第30話 ポトフの真実
授業開始から数十分後、ついに山菜入りのポトフが完成した。
味付けはハルがどうしてもやりたいと頭を下げてまで頼んできたので、任せることにした。家庭科室に常備されているスパイスなどの調味料の使用は自由だが、結局はポトフ。味付けといってもそう複雑なものではない。失敗もないだろう。
実際、カソルの前に置かれた皿に注がれたものは、透明感のある、少なくとも見た目にはごく普通のポトフだった。
「ではみなさん準備できましたかー? それでは、いただきまーす」
各テーブルからスプーンが皿の底を叩く音が響き始める。隣に座るハルのそわそわと落ち着かない気配と視線を感じながら、カソルもスプーンに手を伸ばす。
「ちゃんと味見はしたし、食べられないようなものにはなってない……と思うから」
「はは、なんでそんなに緊張してるの? 味を評価する授業じゃないんでしょ?」
「それは、その……」
歯切れ悪くつぶやくハルを尻目に、スプーンでにんじんとスープをすくって口に運ぶ。
――その瞬間、カソルの口内を凄まじい電流が駆け抜けた。
こみ上げる嘔吐感。喉は咳こもうと必死だった。しかしここで吐き出したら、なぜかはわからないが妙に気合の入っていたハルに悪い気がする。カソルは反射行動を意地で押し返し、なんとか謎の物体Xを口の中に留めることに成功した。
しかしその成功は失敗だった。口内がびりびりとしびれ続けている。謎の物体を飲み込むことへの恐れが脳裏をよぎる中、どうしようもなくなったカソルは覚悟を決めてそれを嚥下した。
「だ、大丈夫? その、顔色悪くけど……どこか変だった? 私なんか余計なもの入れちゃった?」
わずか数秒の間に繰り広げられた自分の体や脳の発する危険信号との戦いで疲弊したカソルは、ハルの不安に満ち満ちた言葉に反応することすらできなかった。
荒い息をつく中、ハルのスプーンと皿がぶつかる音を聞く。
それはだめだ。カソルは内心で止めようとして疑問を抱く。しかしそもそもハルは味見したと言っていなかっただろうか――。
「うーん、私の方は特におかしなことないんだけど……お皿に洗剤でもついてたかな?」
スープで喉を鳴らしたハルが首をかしげる。
おかしいことがないはずはない。それを口にして平気でいられるはずはないのだ。
謎の物体Xが置いていった、到底食べ物によるものとは思えない刺激と衝撃によってすでに混乱の極致に追い込まれていたカソルの脳が、事態を処理しきれず悲鳴を上げる。
「ど、どうしたの? なんかカソルくんの様子、尋常じゃないけど」
いつも何が起きても平然としているカソルの窮状に、ナノがやや顔をこわばらせながら声をかけてくる。ハルも困惑と心配の入り混じった表情で首をかしげた。
「カソルの方の料理がなんかおかしかったみたいなんだけど……よくわからなくて」
「ちょっと食べてみてもいいかな?」
「き、気をつけてね」
ハルもハルで何がなんだかわからなくなっているようで、自分の味付けた料理を人に勧めているとは思えないセリフを吐いていた。
ナノが机の上に身を乗り出して自分のスプーンをカソルの皿に差し出す。カソルは黙ってナノの手首を掴んでそれを止める。
「あ、ごめん。私のスプーン使うの嫌だよね。今先生に新しいの……」
カソルはもう一度、力強く首を横に振った。
「ど、どういうこと……?」
そんな中、別の方向から伸びてきたスプーンがカソルの皿からスープとじゃがいもをさらっていった。スプーンは不敵な笑みをたたえたエルレイの口元に運ばれていく。
「情けないやつめ。俺ならばいかに過酷な試練を突きつけられようともそのように無様な姿を晒しはしないぞ。よく見ておくがいい」
もはやカソルには止める手段も猶予もなかった。森でのことを覚えていれば未知の食物を口にするような迂闊なことはしなかっただろうが、哀れなエルレイはそのスプーンを口の中へと迎え入れてしまう。
「――――」
瞳から生気の失せたエルレイの唇から、滝のようにスープが流れ落ちた。
続いて内蔵をすべてぶちまけてしまいそうなほど激しく咳きはじめる。咳が止んではえずき、それが終わるとまた咳き込みだす。
「わ、うわあ……」
あまりの惨状に、ハルとナノが言葉を失って後ずさりする。その場にいた誰もが、ただ呆然とエルレイの苦悶を見守っていることしかできなかった。
