第3話 はじめての登校
六月五日(月)
「一番上までボタン留めて苦しくないの?」
カソルは隣を歩くハルに何気なく尋ねた。
「外したらだらしないじゃない」
きれいに磨かれた廊下のタイルに、中央王立魔術学院の制服をまとったハルの呆れ顔が反射する。制服にはしわ一つなく、リボンの角度にも乱れはない。スカートの長さも寸分違わず校則通りと、何から何まで模範的な装いだった。
「あんたも留めたら?」
「窒息死しそう」
「……せめてネクタイはもっとちゃんと結びなさいよ」
肩をすくめるカソルのシャツの襟には、固結びされたネクタイが巻きついていた。
「うーん、どうにも難しくって」
「ほら、ちょっとこっち向いて」
苦笑するハルがカソルを促す。黙って言うことを聞いてハルの方に向き直る。ハルはちょうど自分の顎くらいの高さにあるネクタイに手を伸ばした。
「こうして、こっちの太い方をこう巻きつけるようにして。で、この穴にこれを通す。結び方はいろいろあるけどこれが一番簡単だと思うから……って聞いてる?」
ハルがネクタイを手にしたまま顎を上げる。
カソルは感心しつつハルの顔をながめていた。至近距離で見つめ合う形になり、ハルの頬にわずかに朱が差した。
「ち、ちゃんと手元を見てなさいよ」
「いや、面倒見いいんだなって」
「普通よ、普通」
ハルはふんっとそっぽを向いてネクタイを勢いよく締めた。
「ぐえっ」
カソルがえずくのを横目に、ハルは窓に映る自分の姿に一瞬目を留めてすぐに視線を切った。
それからおもむろにポケットからくしを取り出す。肩にかかるかかからないかというくらいの長さの後ろ髪の、ゆるくウェーブした毛先に一度通したあと、何かを確かめるように左手の指で梳く。
栗色の髪の毛は変わらず波打っていた。ハルは不満そうに唇をとがらせると、繰り返し毛先をとかした。
やがてあきらめたようにくしをポケットに戻すとカソルの足元に視線をやった。
「あ、かかと潰してる。それもみっともないからやめてよ。一応私の付き人って体で入学するんだし」
「はいはい……よいっしょっと」
お辞儀するように腰をかがめ、そのまま上履きのかかとを立てて履き直した。
「……はあ、なんで私が」
「まあ、監視は必要だろうしね。その点、君は事情もわかってるし僕と同年代だから一緒にいても怪しまれない。これ以上ない適任だ」
「一応、将来の聖法協会を背負う人材として魔術師側との相互理解を促進すべしってお題目もあるんだけどね。白々しいったらないわ」
王立魔術学院は、今カソルとハルがいる王都ラルセに校舎を構える中央以外に、四つ存在している。王都は王国の北端に位置しており、背中を峻厳な山脈に預けている。そのため中央とは名ばかりではあるが、各地のエリートが集まる最高の魔術教育機関である。
魔術学院の規模はいずれも同等だ。一学年あたりのクラス数は原則として十。各クラス三十人ほどで、一つの学年に三百人前後の生徒が在籍している。王立魔術学院への入学は一握りの人間に許される魔術師としてのエリートコースだ。
「あんたは嫌じゃないの? 監視なんてつけられて。しかも付き人扱い。魔術師が聖法官の付き人になるのは珍しくないけど、魂を売ったとかで冷たい目で見られるわよ」
「実際に君が僕に何か命令するわけじゃないんでしょ? それなら別に。人にどう思われようと関係ないから。名誉とか地位なんて自由の邪魔しかしない」
「達観してるわね。私は名誉って大事だと思うわ。少なくとも、聖女が名誉ある立場じゃなきゃこの国はとっくにバラバラになってる。もちろんそれがすべてじゃないけど」
「国とか世界なんて漠然としたものに思いを致せる君の方が、よっぽど達観してるよ」
「……これが世界を救った人間の口から出た言葉だと思うと、自分の無力さに頭が痛くなるわね」
曲がり角に差し掛かろうかというところで、角の向こうから薄く笑みを浮かべた一人の女性が姿を見せた。女性の姿を目にした瞬間、ハルが険しい顔でその場に立ち止まる。
二人の存在に気づいて顔を上げたその人物は、口元に独特の弧を描いて微笑んだ。
「あ、カソルくん。それにハルも」
嗜虐的な笑みを浮かべたのはルベルテインだった。
「おはようございます。監察院長」
硬い声で応じるハル。ルベルテインは含みのある笑みを浮かべて唇を尖らせた。
