第34話 カソル
六月九日(金)
翌日の放課後、カソルは円柱状の白い抱きまくらを抱えたハルとともに、図書館内の隠し通路に続く件の本棚の前に立っていた。ハルの目元には今日も薄いくまができている。
最後にアスカトラがここでどんな研究をしていたのかだけは調べておくことにした。
結局、ナノたちにも今日で最後だと告げることはしていなかった。
「じゃあ、また月曜日ねー」
そう言って教室を去っていったナノに、カソルとハルは曖昧な笑みを浮かべて応えた。学院を離れても会おうと思えば会えるわけだし、そもそも彼女たちにとっての自分は懇ろに別れを惜しむほどの存在でもないだろう。
そんな理屈が、カソルの頭の中で言い訳がましく響いていた。
「行きましょうか」
ハルの態度は昨日にもまして硬質で冷たかった。お役御免が濃厚と見て気を使うのをやめたのだろうか。これがハルにとって楽な態度ということならその方がいい。
「悪いね」
「気にしないで」
そう言ってハルは抱きまくらを胸元でぎゅっと抱きしめた。前回ここを訪れたあと、聖法協会に連絡してこの抱きまくらを用意してもらったらしい。
早速カソルが先導する形で中に入っていく。
光も音も遮断された暗闇は、腕にすがる温もりがなくなるだけで妙に寒々しい空間に感じられた。地面を蹴る足の裏の感触だけが確かで、真空の中を漂っているような妙な不快感が肌にまとわりついている。
ほどなくして例の隠し部屋にたどりつく。部屋の中は以前来たときと何一つとして変わっていなかった。
中に入って机の上に寄っていったハルが手近な本を開いて眉にしわを刻む。
「古代語が読めない私は役立たずよね」
「手持ち無沙汰だろうけどちょっと待ってて。まず全体をざっくり調べて重要そうなものだけ詳しく見るから」
結局、この部屋で行われていたことを知るために必要な情報の抽出には、三〇分強の時間を費やすことになった。
「お待たせ。終わったよ」
「意外と早かったわね」
皮肉にもアスカトラの「図書館」で身に付けた速読速習術が役に立った。調べている間ハルは何か変わったものや仕掛けがないか、部屋の中をつつきまわっていた。
「本棚に所蔵されている資料はすべて魔獣関連だった。実在する魔獣についての資料から架空の魔獣にまつわる伝説まで、いろんな内容、質の本が揃ってる」
「魔獣に関する研究をしてたってこと?」
機嫌の方は相変わらずだったが、研究の内容には関心があるようだった。
「半分はそれで正解」
カソルは言いながら一冊のノートの表紙をハルに向けた。
「研究の過程と結果はこの一冊のノートに収まってる。他の手記類は全部日記だった」
「本当に逐一自分の足跡を記録に残してたのね」
「あと、一七年前にもここに出入りしてた学生が一人いるみたいで、その人の研究日誌みたいなのもあった。そっちはまだ確認してないけど」
カソルはそのノートを取り上げて見せると、机の上に放った。そして真面目な顔でハルに向き直る。
「で、肝心のアスカトラの研究だけど、文字通り半分が魔獣の研究なんだ」
「どういうこと? 残りの半分はなんなの?」
「人間だよ」
意味がわからない、と首をかしげるハルにカソルは言葉を接ぐ。
「――魔獣と人間の交配。それが研究のテーマだ」
絶句するハル。カソルには今ひとつことの重大性がわからなかったが、街での生活で知識として得た倫理観や魔獣への嫌悪感、そして今のハルの反応を見ればそれがとんでもない所業であることは理解できた。
「……嘘でしょ?」
「いや、本当。アスカトラはある魔獣に目をつけてたんだ。強い魔力を持ち、人の魔術に近い現象を引き起こす魔猿。それが人と交わり神の子を産んだとする伝承があった。ここにある資料はそれが真実か、実在するならどこにいるのかを調べるためのものだった」
カソルのこの発言に何かを思い出したらしいハルが目を見開く。
「魔猿って、ちょっと待って。まさか……」
「アスカトラがこの研究を行っていたのは、一六二年前。例の神隠しの時期だよ」
