第18話 甘える温もり

 爆発によってハルを中心として発生した煙の渦は教室全体に広がり、一寸先を見通すことすらできなくなる。

「何? 何が起きたの……?」

 次第に薄れていく煙の中、カソルの傍らでナノが当惑の声を上げる。

「魔術の暴発だよ。多分教室全体に何かしらの出来損ないの魔術がかかった」

「ええっ!? で、でも今のところ私は特に異常ないような……」

 ナノは自分の顔や体を恐る恐る触って確かめる。

「多分ナノは僕の遮断魔術の範囲内にいたから大丈夫」

「あ、そうなんだ。ありがとう」

 そうしてようやく煙が収まり、教室全体が見渡せるようになる。カソルとナノは目を凝らしてクラスメートたちの様子を窺った。

「あれ? 普通だね」

 ナノの言う通り、見た目には何もおかしなことは起きていなかった。生徒たちは先ほどまでと変わらない姿形、服装で座席についている。それを確認したナノが胸をなでおろしたそのときだった。

「うっわー、きったねー。お前背中にアリサ菌ついてんぞ」

「は? はい、お前につけたから俺もう大丈夫―」

「バリアしたから無効でーす」

「せっこ! ふざけんなよ!」

 と、教室の後方から男子二人の騒がしい会話が聞こえてきた。

「ちょっと! アリサちゃんが汚いみたいな言い方やめなよ! かわいそうでしょ!」

「セレア菌も飛んできたぞ! ぎゃー、感染するー!」

 一人の女子生徒が割って入ろうとすると、男子のうち一人がゲラゲラ笑いながら席を立って女子から逃げるように後ろに下がった。

 しばしあ然としてそれをながめていたナノは、首をぶんぶん振って我に返った。そして素早く隣のカソルを振り向いて叫んだ。

「全然普通じゃないよこれ!」

「そうなの?」

「そうだよ! これじゃ初等部だよ!」

 ナノが頬を引きつらせて頭を抱える。

「ねえ、私の消しゴム返してよー!」

「はあ? 俺じゃねえし! なんで俺がお前の消しゴム盗るんだよ!」

「ギルム、ミーアのこと好きなんじゃないの?」

「ちっ、ちげえし! んなわけねえだろ! 変なこと言うとぶん殴るぞ!」

 今度は窓際の座席でかしましい諍いが発生する。ナノは混乱する脳を諌めるように頭を抱えて教室中にぐるぐる視線をめぐらせる。

「あ、もしかして再生魔術が暴発して、みんな退行しちゃったってこと!? どっ、どどどどうしよう!?」

「にぎやかでいいんじゃない?」

「よくないよくない! 体大きいままでこんなになっちゃったら大混乱だって!」

 にこやかに言うカソルに、ナノは勢いよく右手を振った。架空の菌をなすりつけ合う男子たちをたしなめに行こうとして、しかし騒動に巻き込まれるのを恐れてか、ためらうように足踏みするナノ。

「うるさいぞ、お前たち!」

 そうしているうちに騒がしい教室に朗々かつ堂々たる声が響き渡った。声の主は腕を組んで教室を見回すエルレイだった。

「今は授業中だぞ! 為すべきを為さぬ者に大成なし! お前らに魔術師としての誇りはないのか!」

 静まり返る教室。エルレイは満足げに一つうなずくと、椅子に腰を下ろした。

「はい、エルレイきーん」

「やめろって! 俺も変なしゃべり方になっちゃうだろ!」

 男子生徒二人の馬鹿笑いがこだまして、再び教室が騒音にあふれる。エルレイの背中は静かな怒りにただ打ち震えていた。

「エルレイは大丈夫だったんだ」

「あー、いや、エルレイくんは昔からああだったから……。昔のほうがちょっと気弱だったけど」

 呆れるような、それでいて少しほっとしたような複雑そうな表情で頭をかく。

 カソルはふと気になってハルに目を向けてみる。ハルは背後の喧騒をものともせず、一心に机の上のヘアピンに向き合っていた。

「えい! えい! えい! えい!」

 真面目な顔で杖を振り続ける。ナノが今の実力を身につけるに至った理由を垣間見ているようで、カソルはなんだか微笑ましい気持ちになった。

「えい! えい! えいっ、えい、えい……」

 しかし、何度も繰り返しているうちに声に張りがなくなっていき、最期は蚊の鳴くような声を漏らすばかりになってしまった。ついには杖を振る手も止まり、がっくりと肩を落としてしまう。