「冷たいんだー。姉さんって呼んでくれていいんだよ? 従姉妹なんだし」
「お戯れはおやめください。私の両親にも私にも、高貴なルベルテイン家の方とのご縁はございませんので」
ルベルテインは口元に手を当て、くつくつと笑った。
「あなたのご両親はそうかもしれないけど……。なんなら私があなたの本当のお姉さんになってもいいんだよ? 母上もお許しくださると思うの」
「身に余る光栄痛み入りますが謹んでお断りさせていただきます」
「慇懃無礼ってこういうのを言うのかな。カソルくんも先が大変そうだね」
ルベルテインはそう言ってカソルの肩をぽんぽんと叩いた。
「今日は時間ないからこれで失礼するけど、今度お茶でもどう?」
「お茶? 別にいいですけど」
「やった。ふふ、それじゃあまたね」
終始余裕を感じさせる表情と口調でその場の空気を支配していたルベルテインは、ひらりと手を挙げて二人の脇を通り過ぎていった。ハルはその間黙って会釈していた。
顔を上げたハルは大きく息をついた。
「どういう風の吹き回しかしら」
「何が?」
「あの人が魔術師に対してあんなに親しげに接するなんて前代未聞よ」
「親しげって、肩叩かれただけだよ?」
カソルは自分の右手を肩に乗せて再現して見せた。
「あの人は絶対に魔術師に触らないの。不浄だとか言ってね。……な、なのに」
そこまで言って急に頬を染めるハル。
「あまつさえ……デ、デ、デートの誘いなんて……」
「デート?」
「だ、男女が二人でお茶なんて、デートとしか言いようがないでしょ!」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
単に、アスカトラと接点を持つという特殊な存在への興味があるということではないのだろうか。自分の知識と照らし合わせる限りではデートとは違う気がするが、街の人々の用法的にはそうなのかもしれない。一応頭に入れておこう。
「そういえばカンサツインチョーってなんなの?」
カソルは、まっすぐに背筋を伸ばして歩くルベルテインの後ろ姿を顧みながら尋ねた。
「尻に刺すあれ?」
「それはカンチョー。省略しすぎでしょうが」
淡々とツッコミを入れてから続ける。
「聖法協会のナンバーツーよ。聖法協会には、王国全土の風紀と治安を守る監察院って組織があるの。協会の中で聖女の指示がなくても動ける唯一の組織。そのトップがあの人。魔術学院にもよく抜き打ちの査察で顔を出すわ」
カソルの視線に応えるように、口元に美しい三日月を湛えたルベルテインが足を止めないままで振り向いていた。カソルは視線を切って苦笑する。
「手強そうだね」
「今の聖女様との競争に負けて今の地位に収まったけど、実力は同等かそれ以上って聞くわ。あなたがそう言うなら本当なんでしょうね」
「どうして聖女になれなかったの?」
ハルは真顔に戻って肩をすくめた。
「聖女になるには原則としてその前の聖女の推薦がいるのよ。あの人がそれをもらえなかった理由はいろいろあると思うけど……。とにかくかわいそうな人ね」
それだけ言って角を曲がる。カソルもそれに続くと、廊下の先の職員室の前に若い女性が立っているのを認め、二人は口をつぐんだ。そのまま歩み寄っていくと、女性はにこやかに二人を迎えた。
「こんにちは。ハル・エベラインさんですね」
「ええ、あなたが担任の?」
「はい。アリア・クルランです。そちらが付き人の……」
「どうも。カソルです」
付き人にしてはやたらつっけんどんな物言いに、クルランはわずかに目を見張った。
「……ええと、お二人とも、これからよろしくお願いしますね。ではホームルームがありますので……っと、その前にこれですね」
クルランはローブの懐から一本の短い杖を取り出した。
「それは?」
「使用者の魔力なしで簡易的に魔術を発動させることのできる道具です。杖の中に魔力が充填されているので、ごく簡単な魔術であればこれで使えるようになります」
「なるほど。ありがとうございます」
ハルは丁寧に頭を下げてから杖を受け取った。
「それでは教室に行きましょうか」
そう言ったクルランのあとに続いて、カソルとハルも歩き出した。
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