第33話 人と獣の間で
頭を下げたルベルテインのつむじを見つめながら、カソルはふと思った。
彼女の生き方は少しだけ自分に似ているのかもしれない。
自分はアスカトラの「図書館」や山という弱肉強食の世界で動物を屠り、植物を摘んで命を繋いできた。当然未来に掲げた目標などなく、今ここにある己の命のため目の前にある命を摘み取る。そして摘み取って得た命でまた別の命を摘み取っていくという、言ってみれば不毛なサイクルだ。
一方のルベルテインは、良家に生まれた上に才色兼備と、一見カソルとは対極にあるようにも見える。
しかしその実態は「図書館」や山での肉体的な生存競争にも似た、権力闘争という精神的な生存競争を必死に生き抜いてきた獣なのだ。自分が動物を狩るように、彼女はライバルを打ち倒してきた。それによって前に進むための精神的な糧を得て、進んだ先でまた次の一歩を踏み出すための力を奪う。きっとこのサイクルの本質は同じだ。
息が詰まる。きっとその言葉は的を射ていた。ルベルテインにとっては家族の喜びこそが生きるために必要な酸素で、今の彼女はその供給をほとんど絶たれているのだ。
自分もルベルテインも、ハルとは決定的に違う。世界をよりよい方向に導かんとするハルが気高い理想をもった人間ならば、自分と彼女は単なる獣だ。現前の命や目的のために蹂躙を繰り返す機構。それが自分や彼女なのだ。
顔を上げたルベルテインは真面目な顔で続けた。
「なんでもするから。本当に、なんでも。私の持ってる財産は全部あげる。私の地位を利用してできることならどんな汚いことでも手を回す。誰かを殺せって言うなら殺す。もちろん体を求められたら喜んで応じる。奴隷のような扱いだって甘んじて受け入れる。だから――」
カソルは想像もしていなかったルベルテインの態度に、瞬きを繰り返すことしかできなかった。それを見たルベルテインは苦笑して頬をかいた。
「あー、なんかちょっと引いてる? でも私ね、それくらいお母様や家のみんなのことが好きなの。私の聖法官としてのピークもそう長くは続かない。最後になにか爪痕をのこしたくて必死なんだよ」
「家のみんな、ね……」
自分にはまったく縁のない言葉だ。帰るべき家も、自分の由来を証明する家名も、愛し愛されるべき家族も持たない。寂しくはないが少しだけ羨ましくはあった。
「申し訳ないけど今すぐに答えることはできないかな」
「でも即決でノーではないんだね」
安堵したように息をつくルベルテイン。その姿に先とはまったく違う印象を抱いたカソルは、それには答えず逆に質問をぶつけてみることにした。腕を組み、視線を机の上に落としながら口を開く。
「ねえ、僕は人に見える?」
不意に、意図の不明瞭な問いを投げかけられたルベルテインの目つきが、打算を働かせるようにほんの少しだけ鋭くなる。それから顎に指を当てて首をひねった。
「少なくとも見た目は普通の人間だよね。ただ、能力とか生い立ちとかを考えると人間離れしてるとは思う」
「だろうね」
もともと時の流れというものを知らなかったカソルが、自身の年齢というものを自覚したのはアスカトラに教えられてのことだった。当時指摘された肉体の経年は一六年弱。普通の人間と同じように表現すれば、今カソルは一六歳ということになる。
一六年。普通の人が自己というものを確立するには十分な時間だろう。カソル自身、学院で生活してみて自分の認識とのギャップを何度も自覚した。いわばそれが一六年生きた分うず高く積み重なって、クラスの生徒達との間に隔たっているのだ。
「どうしてそんなことを?」
「まあ、なんというか……わからないんだよね。僕がここにいていいのか」
「自分と他の人との隔たりが大きい……それが学院に残るか迷ってる理由?」
さすがに察しがいい。自分とは大違いだ。カソルは苦笑した。
「さっきも言ったけど、僕がハルや学院のみんなを見てる分にはなかなか面白い。でも向こうがどう思ってるかわからないから」
