第35話 星空の下を行く

 行動を起こしたのはその夜のことだった。

 暗い部屋の中、ハルの寝息だけが静かに響いていた。

 カソルは音もなくベッドから抜け出し、ハルのベッドの脇に立った。左半身を下にして眠るハルの寝顔は大きなぬいぐるみに隠れてよく見えない。規則的な寝息に合わせて右の肩が小さく上下している。

 カソルはその場に何かを置いていくように、大きく息を吐き出した。それからその場を離れ、ひっそりと部屋を抜け出す。

 廊下を歩き、階段を降り、寮の外に出る。足を向けたのは聖法協会の高き塔が闇夜に溶けた南の空。目的地はそれよりも学院寄りにある一軒の邸宅。

 ルベルテインが生活の拠点としてる場所だった。

 頭を冷やすように夜気を大きく吸い込みながら歩きだし、学院の敷地を出た。

 ――あり得ない。最低。おぞましい。吐き気がする。

 不意にハルの言葉が脳裏をよぎった。

 そういうことなのだ。ハルにとって、自分という存在はそういうものだ。嫌悪と軽蔑の対象であり、決して受け入れることのできない禁忌の産物なのだ。

 いわばこれは、運命のつきつけた最後通牒なのだろう。

 昨日の時点で決断していれば、今日学院を訪れなければ、カソルがこの真実に触れることはなかった。それは、自分が人とは異なる存在だと自覚しながらしながら思い切ることのできない臆病な獣への、罰にも似た非情な宣告だった。

 決まりだ。自分は学院にいていい存在ではない。根本から違っていたのだ。人と理解しあえるなどと、あまつさえ自らが人に近づけるなどと、そんなことを考えていたという事実が、今はただただおかしかった。

 このまま学院にいても何も変わらない。いつまでも他の人たちやハルに不愉快な思いをさせ続けるだけだ。それがはっきりした。

 結局、あのあとハルとまっすぐ向き合うことはできなかった。

 生まれて初めて、怖いという感情に全身を支配された。

 ハルの放った侮蔑の言葉を思い返す度、みぞおちの辺りを絞られるような感触に見舞われた。ハルに別れを告げることを想像して、安堵や喜びを露わにするハルを思い描いても同じような感覚が襲ってきた。

 自分でもよくわからなかった。なぜこのような状態になっているのか。どうしてこんなにも胸が痛いのか。他の誰に何を言われようと、何をされようと、なんの痛痒も感じないと確信できるのに。

 戦いや狩りでどんな深手を負っても膝を折ることはなかった。どんな苦痛でも耐えることができていた。なのに今は違う。体には傷一つないというのに、脇腹に穴が空いたときの何十倍もの痛みにとらわれ、そしてこうしてハルから逃げだしていた。

「……はあ」

 ため息を飲み込んだ王都の夜は暗かった。常夜灯の設置されている場所は限られている。学院や聖法協会本部、そして王城のような場所では警戒・警備のために設置されているが、街灯のようなものはほとんどなかった。

 夜目の利くカソルには何も問題なかったが、普通の人間は危なくて出歩こうとは思わないだろう。とりわけハルのような、暗闇に強い抵抗を持つ人間にはどうあがいても夜遊びなどできようはずもない。

 くまのぬいぐるみを抱きしめながら深夜の街を徘徊するハルの姿を想像して芽を出した微笑の種は、カソルの胸に大きな棘を残してすぐに消え去った。

 小さな明かりにぼんやりと浮かぶ赤い豪邸の影が遠目に見えた。目的地のルベルテイン邸だ。実家とは別にルベルテイン個人に与えられている邸宅だという。

 武功という口実がないと本家に帰るのも一苦労だと、この前の面談の際、住所を教えるついでにルベルテインが笑いながらこぼしていた。

 このまま山に帰って二度と街には顔を出さないという選択肢もあった。しかし山に戻ったからといって何があるというわけでもない。いろいろありそうなのはアスカトラのもとだったが、それこそ一番ご免こうむりたい道だった。

 それなら少しの間くらい、ルベルテインに協力してみるのも悪くない。

 おそらくルベルテインも自分の出自は軽蔑するだろう。ただ、彼女は切実に力を求めている。外聞を気にするのならそもそも自分を頼るようなことはしないはずだ。他の人間に黙ってさえいればルベルテインの方は問題にしないだろう。それにクラスメートになるわけではないのだから、ハルのように辟易させてしまう心配もない。

 意志持たぬ兵器として使われること。それが自分にはお似合いなのだ。

 あとで念のため話はしておこう。それで拒絶されたなら仕方ない。そのときはもうおとなしく山に戻ればいい。

 気づけばルベルテイン邸の外周の柵までたどり着いていた。あとはこれをぐるりと回って屋敷の正面に出れば門がある。そこで呼び鈴を鳴らすと守衛がやってきて、建物の中に通してくれるらしい。

 灯りは建物の周辺を照らすための小さなものがいくつかあるのみで、百メートル近く離れたカソルのいる路上の暗さは何も変わらなかった。

 やがてたどりついたルベルテイン邸の正門は装飾の少ない無骨な外見で、普段のルベルテインの人を食ったような態度にそぐわない印象を与えた。

 脇にごく小さな灯りが備え付けられていて、そのすぐ下に呼び鈴らしきものがついていた。

 歩み寄ってそれの前に立つ。

 夜中に来てもいいとは言っていたが、本当によかったのだろうか。ハルと顔を合わせずに抜け出したかったからこの時間を選んだだけで、接見自体はいつでもいいのだ。今日はここで夜を明かして日が出てから呼び出してもいいか。

「……いや」

 やめておこう。今は足を前に進めていないと、つい後ろを振り返ってしまいそうだ。情けないことに、それが耐え難いほど苦しい。あと数時間ここでじっとそれと向き合うというのはかなり背筋が冷たくなるアイデアだった。

 奴隷のような扱いを受けても構わない。そう言ってのけたくらいなのだから、余計な気を回す必要もないだろう。

 カソルは呼び鈴のボタンを押そうと顔を上げ、腕を伸ばした。

 いくつもの弱々しい人工の光が目に飛び込んでくる。すぐ目の前の呼び鈴を照らしている灯り。柵の向こう側の建物の周囲を照らすいくつかの常夜灯。さしたる光量でもないはずのそれらが、なぜかやけにまぶしく感じた。

 不意に、記憶の片隅に刻まれた無数の柔らかな光の粒たちが、一抹の懐かしさとともに思い返される。無意識にその景色を求めてか、見えない何かに糸をひかれるようにカソルは顔を上げていた。

「きれいだ」

 満天の星が彩る天蓋へと思わずつぶやいて、顔を歪めた。

 自分には「美」などという余剰を慈しむ権利などないのに。人間でなければただの獣ですらないあぶれ者なのに。もう人の真似なんてしてもしょうがないというのに。

 どうして自分はあのときの彼女と同じことを口走ったりしているのだろうか。

 思い出というものがこれほどまでに胸を締め付けるものだとは思いもしなかった。ただ足跡だけ残していればよかったのだ。それなのに、望むべくもない輝きと瞬きを望んでしまった。

 なるほど、この苦痛は身の程知らずへの誅罰にはちょうどいいのかもしれない。

 星空から視線を切り、ゆるく首を横に振る。それから上げたままだった右腕を再び伸ばした。

 人差し指がなぜか震えている。夜気が熱く感じるほど体が冷たい。その感覚から逃げる唯一の手段と信じて、小さなボタンを押し込もうとした――その瞬間だった。

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