第36話 自嘲と懺悔
「――待って!」
背後から腰への軽い衝撃とともにそんな声が耳に届いた。
強い意志を感じさせるその声はいつの間にか聞き慣れていたもので、見下ろした腹部の前で交差する白く細い腕は、いつも癖毛を恨めしげになでつけていたそれだった。
「……ハル?」
それでも今この場に彼女がいることが信じられなくて、右腕を伸ばしたまま思わず問いかけてしまった。
「……他に誰がいるっていうのよ」
ハルは荒い呼吸で言って腕に力を込め、みぞおちを圧迫されたカソルは息が詰まった。ネクタイを強く締め上げられてえずいていたのが随分昔のことに思えた。
「どうしたの? こんなところで」
「それはいいから、まず腕を下ろして」
カソルはおとなしくハルの言うことに従った。カソルが呼び鈴に触れていた手を下ろすと、ハルもカソルを拘束していた腕を解いた。
カソルが振り向くと、走ってきたらしいハルは膝に手をついて、乱れた呼吸を整えようとしていた。
「……お願い。お願いだから、行かないで」
結局、ハルは息も落ち着ききらないままに再び口を開いた。前かがみになったまま、上目遣いで言って髪を振り乱した。
「正直なところ、あんたが今どんな気持ちなのか全然わかんない。どうして学院を離れようって思ったのか。どうしてあの人につくことにしたのか。……どうして私に黙って出て行ったのか」
そこまで言ってからハルは悲しげに首を振った。
「ううん、本当はちゃんと心当たりあるんだ。私が面倒くさいやつだからよね。勝手にいきなりうじうじし始めるし、そのくせその理由とか本音は全部隠したまま。そんな卑怯なやつ、私だって付き合いきれないって思う」
震える声でまくし立てるハルに、カソルは呆気にとられていた。
「だからしょうがないって思ってた。あんたがどこに行くことにしても口出しはしないようにしようって決めてた。あんたが大切にしてる自由を、ちゃんと守らなくちゃって思ったの。だからどうなろうと受け入れるつもりだった。だったんだけど……」
ようやく膝から手を離し、背筋を伸ばす。全力疾走したせいか、その顔は赤く上気していた。
「さっき嫌な夢を見て目が覚めて、隣のベッドを見てあんたがいなかったときすごく怖くなった。やっぱり、なんて……しょうがない、なんて思えなかった。すっごく嫌だって思った。このままじゃだめだって。どんなに見苦しくても言わなくちゃって思ったの」
苦しそうにうつむき、右手でシャツの胸元をぎゅっとつかむ。それでもいつものようにまっすぐに見据えてくるハルの瞳は、しかしどこか今までとは違っていた。
「聞いてもらえなくてもいい。叶わなくてもいいからちゃんと言っておかないと、死ぬまで後悔すると思った」
いつもの地平の果てを睥睨するような強気の目ではなく、足元の雑草がつけた花をおだやかに慈しむような目で、ハルは静かに言った。
「もう少し、ほんの少しだけでいいから……カソルの自由を私にくれない?」
言っていることの意味がわからず、まばたきを繰り返すカソル。ハルはうなずいて、優しい口調で言葉を重ねた。
「私、もう少しだけ……ううん、本当はもっと、ずっとカソルと一緒にいたい」
世界中から他の一切の音が消えた気がした。ハルのその言葉だけが無限に引き伸ばされて、それが世界のすべてになったかのような錯覚に陥る。温かで甘い感傷が胸の中心から全身に広がっていく。
しかし、それは一瞬のうちに幻のごとく消え去った。
思い出すまでもない。自分は違う。自分がその優しい言葉を受け入れることは許されない。ルベルテインを相手にするのとは訳が違う。ハルの言葉は、自分のような侮蔑や嫌悪の対象には本来向けられないようなものなのだ。黙っていることは騙すことになる。
「ハル、君は知らないんだ」
「……何が?」
「僕は君の思っているような人間じゃない」
自然と、自嘲するような笑いが溢れていた。
「いや、そもそも人間じゃないんだよ。僕は」
「どういうこと?」
カソルが初めて見せる、捨て鉢な表情と口調に困惑しつつハルは問い返す。
「アスカトラの地下室に、一七年前の生徒の手記があったよね」
「え、ええ」
「実はそこにね、自分も例の魔獣との間に子供をもうけたって記述があったんだ」
ハルは黙って耳を傾けている。その表情がまもなく嫌悪に歪むこと思い、カソルは胸が苦しくなった。