「じゃあ山で目撃された白い魔猿が、その交配に使われた魔獣ってこと?」
頬を引きつらせるハルに、カソルは首を縦に振った。
「そういうこと。ノートによると、アスカトラはその魔猿を一匹しか捕らえることができなかった。その魔猿がオスだった」
「だから人間の女の人を実験台として捕まえた……。それが神隠しの真相ってわけ?」
「そして女性たちは用が済むと魔術で記憶を消されて解放された」
カソルがうなずくと、ハルは顔をしかめて首を振った。
「あり得ない。最低よ、そんなの。一体なんのために……」
「人型の魔獣を作ろうとしていたみたいだね。強大な魔力と繊細な魔術をあわせ持つ、人の限界を超えた魔術使いを生み出したかった」
「……結果は? 成功したの?」
ハルは祈るような面持ちでカソルを問い詰める。
「交配は成功したみたいだ。でも目的は達成できなかった」
「つまり?」
「人と魔獣の間に子供は生まれた。だけど現れた形質は魔獣のものだったみたいだね」
ハルは目を伏せ、頭痛をこらえるように頭に手をやった。
「おぞましいなんてものじゃないわよ……。人と魔獣の間に無理やり子供を作ろうだなんて。吐き気で胸がむかむかしてきたわ」
嫌悪をむき出しにして胸元を擦るハル。ハルがこの真実を受け止めきるには、多少の時間が必要なのかもしれない。
カソルはさきほど机の上に放った、一七年前の学院生による手記を手にとって中を開いてみた。
名前の記述などはなかったが、文体、筆跡ともにアスカトラのものとはまったく違うため別人と断言できた。
アスカトラの文字は一画一画がはっきりわかれ、筆圧も一定の、判で押したような文字だった。一方、この手記の主はすべての文が一筆で書いたようにつながっていて、ところどろに小さなインクの染みができていた。
アスカトラの記述ほどの重要性はないだろうが、一応読んでおく。
『俺を魔仙アスカトラの遺構に引き合わせてくれた神の差配に感謝せざるを得まい。もっとも、他の連中が信奉する神とは違う獣の神にだが。見たところ、ここに収められているのは魔獣にまつわる資料らしい。アスカトラが残した魔獣の資料。そんなものと、この俺がめぐりあうなど運命にしてもできすぎている。俺は来るべくしてここに来たのだ。そう確信せざるを得ない』
最初の一ページは部屋の発見への興奮を伝える文章だった。ここに入るための鍵となっている問いをクリアしたことから考えても、魔獣に対する関心は人並み以上に強かったものと思われる。それは興奮もするというものだろう。
『なんということだ。アスカトラは人と魔獣の交配を実現していたのか。このような研究が百年以上もここに眠っていたというのか。なんと恐ろしい。なんと悲しい。この革命的で夢と希望に満ちた素晴らしい研究が、これほど長きに渡って日の目を見なかったという事実に、途方もない悲嘆を覚える』
どうやらこの青年はハルとは真逆の感想を抱いたらしい。よほど特殊なタイプの人間だったのだろう。
『かの魔猿を探し始めてから今日で一週間。魔猿の痕跡すらつかめない。それも仕方あるまい。魔仙ですら一匹を見つけ出し、捕まえるのがやっとだったのだから。焦る必要はないのだ。人との間に子を成すことができる魔猿は必ず実在する。それは真実だ。真偽も不確かなまま探求を続けた魔仙に比べれば、何十倍も楽な道のりではないか』
実際に魔猿を探しに出たようだ。アスカトラの実験を模倣しようとしたのだろうか。
続く文章は、少し毛色が違っていた。
『ついに見つけた。白き魔猿。美しかった。あまりに美しかった。目にしたその瞬間、俺はすべてを忘れた。ただその魔猿に見とれていた。だからなのかもしれない。敵意も害意も、利用してやろうという意志も何もなかった。だからあれは、いや、彼女は俺に歩み寄ってくれたのかもしれない』
歩み寄ってくれたとあるのはどういうことだろうか。捕らえるのではなく、より融和的な接触に成功したということなのか。
