第32話 氷の中の熱

六月八日(木)


 一日の授業を終えて教室を出ようとするカソルとハル。

 今日は図書館の地下室を調べてみようかと思っていたが、なんとなくハルにはまだ言い出せていなかった。

 そんな二人の隣でナノが心配そうに首を傾げた。

「ハルちゃん、寝不足?」

「え?」

 物思いにふけっていた様子のハルが少しやつれた顔を弾かれたように上げる。

「……まあ、なんかよく眠れなくて。でも大丈夫よ。体の調子はばっちりだから」

 そう言って、すぐにから元気とわかるような作り笑いをナノに向けた。ハルは不安げな表情をそのままにハルからカソルに視線を移した。

「二人、喧嘩でもしてるの?」

 それから改めてハルの方を向く。

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

 ハルはちらりとカソルを見てからすぐに目をそらした。カソルも目を合わせず、黙り込んだまま立っている。

「そうなの? 今日ほとんどしゃべってなかったから何かあったのかなって」

「まあ、なんていうか、私が悪いのよ」

「カソルくんが怒ってるの?」

 ナノが首を傾げてカソルの方を窺う。

「いや、僕は全然」

「うん? じゃあどうしてそんなにぎくしゃくしてるの?」

 事情がまるでわからないという風にカソルとハルの顔を交互に見やる。ハルが下を向いて、気まずそうにその視線を避けたときだった。

「こんにちは。また来たよー」

 すぐそばの出入り口から陽気な、しかしどこか人を小馬鹿にしたような声が聞こえてきた。

 過去の焼き直しのように、教室内にいた生徒たちは振り向いて凍りついた。

 そんな視線は気にも留めず、ルベルテインはカソルに向き直った。

「今日はお暇かな?」

「まあ……」

 先日の一件を思い出し、言葉を濁して様子を見る。

「といっても今日はデートより大事なお話だから可愛らしい魔術師ちゃんが駄々こねても連れて行っちゃうけどね」

 ルベルテインは嘲りとも慈しみとも取れる不思議な表情でナノを見やった。ナノは不安の色濃い表情でルベルテインを見つめいてる。

「面白い顔。『デートより大事な話? 告白? プロポーズ?』とか考えてそうな顔してるねー」

「そ、そんなことは……!」

 少し上ずった声で反論するナノ。ルベルテインはますますおかしげに笑った。

「まあそれに近い話なんだけどね」

 その一言で、教室は一切の音と熱を失った。

「じゃあ行こっか」

 教室の空気などお構いなしにカソルの袖を引くルベルテイン。このタイミングで大事な話となれば今後の方針についての相談だろう。この妙な空気を残してルベルテインについていくのには少しためらいがあるが、致し方ないことだろう。

 カソルが足を踏み出そうとしたそのとき、ハルがカソルの肩に手をかけた。

「待ってください」

 ハルの口から出たのは、聞いたことのないくらい低い声だった。

 ルベルテインは苛立ちを煽るようにたっぷり時間をかけて振り向き、ハルを見て口元を三日月に歪めた。

「あれ、なんかハルご機嫌斜め?」

 口に手を当ててわざとらしい含み笑いを漏らす。

「あ、もしかしてカソルくんに振られちゃった?」

「な、何を言ってるんですか!」

「あら、余裕がない。適当な冗談のつもりだったんだけど、あながち間違いでもなかったりするのかな?」

「まったくの間違いです。カソルになんの用でしょうか」

 くすくすと笑うルベルテインをにらみつけ、威圧するように尋ねる。

「間違いならよかった。駄々こねられる心配もないし」

「どういう意味ですか?」

「だから言ってるじゃん。大事な話をするんだって。カソルくんの、それから私のこれからに関するとーっても大事なお・は・な・し。なのに『カソルは私のなのー』とか言われたら困っちゃうし」

「なんの話をするつもりなんですか」

 ハルは湧き上がる苛立ちを押さえつけて表面上の冷静を保ちながら追及する。ルベルテインはますます楽しげにハルを見つめ返した。

「気になるんだ。私とカソルくんが何するのか」

 不快感を隠しきれなくなってきたハルの唇の端がわずかに引きつる。ルベルテインはそれに気づくと少し満足そうに笑みを深めた。

「ま、簡単に言えば面談だよ。明日でとりあえず一週間終わりでしょ? 気持ちが固まってるなら早めに聞いておこうと思って」

「……ああ、そういうことですか」

 ハルはばつ悪そうに目をそらして、自らへの嫌悪感のような感情に顔をしかめた。

 ルベルテインの用など状況を考えればすぐに察しがつくようなことのように思えるが、ハルはすぐには思い至らなかったらしい。やはり調子はかなり悪そうだ。

「気は済んだ? じゃあ今度こそ行こっか、カソルくん」

 一瞬ハルの様子を窺ってみるが、下を向いたままだった。カソルはうなずいてルベルテインのあとに続いた。


 やってきたのは校内にある進路指導室という部屋だった。カソルとルベルテインは机を挟んで向かい合うように椅子に座る。

「ふふ、こんなところで面談なんて学校の先生になった気分だね。美人女教師と密室で二人きり、ドキドキしない?」

「しません」

 カソルが即答すると、ルベルテインはわざとらしく肩を落とした。

「つれないね。あと敬語もやめていいよ」

「わかった」

「じゃあ早速本題に入っちゃおう。まず単刀直入に聞きます。学院生活は楽しい?」

 世間話のような話題を振ってくる。今後の相談というのは嘘ではないだろうが、ルベルテインがただの意思確認のために魔術学院に出向いてくるような人物とも思えない。何か本命の目的があるものと思っていた方がいいだろう。

