第19話 微熱の自覚は突然に

「とりあえず……このままはいろいろよくないんだよね?」

 カソルは賑やかな教室を見回して、ナノに確認するように言う。

 そしてハルの両肩を押して自分から引き剥がした。

「や、やあだぁ……」

 離されたハルは伸ばした両手でもがくようにして再びカソルにしがみつこうとする。

「ねえ、なんか罪悪感がすごいんだけど」

「うん、なんかいじめてるみたいな……」

 あまりに幼気なハルの仕草に、どうにも邪険にするのをためらってしまう。思わずカソルが力を緩めるとハルは元の位置にすっぽりと収まって胸板に頬をこすりつけた。

「ううん、どうすれば……って、そういえば先生は?」

 ナノが思い出したように教壇に目を向ける。クルランは完全な無表情で腕を組み、ただ教卓の前に仁王立ちしていた。

「どう、なのかな? 特定の年齢の再現なら先生もだめかもだけど、何年か前の再現ってことなら先生はある程度話が通じるはずなんだけど……」

 ナノが戸惑いながらもクルランの方へ一歩踏み出したそのとき。

 ――ドンッ!

 教卓に拳を叩きつけ、クルランが叫んだ。

「るっせーんだよ、クソガキども!」

 教室が痛いほどの静寂に包まれる。視線という視線が、教壇に立つ若い美人教師に集中した。

「ぴーちくぱーちく雛鳥みたいにやかましくさえずりやがって。耳がキンキンするったらねえぞこら、ああん!?」

 クルランは不快そうに口元を歪めながら乱暴に人差し指を突っ込んで耳をかいた。そして見得を切るように教室を見回すと、足元に唾を吐き捨てた。

 再び水を打ったような静けさに包まれる教室。

「誰!? あの人誰!?」

 ナノがクルランを指差し、ねじ切れんばかりの勢いで首を回してカソルの方を向く。カソルは意外な思いで首を傾けた。

「みんな知らなかったの?」

「知らなかったって、何を!?」

「あの人はもともとああみたいだよ。若いころはずっとあの調子で、今でもときどき素が出るみたい。お皿割ったのもそのせいだし」

「し、信じられない……」

 ナノが頭を抱えるのをよそに、クルランは教壇を降りて教室後方へと歩いていく。そして驚きと恐怖に凍りつく、菌遊び男子二人の前で足を止めた。

「特にてめえらだよ、おい。菌だか金玉だかしらねえがそんなに騒ぎたきゃあたしの耳に届かないところでやれ。おすすめは地獄の釜ん中だ。案内してやろうか?」

 そう言ってクルランは手近にいた方の生徒の胸ぐらをつかんで上に持ち上げる。そして口元を吊り上げて凶悪に笑った。

「ああ、いいこと思いついた。そんなに菌が恐ろしけりゃあたしが消毒してやるよ。この世で一番有害でうすぎたねえ、てめえっていう雑菌ごとなあ!」

 クルランが空いている左手で燃焼魔術を発動する。教室内の生徒が一斉に息を呑んだ。

「ま、まずいよ、カソルくん! どど、どうにかしないと!」

「そうだね。先生を元に戻してあげないとエルレイが死ぬ」

「エルレイくん?」

 ナノが困惑しつつエルレイに視線をやる。

 エルレイは自らの座席の傍らで、膝をついて床に顔面をこすりつけるように倒れ込んでいた。

「出た! 幼少期エルレイくんの特技、都合の悪い現実に直面したときの自動シャットダウン! 間違いなくエルレイくんも子供に戻ってる!」

「憧れの人のあんな姿を目の当たりにしたらね」

「って、そんなこと言ってる場合じゃなくて! あっちの男子二人には本格的に命の危機が迫ってるんだってば! カソルくん、なんとかできないの?」

 ナノはせわしなく教室後方とカソルの間で視線を行き来させながら言う。

「できないこともないけど……」

「けど?」

「ハルが邪魔で」

 教室の狂乱なんのその。いいかげん泣き疲れたらしいハルは黙っておとなしくカソルの胸に体重を預けていた。

「ええい、もうこうなったら私が心を鬼にして引き剥がします! その間になんとか!」

「わかった」

 クルランは嗜虐的な笑みを浮かべながら、不気味に揺らめく炎をゆっくりと男子生徒の顔面に近づけていく。

「せーの、ほい!」

 ナノがハルの両肩に手をかけ、掛け声とともに一気にハルを引っ張る。不意を突かれた格好のハルは抵抗もままならないままカソルから剥がされた。

「それじゃ、そのままで」

 カソルは眼球を素早く動かし教室内の生徒の一人ひとりの存在を認識していく。自身とナノを除く生徒二八名とクルランを合わせた計二九名。それぞれにかけられた再生魔術の詳細を分析し、その解除を図る。

 数が多いとはいえ、かかっているのは暴発した魔術。魔術の強度は術者の込めた思念に左右される。根深い怨恨や痛切な願いによる魔術を打ち消すのは困難だが、暴発のような偶発的な現象の場合は意志も弱く、魔術そのものも不完全なため同時の解呪もそう難しくない。

