ヒマワリが怖がらないように、窓を塞ぐよう頼んでおいたんだよ。夜のうちに生首達が君を珍しがって覗きに来るかも知れないしな」


 真樹士は頭一つ小さな向日葵の柔らかな髪をぽんぽんと撫でた。彼女の髪の毛は細く、しなやかだ。寝癖もあまりつかず、自然に上から下へと流れている。


「頼んでって、ジュンくんに?」


 向日葵は窓に鼻先を近付けた。布や板で窓を塞いだ訳ではなさそうだ。小さな何かがびっしりとガラス面を埋め尽くしている。外がだいぶ明るいのか、じっと見つめていれば、そのたくさんの何かがかすかに動いてほんの小さな隙間から陽の光が透けてくるのがわかる。


「いや、ムシのヌシに」


 真樹士がガラスをコツンと小突く。


 その途端に窓ガラスを覆い尽くしていた何百、何千匹もの蛾の群れが飛び立った。もうもうと煙りがうねるがごとく、蛾の塊があたかも一匹の巨大な軟体生物であるかのように窓ガラスから飛び去った。


 目の前の蛾の壁が崩れ去り、白い朝日がコーヒーに溶けるクリームのように染み渡る。さまざまな羽根の模様が集合してまるで一枚のモザイクアートのように形を変えて、羽ばたきの音もなく蛾達は森の奥に姿を消した。あれだけの数の蛾が呼吸する間もないほんのわずかな時間で静かに森へ溶け込んでしまった。


 と、真樹士の隣で猫のように彼に身体を預けていた向日葵の姿も消え失せていた。振り返ると、ベッドが人間一人分膨らんでいる。


「……どうしたの?」


「虫嫌いっ! 特にガは超嫌いっ!」


 ベッドの膨らみが甲高く叫ぶ。


「じゃあ次から蛾じゃなくて蝶々に頼むよ」


「そういう問題じゃないっ! 虫大っ嫌いっ!」


 ひょっとして、新婚早々に別居も時間の問題かも知れない。真樹士は向日葵を説得してベッドから引きずり出すのに小一時間要した。

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