「うぅ、できないよぉ。ふえぇ、ぐすっ、うぇ……」

 そしてしゃくりあげ始めると同時、目頭から泉のように涙が湧いてくる。それはすぐにあふれて両頬にまっすぐな足跡を残していった。嗚咽は漏らしても大声でみっともなく泣きわめいたりはしないところに、今と変わらぬハルの矜持を見た気がした。

 そうやってカソルがハルをながめていると、不意にハルがカソルの方を向いた。

 ハルは少し充血した目でまっすぐにカソルを見つめていたが、やがておもむろに座席から立ち上がった。よちよちとおぼつかない足取りでそのままカソルに歩み寄る。

「できないのぉ……なんで、なんでぇ……」

 そして、そんな泣き言を言いながらカソルに抱きついてきた。

「――――え」

 さしものカソルも驚きに目を見開いた。精神が退行しているとはいえ、ハルがこういった行為に出たということへの驚き。それもある。

 しかしそれと同時に人と触れ合うという行為、自分の体験としてのその新鮮さもカソルに衝撃を与えていた。

 思えば生まれてこの方、人とこれほどまでに密着したことなどなかった。

 街に暮らす人間の多くは母に抱かれ、父に抱え上げられ人肌のぬくもりを帰るべき温度として心に刻むのだろう。だが、自分にそれはない。自分が知っているのは沸騰した魔獣の血潮と、アスカトラの氷のように冷え切った手と眼差しだけだった。

 感情を露わにしているためか体温の上がっているハル。その体は当然外気よりずっと熱い。しかし自分の体を通して感じるそれは、なぜか熱くは感じなかった。

 それは油断に似た感覚だった。軽率で、唾棄すべき心理状態。放っておけば命を落とすことにつながる心の病巣。しかしそれに身を委ねることはなぜか心地よく、いつまでも心安らかにこのぬるま湯に浸かっていられたらと思わされる。

 なるほど、自分には今後とも縁のない、遠ざけてしかるべき感情ではある。しかし人々がそれを求めることは十分に理解できる。図らずもまた一つ、学院にやってきた目的の一端を果たすことができた。

「ねえ、カソルくんならこの状況どうにかできたり……」

 すがるようにカソルを顧みたナノは、その状況を見て固まった。

「――って、なんか抱き合ってるぅ!?」

「いや、ハルが抱きついてるだけだよ」

「え? あ、確かに。それなら……っていやいや、そういう問題じゃないって!」

 一瞬相好を崩したかと思うと、すぐさま首を横に振った。ハルは相変わらず鼻をすすりながら顔をカソルの胸に押し付けている。

 そんなハルを見つめるナノの面持ちが、唐突に神妙さを帯びる。何か思案するような、逡巡するような心ここにあらずといった表情だった。

「ナノ? どうしたの?」

「え、あ、いや、その……」

 声をかけられ顔を上げたナノは、少し頬を染めていた。

「お、おかしいなー。私にも遅れて魔術の影響が出てきたような……」

 不自然な芝居がかった口調で妙なことを言う。

「いや、それはさすがに……。遅効性の魔術は確かにあるけど、暴発した魔術が一人にだけ遅れて効果が出る可能性は考えづらいし」

「うーん、私子供だから難しいことわかんないや」

「えーと……」

 てへ、とわざとらしく舌を出すナノの振る舞いは、どこからどう見てもそういう振りにしか見えない。ナノが何を考えているのかわからず、カソルは口ごもるしかなかった。

 ナノはそれを意に介さず、なぜかしずしずとカソルの方に擦り寄っていく。何をする気かと身構えていると、ナノは恐る恐るカソルの腕を取って豊かな胸の間でかき抱いた。

「えー、これは……」

 カソルの問いには答えず、ナノは腕を抱く力を少し強めた。

 正面からはハルに密着され、側面からナノに腕を取られる。触れたことのない柔らかな感覚がに方向から体を圧迫している。ハルはともかく、ナノの意図がまるでわからない。仮に本当に魔術の影響を受けているとして、腕に抱きつく理由は特にないのではないか。

 騒がしい教室の景色をながめながらどうしたものかと考え込む。

 しばらくそのまま立ち尽くしていると、やがて不意に右腕が解放された。

 見ればナノは真っ赤な顔でその場にしゃがみこんでいた。

「ごめんなさい嘘つきました」

 そして消え入りそうな声で言う。

「うん、だろうとは思ったけど」

「何やってんだろう、私。我ながら意味不明なことしちゃった。冷静になったら恥ずかしすぎて死にたくなってきた」

「それで、今のは……」

「ごめん、なかったことにしてもらってもいい?」

「え? まあ、うん……」

 アンニュイな笑みを浮かべるナノから漂う悲愴感に、カソルはうなずくしかなかった。

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