「ほら、ハルちゃん。代わりに私が抱きしめてあげるから、ね?」

「いやぁ……カソル、カソルぅ……」

 ナノはハルに正面を向かせて抱きすくめようとするが、ハルは必死に身をよじってそれから逃れようとする。

「なんか傷つく!」

 天を仰いで悲嘆の叫びを上げるナノ。それを横目にカソルは分析を終える。

「よし、これで」

 息をついてパチンと右手の指を鳴らす。その音が波となって教室全体に響くと、時が止まったかのように生徒やクルランが一瞬動きを止めた。

 胸ぐらをつかまれた男子生徒は、前髪が炎にあぶられてちりちりになっていた。

「あ、あれ? 私……」

 戸惑いの声とともに、クルランが持ち上げていた右腕を下ろす。吊り上げられていた男子生徒も何がなんだかわからず、そのまま床に座り込んでしまう。

 魔術にかかっていた間の記憶がないのか、皆一様にまばたきを繰り返しながらキョロキョロと辺りを、特にクルランの方を見ていた。

「え、何? どうなってるの?」

 ナノの腕の中で正気を取り戻したハルも自分が置かれている状況を理解できずにいた。

「はあ、よかったぁ……」

 ナノが大きくため息をついてハルを解放する。ハルは説明を求めるようにカソルとナノを交互に見やった。

「君が再生魔術を暴発させて、僕とナノ以外みんな精神だけ子供のころに戻ってたんだ」

「え、私?」

「まあ、多分僕が杖に魔力入れすぎたせいなんだけど」

 森でハルに強化魔術をかけたときもそうだが、まだどうにも街の魔術師の基準に合わせた加減というものがよくわからない。

 苦笑しながら頬をかくカソルの言うことが、今ひとつ飲み込みきれていない様子のハル。

「ええと、ひとまず特に大きな問題はないのよね?」

「うん、みんな悪い夢でも見てたと思えば」

「それならまあ……いいわ」

 納得がいっていないという風ではあるが、ハルは自分が原因という気まずさもあってか深く追求しようとはしなかった。

「でも意外だったなー。ちっちゃいころのハルちゃんって甘えん坊だったんだね」

 ナノが先ほどのハルの様子を思い出してにこにこ微笑む。

「え、私が?」

「うん、なんか可愛かったよ」

 ハルは腕を組み、顎に手を当てて眉根を寄せる。

「そんなことないと思うんだけど……。親以外の人には絶対なつかないって、昔から近所の人に茶化されてたし」

「でもハルちゃん、さっきまでカソルくんにべったりだったよ」

 ナノの何気ない一言にハルは顔色を変えて目を見張った。

「べったり? べったりって何?」

「カソル、カソルって言いながらぎゅーって抱きついて胸にすりすりって」

「私が? カソルに?」

 ナノのジェスチャーを交えた説明に、ハルが戦慄するように背筋を震わせる。そして冗談であることを祈るような顔つきでカソルの方を向き確認を取る。

「まあ、うん。新鮮な体験ではあったね」

 マグマがせり上がってきた火山のように急激に赤くなるハル。震える唇を開いたり閉じたり、焦点の合わない目で虚空を見つめて呆然と立ち尽くす。

 しかしやがて熱を吹き飛ばすようにぶんぶんと首を振った。

「で、でも、そんなのあり得ないわ。本当に私が子供に戻ったんなら、絶対にそう簡単に人に抱きついたりしないもの」

「そう言われても、ねえ。実際カソルくんにすっごく甘えてたし」

「だ、だって本当に両親以外に甘えたことなんてなかったのよ? それも本当につらいときだけ。なのに私がカソルに抱きついたってなったら、まるで私にとってカソルが……」

 ハルはそこまで言って絶句した。口を半開きにしたままうつむきがちに硬直し、そのまま微動だにしなくなる。

「おーい、もしもーし」

 ナノが呼びかけながらハルの目の前で手を振った。やはり反応はない。

「……自動シャットダウン?」

「エルレイくんの仲間……?」

「あんなやつと一緒にしないで!」

 反射的に顔を上げ、エルレイの座席を指差す。そしてその指を追った視線が床に口づけしたまま気絶しているエルレイを捉えると、ハルはまた固まった。

「何? どうしたの、あれ」

「とびきりひどい悪夢を見たんだ。そっとしておいてあげて」

「あとで本人に見せてあげたい光景ね」

 それでもクルランの大暴れを思い出すより心の傷はかなり浅く済むかもしれない。

「それで、ハルちゃんは何を言おうとしてたの?」

 ナノが話題を軌道修正すると、ハルは喉に何か詰まったかのような渋面を作った。

「まあ、その、ええと……私の勘違いだったわ」

 目を明後日の方角に向けながら、多少上ずった声でそんなことを言う。

「勘違い?」

「そう。両親以外に甘えなかったのはもっと本当に小さいときだけで、物心ついてからは結構甘えたがりな時期があったような気がするわ」

「やっぱりそうなんだ。意外だね」

 にやにやとからかうような微笑を浮かべてナノが言う。ハルは視線を泳がせたまま曖昧な笑みを浮かべる。

「え、ええ、恥ずかしい限りね。うん、だから、そう……そうね。あんまり気にしないでおいて。あ、でもカソルに迷惑かけたことについては謝るけど」

「いや、そんなに悪い気分じゃなかったよ」

 自分とは今後縁のない感覚、感情ではあるだろうが。

「そう、そうなのね。……悪くなかった。うん、それならよかったわ」

 ハルはカソルと目を合わせないまま、独り言のように言ってしきりにうなずいていた。

 カソルたちがそうしているうちに、クルランは教壇の上に戻っていた。未だに釈然としていないようだが、教師としての責任感が優先されたようだ。

「ええ……それでは授業を再開しましょう」

 いまいち張りのない声で言ってから、眼下のエルレイに気がつく。

「ソ、ソージアくん? 大丈夫ですか? ソージアくん」

 教壇を降りて心配そうにエルレイの肩を叩く。エルレイはうんともすんとも言わない。

「い、一体どうしたんでしょう」

 果たして、自分がこのエルレイの惨状を招いた最大の加害者であることにクルランが気づく日は来るのだろうか。

 それぞれの心情はよくわからないが、やはり今回の件は何もかもなかったことにするのがクルランにとってもエルレイにとっても、そしてハルにとっても最善なのだろうとカソルはしみじみ思った。

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