『これは愛だ。俺は生まれて初めて愛というものを知った。俺は彼女を愛している。言葉も通じない彼女に焦がれている。もはや俺は魔術師などではない。アスカトラの研究などどうでもいい。人と魔獣の子などどうでもいい。俺は彼女を愛したい。俺は彼女に愛されたい。俺は彼女と愛しあいたい。今俺の中にあるのはそれだけだ』
この辺りからは具体的に何があったかが書かれていないことが多くなっている。出来事の記述より心情の吐露に紙幅が割かれている。書いてある通り、もはや魔術師としての理性は捨て去ったのかもしれない。
『ついに俺と彼女の間に、愛の結晶が実った。この深く温かな愛情に包まれた今ならば、アスカトラの行いがあまりに卑劣にすぎたものだったとわかる。きっとアスカトラに捕らえられた彼も、人と同じように愛を知っていた。だというのに行為を強制され、慈悲の欠片もない実験の道具にされた。アスカトラにとって魔獣は玩具でしかない。俺とは絶対に相容れることはないだろう』
愛の結晶。俗に男女の間にできた赤子を指してそう言うらしい。アスカトラの記述の通り、しかしそれとはまったく異なる過程を経て交配に成功したようだ。
しかしそのあとに記されていたのは、愛に生きる喜びとも卑劣への怒りでもなかった。
『駄目だ。どうにも体の調子がおかしい。もう長くはないのかもしれない。きっと街の連中なら禁忌を犯した者へ罰だと言うのだろう。せめて子供の顔くらいは見たかった。俺が死んだあと、彼女はどうするのだろう。俺は彼女と小さな命に何を残せるだろう』
そこまで読んだところで、カソルは妙な胸騒ぎを覚えた。何もおかしな記述はない。当然自分の身に何か危機が迫っているはずもない。ただ何か、頭の中に散らばった鋭利な破片がちくちくと脳を苛んでいる。
『そうだ。俺にも一つ残せるものがある。不必要かもしれないし、むしろ重荷になるかもしれない。単なる俺の自己満足なのかもしれない。それでも俺は、言葉を持たない彼女の代わりに、生まれてくる子に名前をつけよう。人の父がいたのだと知ることのできるように。俺がここにいた証を残せるように。このタグに名を刻んで彼女に託そう』
突如、頭の中で破片たちが組み合わさるような音ががちりと響いた。
『俺の名前に由来する名を。カソル。その三文字を』
「――っ」
呼吸が止まる。胸が痛い。肺が押しつぶされる。脳天をかち割られたような衝撃に襲われる。
どういう意味だ。名前を刻んだ。カソル。それが彼の与えた名なのか。
同じ部分を何度も何度も、繰り返し目を走らせる。読み間違いではないか。あるいは誤字ではないか。真っ白になりかけた頭で誤解の可能性をしらみつぶしにしていく。
その一方でどこか冷静な頭がその内容の真実味を検証する。
一七年前。失踪した学院生。自分によく似た顔。白い魔猿。自分の真っ白な毛髪。
すべての点を結ぶ線が、カソルの脳内を稲妻のように走った。
間違いない。一七年前に失踪した学院生と白き魔猿の間に生まれた赤子。魔獣と人の間に生まれた子供。アスカトラが求め、あきらめた人型の魔獣。
そう、それこそが――カソルという存在なのだ。
「どうしたの?」
ハルの声が耳に届き、カソルは我に返った。
「あ、いや……」
「そっちにもなんかとんでもない研究でもあった?」
ハルの嫌悪感に頬を引きつらせた顔を、直視することができなかった。
「たいしたことは書いてなかったよ」
「そう。それじゃあ行きましょうか。こんなところ、長居したくないわ」
吐き捨てるように言ったハルの言葉に、カソルは内蔵をえぐり取られたかのような感覚に襲われた。体が足元から燃え上がって、すべて灰になったようだった。
「……そうだね。行こう」
深呼吸して一つうなずくと動揺は不思議なほどあっさりと収まっていた。その代わり、緩やかな絶望と穏やかな諦念が胸を満たしていた。
「もうここに用はないから」
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