「行為に及んだのが手記を書き始めてすぐの一七年前。それから一年弱が経って、どうやら無事に出産が近づいたらしいね。当人は病気か何かで死の淵にあったみたいだけど。それが今から遡ると、だいたい一六年前ってことになるわけだ」
「一六年……」
脈絡のない話に怪訝そうだったハルが目をむく。
「え、いや、それって」
人間じゃない。その言葉と頭の中にある多くの事実合わせて、カソルの言わんとしていることを半ば察したハルが口をあんぐりと開けた。
「神隠しとの関連が疑われた、一七年前の失踪事件の男子生徒。どうりで似てるはずだよね。父親譲りの顔に、母親譲りの毛色ときたもんだ」
「あっ……」
「はっきり書いてあったよ。タグに名前を残そうって。自分という人間の父親がいた証を残すため、『カソル』の三文字を刻むって、ね」
カソルが明確に口にすると、口元を手で覆ったハルがその場で膝をついた。
無理もない。吐き気を催すほどのおぞましさを抱くべき相手に、あろうことか一緒にいたいなどと言ってしまったのだ。自分の犯しかけた過ちの大きさに衝撃を受けるのも当たり前というものだ。
「ごめん。君の優しさを裏切ることになっちゃって」
正体を知った今となっては、声をかけられることすら不快かもしれない。それでも、ハルではないが、それだけは言っておかなければと思った。
「……ごめんなさい」
少ししてからハルの口からこぼれたのはそんなオウム返しのような台詞だった。
罵倒や侮蔑の言葉を待ち構えていたカソルは、何かの聞き間違いかと思った。そして顔を上げたハルのその表情を見て、さらなる当惑に眉を寄せた。
「ごめんね……本当に、ごめんなさい……」
その場にぺたんと座り込んだハルは、口を手で覆いながらしゃくりあげるように言って両の目からぽろぽろと涙をこぼしている。カソルにはわけがわからなかった。どうしてハルがそんな顔で謝っているのだ。
「なんで……」
たまらず疑問は口をついて出ていた。ハルは耐えられないという風にかぶりを振って嗚咽を漏らし続ける。
「だって私、カソルに……あんな、あんなひどいこと……」
「それは……」
「……おぞましいとか、吐き気が、とか……」
カソルはますますわからなくなった。それは、ここまで狼狽して謝罪を繰り返さなくてはいけないほどのことなのだろうか。
「僕を傷つけようとして言ったならともかく、ハルの率直な感想がたまたまそういう意味を持っちゃっただけなんだから、そう気にすることでもないと思うんだけど……」
確かに胸に痛みは覚えた。しかしハルへの恨みはおろか、多少の怒りさえも抱いてはいない。
なぜなら、それは単なる事実だから。ハルが抱いているのは一般的な認識だ。ことさらに悪意を差し向けたわけでもない。それほど深い後悔の念に襲われなくてはならないようなことではない。
「とにかく僕は怒ったりしてないから、そんなに気にしないでよ」
カソルが言うと、ハルはすごい勢いで再び首を横に振った。
「気にするわよ……! 私が自分を許せないの!」
確かに人の悪口を言う人間というのはハルの理想とはかけ離れているかもしれない。しかしこんな事故のようなものまで気にしていたらいくらなんでも身がもたないだろう。
その、理想を違えた自身に対してひどく横暴なハルの発言があまりにいつも通りで、カソルは内心で懐かしみ、惜しむむように苦笑した。
「どんなに完璧な人だって、偶然の出来事なんて防ぎようがないと思うよ」
「そうじゃない。完璧とか理想とか、そういうのは関係ないの。ただ自分が憎くて憎くててしょうがないの」
そう言って見上げたハルはカソルの瞳に映る自分自身を射殺さんばかりににらみつけていた。確かにその目は遥か先の理想の虚像ではなく、今ここにいる自らを見つめていた。
理想と何も関係ないとすれば、一体何がハルの激情を煽り立てているのか。
それを問うようにハルを見つめ返す。それを受け止めたハルは、何度か深呼吸をして息を整えてから目元の涙をぬぐう。
「いい? 一度しか言わないからちゃんと聞いててね」
「え、うん」
困惑は一層深まったが、首は縦に振らざるを得なかった。
それを見たハルは今度は一度だけ、大きく空気を吸い込み、同じ時間をかけてそれを吐き出した。その妙な緊張が伝染し、カソルの手のひらにも汗がにじんだ。
そして目を伏せること数秒。再びおもむろにまぶたを上げたハルは、唇をなめてからそれを口にした。
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