「カソルくんは残りたいの?」
「それもよくわからない。面白さや楽しさっていうのを、そこまで強く求めているわけじゃないんだ。何かを強制されずに、自由に生きていられればそれでいい。ただ他の人に嫌な思いをさせたいと思ったこともない。言ってみればどっちでもいいんだよね」
特にハルにはかなり迷惑をかけているようだ。この数日で何度も自分の言動に呆れたり疲れを見せたり不快感をにじませたりするハルを見た。ハルの高潔な理想を追及するための時間や労力を奪ってまで、ここに残る必要があるのかどうか。
それならいっそ、性格の好悪をおいて何より確かなものである能力を頼んでくれるルベルテインについて戦うというのも、選択肢としては決してあり得ないものではない。
街での暮らしの中で少し考え方が変わった。自分にとっての自由というのは何もしなくていいということだった。しかし山で生きていたときはわからなかったが、反面、それは何もすべきことがないということでもあるのだ。
ハルの生き方というのは、それはそれで面白そうだと思った。理想を追いかけているのか理想にとらわれているのか、そのどちらなのかはともかくとして。そこまで大きな目標でなくとも、少しくらいは何か縛られて行動してみるのも悪くないかもしれないと思う。
ルベルテインを手伝うという目的のもとに行動する。そんな風に、何かをしない自由だけでなく、自分を縛る何かを自由に選ぶという考え方もあるということだ。
「なるほどね」
ルベルテインが相槌を打って唸る。それからしばらくそのまま何かを考え込むと、鼻を鳴らして肩をすくめた。
「ごめん、アドバイスするのはやめとくね。私、すっごくずるくて意地悪だから」
「別にいいよ。相談っていうより、なんか話してみたくなっただけだから」
自分でもよくわからない感覚だが、ルベルテインへの小さな共感が口を軽くしていた。
「それじゃあ私に協力してくれるかどうかっていうのと、学院に残るかどうか。両方とも一端保留ってことでいいかな?」
「いいよ」
「うん、じゃあそういうことで。また近いうちに来るつもりだけど、返事はいつくれてもいいからね」
「わかった」
うなずくカソルを見たルベルテインは自らの豊満な胸を強調するように腕で挟んだ。
「夜中にふとムラムラして、そういえば体も差し出すとか言ってたなーみたいな直情的なきっかけでもいいんだよ? 私ならハルにはできないこともできちゃうし」
「ムラムラ?」
カソルの微妙な反応に、ルベルテインはずっこけるようにガクッと状態を倒す。
「うーん、やっぱカソルくん人とは違うかも」
そう言ってくすくすといたずらっぽく笑った。
ルベルテインと別れ寮の部屋に戻ってみると、ハルはベッドに腰掛けてぼーっと壁をながめていた。
「戻ったよ」
「ああ、うん。おかえり」
カソルの声で我に返ったように振り向き、張りのない声で答える。
「来週も残るのかって話?」
「うん」
「それで、どうするの?」
真っ白に透き通った肌の、しかし内心の見通せない顔でまっすぐに見つめてくる。
「まだ決めてない」
「そう」
つぶやいて視線を切ったハルは、無関心なようにも落胆しているようにも見えた。ハルとしては早く解放されたいだろう。決断の先送りに落胆するのも当然か。
「話ってそれだけ? その割には長かった気がしたけど」
ルベルテインの誘いについて話すべきだろうか。
それを聞いてハルはなんと言うのだろう。その返答を想像して正体の分からない不安に襲われたカソルは、一瞬の躊躇のあとで結局口にした。
「もし学院に残らないなら自分につかないかってルベルテインが」
ハルは弾かれたように顔を上げ、見張った目をカソルに向けた。
「それ、つまりあんたが監察院長専属の魔術師になるってこと?」
「そうだと思う」
もっとも、ルベルテインのニュアンス的には主従の関係は逆のようだが。
「……なんて答えたの?」
「保留だよ。まだ学院をやめることも決めてないんだから」
