第6話

「ジュンくん、そういえばさ……」


 向日葵が朝食の食器を水洗いしながら、隣に立つ純に軽い口調で尋ねた。


「リンドウちゃん、朝ごはんに起きてこなかったね」


 今日の空模様を聞くような、あっさりとした向日葵の問いかけに純は彼女がいったい何の事を言っているのか、すぐには理解できなかった。


 人の主としての能力は勿論の事、山臥としての役割などもない向日葵にとって、山小屋の一員でいる以上何らかの仕事がなければどことなく居心地の悪さを覚えてしまう。せめて家事ぐらいは、と向日葵は自ら申し出て炊事洗濯掃除などを手伝う事にした。


 本日の朝食の後片付け当番は純。向日葵は純と二人きりの時にずっと気になっていたリンドウの事を聞いてみた。


 真樹士からリンドウと言う女の子を山小屋で保護していると聞いていた。リンドウ事件の詳細までは聞かされていないが、男だらけの山臥達の中にたった一人の女子高生がいる環境を考えると、同じ女性である自分にも何かリンドウの為にできる事がありそうに思える。


「ああ、リンドウですか?」


 食器洗い機にパズルのように皿を並べる手を休めて純は向日葵の方を向いた。向日葵は軽くすすいだ茶碗を純に手渡そうとして、彼がこちらをじっと見ているのに気付き、空いた手を水道の蛇口パネルにかざした。ふっと消えるように蛇口から流れるお湯が止まる。人里遠く離れた山小屋は何の物音もなくなり、ただでさえ無音の山がさらなる静寂に包まれた。


「うん。ほらさ、……マキシくんからちょっとだけ話は聞いていたんだけどさ」


 急に静まり返ってしまい、向日葵は自分の声の大きさにびっくりした。ゆっくりと内緒話でもするかのように声量を細めて言う。


「こんな場所に女の子たった一人でさ、私がいれば何かと話やすいかなって思ったんだけど、朝食に出てこなかったから具合でもよくないのかなって思って」


「……マキシさんは何て?」


 純は真っ直ぐに向日葵を見つめている。若く精悍な男性の純粋で透き通った視線に、思わず照れて顔を背けてしまう向日葵。水道パネルに手をかざして、わざとじゃぶじゃぶと音を立てて食器洗いを再開する。


「山から出られない女の子がいるってだけで、詳しくは教えてくれなかった」


「マキシさんがそう言っているなら、たぶんそれだけで十分な情報なんだと思います」


 純は向日葵から茶碗を受け取って食器洗い機の皿と皿の隙間に丁寧に収めた。そして向日葵に向き直り、自分が言うべき言葉を頭の中で組み立ててから少しだけ間を置いて答えた。


「彼女、部屋からほとんど出て来ません。それに、山で何があったのか、何も覚えていないみたいなんです」


「よっぽど怖い目にあったのね。可哀相に」


 向日葵は最後の食器を純に手渡して、エプロンで手を拭きながら炊飯器の中を覗き込む。ぱくんと蓋を開けると、今朝炊いたばかりのごはんが柔らかな湯気を上げた。


「おにぎりでも作ってあげようかな」


「ヒマワリさんて家庭的なヒトですね。フリーライターって聞いていたから、もっとこう、働く女性ってイメージがありました」


「良い事言うねー。おだてるとお姉さん調子に乗っちゃうよ。ごはんずいぶん残っているからみんなの分もおにぎりも作っちゃうか」


「あ、待ってください」


 純が手早く食器洗い機を起動させ、ひょいと首を伸ばして炊飯器を覗き込む。山臥達の体力の源、炊飯器の大きなお釜の底は未だ見えず、ほくほくとした艶のある白いごはんが蒸気の向こう側にたっぷりと見えた。


「お茶碗一杯分くらいは残しておいてもらえます?」


 向日葵は純とごはんを交互に見比べて首を傾げた。柔らかい髪がさらりと頬にかかり、それをかきあげて純に尋ねる。


「朝ごはん足りなかった?」


「いいえ、ルールです」


 頭の上にクエスチョンマークが浮かんでしまう向日葵。ルール。国際電子炊飯器協会設定の世界共通ルールとかあっただろうか。炊飯器にごはんは残しておかなければならない。純のオリジナルルールなのか。