「面白いよ。いろいろと発見も多いし」

「じゃあ来週からも学院に残る方向かな?」

「それは……」

 即答できなかった。まだ今後については考えていなかった。というより考えるのを避けていた。今こうして改めて問われてみて、自分の中に迷いがあることをカソルは自覚した。

「何か悩みごと? それとももう飽きちゃった?」

 カソルは小さく息をついて小さく首を振った。

「悩みってほどのものじゃないんだけどね」

「うん。聞いてもいい?」

 この人間に話すべきだろうか。こういった底の知れない相手においそれと情報を与えると、何かしらの不都合につながるような気もする。

「たいしたことじゃないから」

「そう? でもとにかく、これからどうするか迷ってるんだよね?」

「そういうことになるね」

 カソルが首を縦に振ると、ルベルテインの表情が今までに見たことのないような真剣さを帯びた。普段の見下すような視線とは違う対等の相手を見据えるような眼差し。それどころか、乞い願うような色さえ窺える気がした。

「それならさ、私から一つ提案してもいい?」

「……提案するだけなら自由だけど」

 ルベルテインは少しだけ表情を緩めてうなずいた。

「ありがとう。提案っていうかほとんどお願いなんだけどね」

 そう言うとまた神妙な顔つきになり、熱のこもった視線を向けてくる。

「今後、私についてほしいって言ったらどうする?」

「つく? どういう意味で?」

「私専属の魔術師になるってこと。カソルくんの力がほしいの。魔獣を狩るときにカソルくんの力を借りたい。そうすれば私は戦場では聖女様を超えられる。一番になれる」

「聖女になりたいってこと?」

「ううん、今更それは無理な話だよ。でもね、だからこそせめて魔獣撃破の実績だけでも右に並ぶもののない聖法官になりたい。二番じゃだめなの。二番じゃ何も残らない。でも圧倒的な強ささえあれば、肩書はナンバーツーでも実力はダントツだったって記録や記憶に残る」

「……それになんの意味が?」

 カソルは困惑して小首を傾げる。自分という存在が文字や言葉の中に生きていうることに何か意味があるのか。そんなことしなくても現に自分という存在は生きているし、死んだら誰がなんと言おうと死ぬのだ。

「カソルくんにはわかりづらいかな……」

 ルベルテインが憂いのにじむため息をついた。そして上目遣いでカソルを見る。

「弱音は吐かないことに決めてるんだけどね……。ハルから私の家のことは聞いてる?」

「まあ、名門というか、息が詰まる家だとは」

「そうだね。息が詰まるよ、あそこは」

 苦笑して組んだ手を机の上に置き、静かに首を横に振る。

「でもね、私は大好きなの。お母様もお父様も、お祖母様もお祖父様も、きょうだいも親戚もみんな。だから大変なの。みんなに、特にお母様に喜んでもらう方法が、聖法官として成功をおさめることしかないから。本当に大変なんだ」

 いつもとは異なる微笑をたたえたルベルテインが続ける。

「でも嫌ってわけじゃないんだよ? みんなが喜ぶのを見るのは嬉しかった。苦労に見合うだけの喜びはあったから。だけどお母様の一番の望みは……叶えてあげられなかった」

「聖女になれなかったこと?」

「そう。でもそのときはお母様も怒ったりはしなかった。だからこそつらかった。あなたはその程度の人間だって言われてるみたいで寂しかった。ここが行き止まりで、これ以上みんなを喜ばせてあげられないんだって気づいて泣きたくなった」

 机の上の手がぎゅっと握りしめられる。

「上り詰められるところまで上り詰めちゃった以上、あとはその地位を守るしかない。だから下から突き上げてくる人たちを突き放して、私はあなたより上だって実績や態度で示し続けた。勝ち誇ることで、みんなを喜ばせられないかなって思ってたんだけど……」

 ルベルテインの挑発的な態度はそういう意識から来ているものということか。それはまた難儀な生き方をするものだ。カソルは内心で嘆息した。

「やっぱりそううまくは行かなかったね。もちろんちょっとした実績を上げるたびに喜んではくれたよ。でもなんていうか……同情されてるみたいで。すごいことしたから褒めるっていうより、頑張ってるから褒めてあげる。そんな感じ。その度、渇いた喉に塩を塗り込まれるみたいな感じになって、吐きそうになるんだ」

 煩悶に満ちた言葉の内容とは裏腹に、決して苦悶や懊悩を表情に浮かべず前を見据え続ける。カソルにはその姿にハルに似たものを見た。血は争えないということだろうか。

「だから私は前に進みたい。もっと上に行きたいの。そんなときにカソルくんが現れた。初めはね、魔術師なんかに頼るもんかって思った。うちの家、魔術師大嫌いだから。でもだんだん、そんなこと言ってられないって思うようになっちゃって。魔術師の力でも、自分の力じゃなくても、大きな実績を上げてみんなに喜んでもらう方がいいかなって」

 そう言って照れくさそうに笑った。

「長々と変な話ししちゃってごめんね。こんな身の上話で気持ちを動かせるとは思ってないけど……」

 ルベルテインは椅子から立ち上がり、あろうことか、忌み嫌っているはずの魔術師に向かって深々と頭を下げた。

「改めてお願いします。カソルくん、私の力になってください」

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