やがて拒否反応の嵐から解放されたエルレイは、ほうほうの体でカソルに目をやる。その瞳は、普段の厳しい階層意識からは到底考えられないような、博愛精神さえ感じられる穏やかな慈愛をたたえていた。
「……カ、カソル・アルフマン……お前、これを飲み込んだのか……」
「うん、まあ……」
戸惑いながらもうなずくと、エルレイは今際の際のような弱々しさで笑った。
「そうか……。お前の勝ちだな」
「エルレイくんが素直に負けを認めた!?」
それを受けて教室全体がどよめく。どうやら前代未聞の事態らしい。エルレイ本人はその喧騒が聞こえているのかいないのか、静かに虚空をながめていた。
一方でようやく落ち着いてきたカソルは、今回の事態の原因に当たりをつけるに至っていた。
「……ハル、本当に味見はしたんだよね?」
「し、したわよ! 別に舌に自信があるわけじゃないけど、そんなひどいはずは……!」
少しかすれた声で尻切れに反論する。エルレイの醜態はハルをも怖じけさせていた。
「わかった。ちょっとじっとしてて」
言われた通り、ハルはその場で直立不動になる。カソルは小さく息をつくと右手でパチンと指を鳴らした。
「もう一回食べてみて。ほんのちょっとだけだよ?」
理由を尋ねることも反発もせず、おとなしくスプーンの先に少しだけスープをすくう。そしてそれを恐る恐る口に入れると、その顔が一瞬で青ざめた。
脇にある流し台に顔を突っ込んで口の中のスープを吐き出し、軽く咳き込んだ。
「しょっぱい! 舌がひりひりする……」
舌をちろりと出して顔をしかめる。
「な、なんで!? さっきまで普通の味だったのに……!」
「やっぱりそういうことだね」
「ど、どういうことなの?」
カソルがため息をつくと、ハルは青い顔のまま詰め寄ってくる。
「今朝、朝ごはんのとき魔術使ったでしょ」
「あの異常に苦い果物においしくするために使ったやつ?」
「そう、それ。でも結果としては苦みがなくなっただけでおいしくはならなかった」
「成功ではないけど、完全な失敗ではないってことよね?」
「そういうことなんだけど、その魔術の影響を受けたのは果物の方じゃなかったんだ」
ハルが眉を寄せてまばたきを繰り返す。
「じゃあ、魔術は何にかかったの?」
「これだよ、これ」
カソルは自分の口から真っ赤な舌を出して指差した。
「これ、って……あっ!」
ハルも瞬時に合点がいったようで、目を見開いて額を平手で打った。
「ハルが発動したのは果物の味を変える魔術じゃない。なんでもおいしく感じる舌になる魔術だったんだ。それがうまくいかなくて、単にまずさを感じない鈍感な舌になった」
「だ、だから魔術使ったとき果物が光らなかったの?」
「そう。多分光っていたのはハルの口の中にある舌だったってわけだね」
「それが今も続いていて、味付けのときに調味料を入れすぎちゃったってことね……」
ハルは頭を抱えてその場に座り込んだ。魔術の持続時間の長さは、先日魔力を入れすぎたせいかもしれない。そう考えると責任の一端は自分にもありそうだ。
「まあ、事故みたいなものだから気にすることないよ。今後に不安が残らないような原因でよかったってことにしておいたら?」
ハルはそれを否むように力なく首を振る。
「本当、ごめんなさい……。あんなの吐いてくれてよかったのに」
「でももったいないし」
食材や手間はもちろんのこと、ハルが込めた意気込みを無下にするのはどうにもためらわれた。改めて考えてみるとそれはそれでらしくない感情ではある。
「濃い味付け苦手って言ってたのに、よりによってこんな……」
全身の空気が抜けてしまいそうなほど大きなため息をつく。肩は重くのしかかる落胆で落ち、そのままぺしゃんこにつぶされてしまいそうだった。
今までで見た中でも段違いにひどい落ち込みようだった。確かにあの十二分のやる気がから回ればその分ショックも大きいだろうが。
しかしわからないのはそのやる気をそれほどまでに煽っていたものがなんなのか、だ。さっき言ったように味を採点されたりはしない。別にエルレイや他の魔術師と張り合っていたわけでもない。ハルが気合を入れる要素は特に見当たらなかった。
それがわからない以上は慰めようもない。
カソルはただうつむくハルのかたわらで見下ろすことしかできなかった。
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