第13話
頬には暖かな光が降り注ぎ、髪には柔らかいそよ風を感じる。秋が深まりつつあるとは言え、山は心地いい空気に包まれていた。しかし、目を瞑るだけでこうも恐ろしく変わるのか。
すぐ側に山臥達の長、現治朗がいる。耳にはスマートフォンから真樹士の声。何の心配もいらないはずなのに、脚の震えが止まらない。スマホを持つ指が自分の物とは思えないくらいに言う事を聞かない。
ほんの数分前、現治朗が険しい声を上げた。それと同時に向日葵の耳にもあの音が聞こえた。しっとりと濡れた布を岩肌に貼付けるような、水浸しの裸足で忍び足をする音。
決して振り返ってはいけない。
今まで聞いた事もない現治朗の厳しい声に従い、目の前の森の小径をじっと見つめたまま真樹士へ電話をかけた。
真樹士と電話が繋がった途端、背後に迫った濡れた足音が止み、どうしようもなく恐ろしくて震えが止まらなくなった。すぐ息がかかる程近くに何かとてつもなく恐ろしいモノがいる。自分を形作る小さな肉体なんて一瞬で破いてしまいそうな、どす黒い力がすぐ後ろで忌わしい足音を止めた。
膝が砕けてしまいそうな程に震えている。自分の意志ではこの震えを克服できそうにない。スマホからの真樹士の声を聞いても、どこか遠くから聞こえてくるテレビの音みたいにまるで現実感がない。
『いいか、ヒマワリ。目をしっかりつぶったまま俺の言う事をよく聞けよ。ゲンさんは大丈夫、心配しないの。今は自分の身を守る事だけに集中するんだ』
スマホから優しく届く電子的な声が向日葵の固く強張った心をほぐす。
『後ろからついてくる足音、そいつはヒタヒタだ。俺が知っている限り、かなり厄介なモノノケだよ』
現代社会に暮らす向日葵にとって、あまりに聞き慣れない単語が耳に飛び込んで来た。不意を突かれて頓狂な声を上げてしまう。
「モノノケ?」
『妖怪だよ。まあ、モノノケの定義については後回しだ。今はそいつを追っ払う方法を教える。大人しく言う通りにしろよ。かなりおっかないからな』
真樹士の声は明るかった。明日のデートの約束をするような、そんな弾んだ声色を作っているのがよく解る。
「オーケイ。やってみるよ。すごく、怖いけど」
もう濡れた足音は聞こえない。ただ、押し潰されそうな重たい気配が背後にあるだけだ。ざわりと首筋にかかる獣の吐息。大きな鼻の穴から吐き出される唸り。自分の命が途切れかかっているのを背中を伝わり落ちる冷や汗が語っている。重々しく刺々しいプレッシャーでスマホを持つ手がかたかた震える。
『ゲンさんの事はとりあえずこっちに置いといて、声もかけるなよ。ゲンさんも今まさにヒタヒタと戦っているんだ。俺が言った事以外何もするなよ』
「う、うん」
『ヒタヒタの正体はヒトの背後に取り憑く小さなモノノケだ。音を立てるくらいしか能がない、臆病な小物だ』
こうしてスマホで話している間にも、今まさに向日葵の後頭部の向こう側で唸り声が聞こえる。目をつぶった暗闇の中、その音だけが現実味を増して大きくのしかかってくる。
『だけど、そいつはそれしか能力を持っていないが故に、最も恐ろしい食欲を持ったモノノケなんだ。不意に後ろから名前を呼ばれて振り返れば、後頭部のヒタヒタと目を合わせてしまい、食われるだけだ』
「妖怪に食べられちゃうんだ。この科学万能な時代に」
向日葵は強がってみせた。ふんと鼻を鳴らし、胸を張る。
『人を怖がらせる実力に関しては凄腕だ。逆に言えば、それしか出来ない臆病な奴だ。ヒタヒタを追い払うには、目をつぶり、決して目を開けずに振り返り、そいつに触れてやる。それだけでいい。あっと言う間に恐怖がどこかにふっ飛んでしまう』
急に周囲の温度が何度か下がったように感じられた。目をつぶったまま、振り返り、背後にいる化け物を手で触る? ただ、こうして立っているだけで震えが止まらないと言うのに?
『できるか、なんて言わねえぞ。やれ。やるしかないんだ。目をつぶったまま、ゆっくりと振り返り、手を伸ばし、目の前にいるソレに触る。それだけでいい。奴は思いきり怖がらせて邪魔をするだろう。だが、目を開けなければ奴の姿を見なくて済む。恐れる必要はない』
「触ればいいのね?」
『うん。触れば、嘘みたいに怖くなくなる。それがヒタヒタを追い払った合図だ。あとは目を開けてもいい』
「怖くなくなるのね?」
『そうだ。安心しろ、君ならできる』
目をつぶったまま、ゆっくりと振り返り、手を伸ばし、目の前にいるソレに触れる。それだけの事だ。数秒で終わらせられる。
「うん、わかった。応援よろしく」
『がんばれー』
「なんつーか、もっとこう、愛のこもった言葉が欲しい」
『そんだけ軽口叩けるなら大丈夫だな。さっさとやっちまえ』
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