「そ、そうよね」
目をそらして小さく息をつくハル。その胸のうち去来しているのは単なる驚きか、快く思っていない相手につく可能性を示唆したことへの不快感か。あるいはカソルに別の道が示されたことでお役御免になる可能性が多少高まったと安堵しているのか。
「ハルはどう思う?」
答えの出ないその推理の答えを求めて、カソルは無自覚のうちにそんな問いを口にしていた。
ハルはカソルの表情を窺うように一瞬だけ視線を上げてからすぐにまた下を向いた。しばらくそのまま考え込むように固まってからおもむろに口を開く。
「……いいん、じゃない」
漏れた声は掠れ、低く震えていた。
「そっか」
「あんたの自由だもの。私がどうこう言うことじゃない」
何かを自分に言い聞かせるように何度も小刻みにうなずく。波打つ毛先が音もなく揺れた。ハルは綱渡りでもするように、慎重に言葉を繋いでいく。
「……そうね。確かにあんたならあの人の救いになれるのかも」
「救い?」
「前も言ったかもしれないけど、かわいそうな人なのよ。あんたの力があればあの人も少しは楽になれるのかも」
ルベルテインに嫌悪に近い感情を抱きながらも、自分の母のことがあるだけにハルはハルで彼女の立場を慮って同情しているのかもしれない。
「ま、監察院長じゃなくてもあんたの力が欲しい人なんていくらでもいるでしょうけど」
そう言ってまた一つため息をつき、肩をすくめたハルにカソルは続けて問いかける。
「ハルは違うの?」
「え?」
「僕の力、ハルは必要ないの?」
「それは……」
ハルは眉根を寄せて唇を噛んだ。そしてすぐに力なく首を横に振る。
「私は……唯一無二の絶対的な聖女にならないといけないから。並び立つものがいちゃいけないのよ」
「それはそうだね」
どうしてそんなに苦しそうに理想を語るのか。やはりハルは自分の理想に追い詰められているのか。あるいは、ただ的はずれな問いに苛立っているだけなのだろうか。
ハルの振る舞いの一つ一つが、カソルの頭に疑問の雨を振らせていた。
ただ確かなのは、カソルがルベルテインにつくことにハルが賛同したということ。自分の利益のためか、ルベルテインを思いやってのことか、はたまたその両方か。理由はともかく、ハルは「いいんじゃない」と言った。
だとすれば、答えはもう決まったようなものだ。
「そうだ。あとこの帯同が終わったら、ハルを七幹部議会の一員に選任するって」
別れ際にルベルテインから伝言を託されていたことを思い出して伝える。ハルは再び目を剥いてカソルを凝視した。
「七幹部議会……。本当に?」
「さあ? 少なくともルベルテインはそう言ってたよ」
ハルは半信半疑と言った様子で顎に手を当てて考え込む。
「なんだっけ、聖女と監察院長に並ぶ意思決定機関? その七人の議員のうちの一人になれるんだよね。すごいことなんでしょ?」
聖女と監察院長を含む七人からなる議会。聖法協会の意思決定は聖女が一票、監察院長が一票、七幹部議会の総意による一票の多数決によって行われるという。
「まあ、ね。本当なら多分最年少での選任になるわ」
「そっか。おめでとう」
その言葉にハルは一瞬目を見開いた。それからうつむいて唇を震わせる、手に力を込めたのか少し肩をこわばらせ、かすれた声を絞り出すように言った。
「……ありがとう」
この学院を、ハルのもとを離れることが誰にとってもよりよい選択なのだ。
そうわかったのに、わかっているのに、決断しきれずにいる。この場でハルに自分の意志を伝えられずにいる。
この期に及んで思いきれずにいるのはなぜなのだろうか。いっそ今日限りで学院をやめてもいいくらいだ。それなのになぜ自分は明日のことを考えているのだろうか。なぜ学院で過ごす最後の一日に思いを馳せているのだろうか。
カソルには、自分のことすらもよくわからなかった。
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