第31話 わからない気持ち
その日の放課後、カソルとハルはハルの借りた本を返すべく図書館に向かっていた。
「まだ気にしてるの? 調理実習のこと」
「まあね……」
下駄箱に向かいながら尋ねると、ハルは答えて淀んだため息を吐き出す。
ハルはあれからずっとこの調子だった。その不調ぶりといったら、あの味付けをからかおうとしたエルレイが自粛して自席におとなしく帰っていくほどである。
「どうしてあんなに気合入ってたの?」
下駄箱で外履きに履き替えながら単刀直入に聞いてみる。
「それは……」
口ごもったまま静かに靴を履き替える。トントンと爪先で床を叩くと、カソルから目をそらしたままくしを取り出した。
「笑わないでよ?」
下を向いたまま、波打った髪をなでつけるハル。
「笑わないよ」
そう言うカソルの表情をちらりと確認してから、ハルは蚊の鳴くような声でつぶやく。
「負けたくないなって、思って」
「え? 誰に?」
あの場では勝負など行われていなかったはずだ。突発的に発生したカソルとエルレイの我慢大会以外、調理実習中に勝ち負けを争うようなことはなかった。
「その……ナノに」
笑うな、というのはこのことだろうか。初心者の自分がナノと張り合おうなんてちゃんちゃらおかしい。わざわざそんな警告をしたのはそういう自覚があるからか。
しかし、それはできるはずのことができないのは悔しいというハルの言とは一致しない対抗意識だ。できないとわかっていてなお、あれだけの意気をつぎこんだ。やはりハルの心理がよくわからない。
「うーん……」
腕組みしてどう答えたものか考え込む。そのまま歩きだして校舎を出た。その後ろをハルが足音も幽かについてくる。
どんなに頭をひねっても、結局ありきたりな言葉しか頭に浮かんでこなかった。
「なんでもかんでも人に勝とうとしなくてもいいんじゃない? ナノは料理の才能があって努力も重ねてる。ハルも同じように聖法の才能があって、研鑽を重ねてる。お互い自分の個性を生かして頑張ってる。だからハルは魔獣と戦うことで、聖女として人を導くことで誰にも負けなければ、それでいいんじゃないかなって僕は思うんだけど」
後ろを歩くハルの足音が止んだ。カソルも立ち止まって振り返る。
ハルは下を向いて肩を小刻みに震わせていた。
「……言ったじゃない」
こぼれた雫のような声。それに続いて押し殺した感情が少しずつあふれてくる。
「あんただって言ったじゃない。理想を追求しようとする私が、完璧な世界を目指す私がいいと思うって」
確かに言った。そしてそれはまったく嘘偽りのない言葉だった。だけど同時に、ハルは今のままでいいと思う気持ちも間違いなく本物だった。
矛盾している。自分でもどういうことなのかよくわからない。
「料理も君の理想にとって大事なことだったの?」
できるに越したことはないだろうが、王国をよりよい方向に導こうとするハルの理想の中で大きな重要性を持っているとは思えなかった。
「大事なの! 大事になっちゃったのよ! おいしく食べてもらえる料理を作れること――それも今の私の理想の中に入っちゃってるの!」
その言葉の意味が、カソルにはよくわからなかった。
「おかしいのよ。わかってる。そんなのわかってるけど、どうしてもそう思っちゃうんだからしょうがないじゃない。あれもこれもできるようになりたいって、いろいろしてあげたいって、自分がなんでも完璧にできたらって、どうしても思っちゃうのよ!」
ハルは短い髪を振り乱し、腰の横で両手を固く握りしめる。その、爪が食い込んで血がにじみそうなほど強く握られた手が、自分の心臓を締め付けているような気がしてカソルはたまらなくなった。
今まで見えていたハルという像が揺らいで、目の前にいるのが別の人間のように思えてくる。
なんと言えばいいのかわからない。それなら気が済むまで頑張ればいいと鼓舞すればいいのか。何もかも完璧など誰にもできやしないと慰めの言葉をかければいいのか。どちらも無責任で、それゆえハルの意志を冒涜する言葉に思えてならなかった。
ハルはどんな言葉を求めているのだろう。あるいは、誰かに言葉を求めてなどいないのだろうか。ハルはどんな気持ちでこうして心境を吐露しているのか。今までも理想に手が届かなかった度、本当はこんな風に胸を締め付けられるような思いをしていたのか。
わからない。わからないことだらけだ。
わかったつもりになっている全部が、実は自分の思い込みなのかもしれない。ハルは本当は人が思っているよりもずっと弱くて、今すぐすべてを投げ出したいと思っているのかもしれない。自分の向けた称賛はハルの重荷になっているのかもしれない。
そして自分という大きな力を持った存在が近くにいることが、ハルへの大きな重圧になっている可能性も、大いに考えられる。
ハルに限った話ではない。普段から攻撃的なエルレイはともかく、好意的に接してくれるナノも内心ではどう思っていることか。責任感から世話を焼いてはくれるけど、本当はいちいち言動のずれている自分をうとましく思っているのではないか。
嘘。虚勢。建前。こういった人の表層と深層の乖離現象を現す言葉は、学習する過程でも意味を十分に理解するのに苦労した。今はこうして現実としてその例に触れ、そのときの何倍もの困惑に苛まれている。
やはり自分は人間とは相容れない存在なのだろうか。自分が人間に近づこうなど、へそで茶を沸かすようなおかしな話だったのだろうか。
カソルはただ立ち尽くして、うつむくハルを見つめいてた。
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