 首を傾け続ける向日葵の様子から、純は会話がうまく噛み合っていない事に気付く。向日葵と同じ角度に首を傾げてゆっくりと言った。


「マキシさんから山のルール聞いてませんか?」


「聞いてないよ、そんなの」


 純はハァと軽くため息をつき、両手の人差し指をそれぞれのこめかみに持ってきて眉間に少ししわを寄せる。世界中の誰が見ても解る、困ったなあ、のポーズを取った。それを見て向日葵も腕を組んで右手を小さな顎に添え、同じく、困ったわね、のポーズを取った。


「マキシさん、そんな大事な事も教えていなかったなんて」


「そんなやばいルールなの? ごはんを残しておかなければイエローカード?」


「いや、ごはんに限らず……」


 純はぴんと人差し指を立てもう片方の手を腰に当て、今度は世界中の誰が見ても解る、人にモノを教えるポーズを取った。いちいち解りやすい子だな、と思わず吹き出しそうになる向日葵。


「山には山のルールがあります。マナーと言うよりも厳格で、法律と言うよりも直感的です」


「たとえば?」


 純は人差し指をぐっと握り込み、また一本ずつ指を立てながら説明を始めた。


「一つ。山では食べ物を食べ尽くしてはいけない。少なくとも一口分は残しておく事」


 向日葵は炊飯器を見つめた。液晶パネルがごはん残量と保温時間を表示している。


「二つ。山に入ったら必ず刃物を携行する事。眠る時も肌身離さずに」


 刃物と言われて向日葵の頭にまず包丁が思い浮かんだ。炊飯器の次は包丁に目をやる。眠る時も包丁を握れと?


「三つ。人の真後ろから声をかけてはいけない。真後ろから名前を呼ばれても返事をしてはいけない」


 思わず背後を振り向いてしまう向日葵。もちろん誰かいる訳でなく、食器洗い機がむんむんと静かなハム音を立てているだけだ。


「四つ。山の中で物をなくしても絶対に探してはいけない」


 昨日、ほこらにお供えしたポテトチップスを思い出す。中身だけ消え失せて風にも飛ばされずにぽつんと残された空っぽの袋。いったい誰が持って行ったのだろう。


「以上、四つのルールです」


 人差し指から小指まで立てた純がにこっと締める。


「登山のマナーとも思えるけど、何か特別な理由はあるの?」


「守らなければ危険なだけです。特別な理由はありません」


 会話の流れから想像していなかった単語が向日葵の耳に飛び込んできた。


 キケン。


 普段から聞き慣れている単語なはずなのに、いやに輪郭が鋭くて触れてしまったら皮膚が切れそうな音に聞こえた。


「キケンって、もしもルールを破ったら、いったい何が起こるの?」


 少し困ったように両手を上げて、世界中の誰もが解るお手上げのポーズを取る純。


「まだ誰もルールを破った事がないのでわかりません」


「なるほど。それは危険だわね」



 

 向日葵は炊飯器の中におにぎり一個分のごはんを残し、ごましおと海苔のおにぎりを作れるだけ握った。そしてその中から小さめのを二個選び、浅漬けとたくあんを数切れ添えて皿に盛り付けてラップをかける。


 とんとんと向日葵自身の存在をアピールするように足音を立てて二階に上がり、純が教えてくれたリンドウがいるはずの部屋の扉の前に立った。ドアノブに手をかけようとするが、少し戸惑うように伸ばした手を泳がせ、ノブには触れずに優しいノックをした。返事を待つが、はたして彼女は眠っているのか、衣擦れの音すらしない。


「リンドウさん、ヒマワリです」


 やはり返事はない。山小屋は静かなままだ。


「おにぎり置いておくから、お腹空いてたら食べてね」


 そうっとノブを回して扉を開け、ちらり、部屋の中を覗く。カーテンが閉められ、その隙間から陽の光がこぼれて部屋は薄明るかった。手紙を書くくらいしか仕事ができなさそうな小さなテーブルがあり、人が中に隠れる事もできなさそうな小さなクローゼットも見えた。そしてベッドの布団が少しだけ膨らんでいる。


 向日葵はおにぎりの皿とお茶をのせたトレイを静かにテーブルの上に置き、それ以上リンドウが寝ているであろうベッドの方を覗き見るのをやめた。


 何故か、自分から彼女に会ってはいけないような気がした。リンドウの方から声をかけてくるまで待つ事にしよう。向日葵は静かに部屋を出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る