第31話
『びっくりした。まさか飛び乗ってくるなんて。ヒマワリ、痛いところはないか?』
車のオーディオが真樹士の声で喋った。
「わ、私は平気。テツヘイさんもちゃんと立てるみたい。あ、待って」
ぐったりと力なく横たわっている男の脚がびくりと跳ねた。おおよそ人の動きではありえない、脚と腕の力を使わず腹筋だけで上半身を持ち上げる不自然な起き方をする男。右肩と首がだらりと後方に垂れ下がったまま、今度は上体を垂直に立てて機械のような直線的な挙動で膝を立て、飛び跳ねるように立ち上がった。
「あいつ、まだ動いている。マキシくんからは見えている?」
『フロントカメラが潰れちゃったけど、ちょうど道路標識の監視モニターがあるからそこから見ているよ』
「あ、こっちに来るよ!」
『大丈夫。そのまま、絶対車から降りるなよ』
路面に叩き付けられた衝撃で、肩は外れて力なくぶら下がり、右腕は折れてありえない角度で捻じ曲がっていた。身体を右に傾けるように、一歩足を進める度に肉体が歪んでだらりと揺れる。それと、忌まわしく捻れた首。星空を仰ぎ見ているかのように後ろに大きくのけぞって顎だけが向日葵の方を向いていた。
猿の主はぶるぶると身体を振るって、支えを失ってしまった頭を前に持って来た。がくんと胸に垂れ下がるように前のめりになり、ひどく上目使いに向日葵を見つめた。ヘッドライトの明かりがぬらぬらとした割れた後頭部を照らす。
「何なのよ、あいつ。まだ動けるの?」
両手で口を覆って向日葵は呟いた。猿の主はまだ動く左腕で自分の頭を鷲掴みにして持ち上げ、大きく見開いた両目で向日葵の顔を見据えた。
「おっと、おまえの相手はこっちだぞ」
鉄兵が猿の主の背後から飛びかかった。姿勢を低く落として、ずたずたに擦り切れた両膝の裏にタックルを決める。がつんと前のめりに倒れる猿の主。倒れ込みながらも、猿の主は上半身をひねって頭を支えていた左腕で鉄兵を薙ぎ払おうとした。
鉄兵の狙いはまさにその左腕だった。差し出された猿の主の左腕を受け、脇に挟んでがっちりとロックし、自らの身体の重みを利用して後ろに引き込み、仰向けに丸く寝転がる。自然と猿の主は鉄兵に覆いかぶさるように引き込まれて倒れた。鉄兵は両足を大きく振り広げ、左足で男の首を締め上げて右足の太腿で固める。同時に自分の身体をぐいと伸ばし、脇に挟んだ猿の主の左腕の関節を完璧に決めた。
『さすが寝技のテツヘイさん。三角締めが決まったよ』
オーディオから真樹士の解説が入る。
「あの重そうなセンサースーツ着て、よくあんなに柔らかく動けるわ」
『ただの防護スーツじゃないからね。補助動力繊維が編み込まれていて、覚え込ませたパターンで身体の動きを最適化してくれるんだ』
「意味わかりませーん」
真樹士のいつもと変わらない暖かな声のおかげで向日葵の心の緊張も少しずつ解けていく。
『格闘プログラムをインストールしたロボットを着ているようなものだよ。あれ着て総合格闘技に参戦したら、テツヘイさんはオール1ラウンドKO勝ちで優勝だよ』
「でもそれってずるじゃん」
『相手だって人間の皮着ているだろ、おあいこだ。ん? おいおい』
「何よ?」
向日葵はヘッドライトに照らされた二人の姿に目をやった。
完全に身体を固められていた猿の主が膝を立てた。まだ動けるようだ。今度は鉄兵が動きを変える。身体をしきりに揺すり、両足でがっちりとくわえこんだ男の首と左腕をさらに締め上げた。
『テツヘイさん、やばい! 離れて! スーツの耐圧いっぱいだ! 破ける!』
カーオーディオの真樹士が叫んだ。
鉄兵のヘッドセットの仮想ディスプレイが一瞬赤く染まった。アラート信号だ。防護スーツの耐圧強度を越える力で圧迫されている部位がある。ちょうど猿の主の左腕を決めている右の脇だ。スーツ越しに脇の肉が万力に挟まれているように激痛が走った。
鉄兵は両足を解いて、猿の主の首と左腕を解放していったん距離を置こうとした。しかし猿の主の左手は鉄兵の右の脇腹に噛み付いたまま離れなかった。ぐいと身体全体が持って行かれる。宙に浮いたような気さえした。そのまま投げ出されてしまう。
鉄兵の視界のアラート信号は続いていた。投げ出され、歩道の植え込みに頭から突っ込んでしまった鉄兵。右の脇腹辺りに冷たい風を感じる。センサーの一部がデータ消失している。スーツを破り取られたか。
『猿のスケールのまま人間になったってのか。ものすごい握力だな』
鉄兵の耳に真樹士の声が届く。
『ちょっと予想外だ。テツヘイさん、その植え込みだと位置がまずいから、少なくともあと5メートルは6時方向に下がって』
6時方向。それでは向日葵から遠ざかってしまう。猿の主の方を見やるとすでに立ち上がっていて、首はだらりと垂れ下がったままだが向日葵の方へ歩き出していた。
「それでは奴から離れてしまう」
『いいんです。早く離れて』
鉄兵の仮想ディスプレイに新たな情報が現れた。音源が二つだ。鉄兵はそれを素早く理解して真樹士の言う通り、向日葵から離れるように身を投げ出した。
「マキシくん、こっち来るよ!」
向日葵の悲鳴に近い声。猿の主はまた左腕で自分の首を持ち上げ、向日葵をじろりと睨み付けた。四輪駆動車はアイドリングを続けるだけで動きださない。シートベルトはしっかりと彼女の身体を縛り付けていた。
『大丈夫だよ。もうチェックメイトしてる』
カーオーディオから聞こえる声は、いつも通りの真樹士の声だった。二人で対戦ゲームで遊んでいる時の、完全に優位に立っている勝ち誇った声だ。
そう。じゃあ、大丈夫だね。
向日葵の恐怖と不安は真樹士の一言で軽く吹き飛んで行った。
そう。マキシくんのあの声なら、もう大丈夫なんだ。
絶対的な安心感に包まれる。
猿の主が向日葵が乗る車まで残り数歩まで迫った時、歩道に停めてあった大型スクーターが突然エンジン音を響かせた。ヘッドライトの強力なハロゲンランプが猿の主の顔面を強く照らす。猿の主は思わずスクーターのライトの方へ身体を向けた。その途端に無人のバイクが走り出す。
歩道の縁石を乗り上げて、真樹士にハッキングされたスクーターはウイリーするように猿の主に襲いかかるが、身体ごと向き直っていた猿の主は数歩後ずさるだけでそのスクーターの体当たりを躱す事ができた。目標を失ったスクーターは勢いを失って転倒してしまい、その場で横倒しになったままエンジン音を高く鳴り響かせた。
猿の主はにやりと笑う。目の前の人の主のオンナへ、もはや障害は何もない。
猿の主の本体が教えてくれた。ヒトを食えば、もっとヒトに近付く事ができる。特にヒトのヌシのオンナは子供を宿している。そいつを喰らえば、もはやヒトなど敵ではなくなる、と。
十分に飛びつける距離だ。両膝に力を溜める。
若いオンナの肉はすごく柔らかくとても美味い。そうヌシ様は言っていた。
あのオンナの肉を……。
猿の主もどきは向日葵の顔を覗き込んだ。きっと恐怖に歪み、情けなく涙でもこぼしている事だろう。
しかし、向日葵は泣いてはいなかった。こちらを見てもいなかった。少し驚いたように両目を見開き、自分自身の胸を両腕で抱いている。
何を見ている?
折れてしまってだらりと力の入らない首をなんとか向日葵が見ている方向へ向ける。そちらには、ライトを消したまま突っ込んで来る巨大な車が見えた。
そして、猿の主もどきは何も見えなくなった。何も感じなくなった。
歩道からのスクーターを避けるために数歩よろめくように後ずさったその男めがけて、反対車線を走っていたトラックが急ハンドルを切って突っ込んで来た。向日葵はその運転席が無人なのに気付いて、思わず目を閉じてしまった。スクーターのエンジン音のせいでトラックの接近に気付かなかった猿の主もどきは、無防備の姿のままトラックに激突され、トラックはビルの壁に鼻先を押し付けるようにしてようやく停止した。
トラックのエンジンが止まり、横倒しになったスクーターも静かになり、向日葵の乗った車もアイドリングをストップさせた。
『異世界にでも転生しな』
カーオーディオが一言。
『あとはテツヘイさんに任せて、ヒマワリはゆっくりしてて。俺とジュンとで、もう一匹をさくっと退治するよ』
やっと立ち上がった鉄兵の頭の中にも真樹士の声が届く。
『テツヘイさん怪我はない? ご苦労さま。ふもとの派出所の山脇くんに事故処理の連絡とって後片付けお願いしましょ。あとはあったかいコーヒーでも飲んで休んでてください』
センサースーツの右脇腹は大きくえぐり取られたが、鉄兵の身体の肉の方は無事のようだった。鉄兵はふうと大きく深呼吸をして、軽く背筋を伸ばす。
「了解」
派出所にて。山脇のスマートフォンが鳴る。
来たーっ!
待ちくたびれてテレビの深夜番組を観ていた山脇はスマホに飛びついた。
「ハイ、山脇です! 出番ですか? はい。はい。え、後始末?」
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