第4話 自己紹介

 クルランのあとに続き二人は教室に向かって行く。ハルがカソルの耳元に顔を寄せた。

「ほら、あんた添え物扱いよ? 腹立たないの?」

「全然。面倒な話は全部君の方に行ってくれそうだし助かるよ」

「うー、なんかむかつく」

 広大な校庭を囲む校舎は、北側の空いたコの字型。職員室のある校舎の東側からまず階段で二つ階を上がり、南側の校舎の廊下へ入る。三階の南側の辺には、第二学年の各クラスの教室が並んでいる。

 やがて一つの教室の前でクルランが立ち止まり、二人もそれにならった。

「ちょっと待っててくださいね」

 ハルがうなずくのを見届けてから、クルランが教室の中に入った。漏れ聞こえてきた声は新しい仲間が加わることを生徒たちに伝えていた。

 教室の中がにわかに騒がしくなる。エリート中のエリート校である中央に、二年の六月からの編入者など異例中の異例なのだろう。

「では、どうぞ」

 再びドアを開けたクルランは、柔和に微笑んで教室の中へ入るよう二人を促した。

 カソルはハルのあとに続いて教室に足を踏み入れる。息を呑む音と、思わず飛び出た小さな驚きの声が耳に届く。目を剥いた幾人かの生徒の視線はハルに釘付けだった。

 二人は教壇の横に並んで立ち、新たなクラスメートの方へ向き直った。

「えー、知っている人もいるようですがこちら、中央聖法学院を飛び級で卒業して聖法協会入りした、ハル・エベラインさんです。将来の聖女選出確実と言われるエベラインさんは、魔術師の文化を理解するため、今日からこのクラスで一緒に授業を受けることになりました」

 クルランの言葉を聞いた生徒たちの反応はあまり優しいものではなかった。無関心の者が八割、警戒心をあらわにする者一割、敵愾心を瞳に燃やす者一割といった塩梅。

 国王の話にあった通り聖法官と魔術師には地位における格差があり、それが両者の間にやすやすとは埋まらない溝を作ってしまっているのだろう。

 もっとも、当のハルは涼しい顔でその視線を受け止めていた。

「それとこちらが付き人のカソルさんです。じゃあ、お二人の方から自己紹介をどうぞ」

 ハルが先にあいさつするものと思ってカソルが大きなあくびをしていると、不意にハルのにこやかな顔が向けられた。

「え、僕?」

 ハルが素早く身を寄せて耳打ちする。

「本当はあんたがメインなんだから」

「ふーん、まあいいけど」

 カソルは面白そうな生徒でもいないかと、それぞれの顔をながめつつ口を開いた。

「こんにちは。カソル……えーと、名字なんだっけ?」

 眉を上げてハルを見る。

「私に聞かないでよ!」

「君なら覚えてるかなと」

「アルフマン! カソル・アルフマンでしょうが!」

「そうだった。さすが飛び級」

「馬鹿にしてるのかしら……!」

 カソルがこっそり親指を立てると、引きつった頬をぴくぴく震わせながら、極限までボリュームを殺して怒鳴る。

「カソル・アルフマンです。一応魔術師です。こちらのハル・エベ、エレ……エレベー」

「エ・ベ・ラ・イ・ン!」

「ハル・エベラインの付き人です。よろしくお願いします」

 それだけ言って言葉を切ると、クルランが困ったようにまなじりを垂らす。

「えっと、できればもう少し……趣味とか」

「趣味?」

 カソルはクルランの視線をそのまま反射するようにハルへ飛ばした。

「だから私に……! はあ、もういいわ。あんたにもなんか一つくらいあるでしょ、やってて楽しいこと」

「楽しい? うーん……」

 カソルは腕を組んで低く唸る。もちろん趣味という言葉の意味は知っている。楽しいという言葉の意味もわかる。満ち足りているだとか、愉快だとか、そういう感情を指す言葉だ。ただ今までにそういうものを自分の感覚として自覚したことがない。

 満足感を得られる体験。カソルはこれまでの自分の人生を振り返ってみる。

「そうですね……強いて言えば魔獣と――ふごっ」

 言いかけたカソルの口元がハルの白く細い手で叩きつけるように押さえられた。ペチッという乾いた音とともにカソルがややのけぞる。

 カソルは突然の暴虐に抗議しようと押さえつけられた口をもごもご動かす。すると、唇の動きと吐息がくすぐったかったのかハルは手を外した。

「バカ! 魔獣をどうこうできる魔術師なんてあんた以外いないんだからね!?」

 そしてカソルに詰め寄って囁くハル。それにうなずいて応えると、改めてきつくにらみつけられてから口が解放される。

「ええと、今なんて? 魔獣?」

 カソルが一息ついていると、クルランが戸惑いがちに尋ねてくる。

「ああ、いえ。、まじ、まじゅ……まじ憂鬱すぎて趣味とか言ってられないんすよ。みたいな感じでどうでしょう」

「ど、どうでしょうと言われても。なんか余計なこと聞いてしまいましたかね。ごめんなさい」

 クルランは戸惑いに頬をかきながらハルに水を向ける。

「それでは続いてエベラインさんも自己紹介を……」

「……はい」

 前途の多難を慮ってのことか、覇気のない声で答えてからハルは下を向いて気を取り直すように大きく息を吸い込んだ。

 しかし再び上げた顔には、いつもながらの自信に満ち満ちた微笑があった。

「ハル・エベラインです。クルラン先生からご紹介にあずかった通り、聖法協会所属の正規聖法官です。趣味は読書です。もっとも、日々の聖法の研鑽も趣味と言って差し支えない程度に楽しんでいますが」

 物怖じという言葉とは一切無縁な、立て板に水の物言いだった。生徒たちの厳しい視線に萎縮することなく、自らを誇り、語っている。

「確かに私はみなさんの二歩、三歩先を行っているかもしれませんが、私はみなさんと相互理解を深めたいと思っています。ぜひ気後れせずに声をかけてください」

 教室の空気が一気に冷えた。ただでさえ地位の格差がある相手に露骨に見下されればたまったものではないだろう。その程度の人心はカソルにも想像できた。

 ハルの表情はまるで変わらない。どうやら無意識に人を煽っている様子。周囲の視線と殺気に気づいていないのか、気づいているが気に留めていないのか。

 どちらにしても面白い。カソルはこみ上げる笑いをかろうじて飲み込んだ。

 しかしこれはこれで少し問題かもしれない。人の行動や思考を間近で学ぶのが今回の目的なのに、行動をともにするハルが生徒に忌避されていてはそれもままならないだろう。

 それにこのままでは少しもったいない。多分ハルはただの偉そうなつまらない聖法官なんかではない。きっともっといろんな顔を持った普通の人間だ。それは今まで接してきた時間だけでもよくわかる。

 ここは一つ、ハルの気勢をそいでみることにしよう。

 カソルは浅薄な思いつきに基づき、右手をハルの脇腹に伸ばした。

「私はいずれ絶対に聖女になります。そのときには必ず、魔術師のみなさんのお力も――ひあんっ」

 ハルの凛々しい演説が、突如として嬌声に変わった。

 その反響が途絶えると、静寂が教室を支配した。音が消え、警戒も敵愾心も消え、戸惑いの視線だけがハルに注がれていた。

 ハルは慌てて口を押さえたあと、ギギギという音が聞こえてきそうな、錆びついた機械のようなぎこちない動きで首を回してカソルを見る。

「な、な、な――」

 その顔は羞恥に赤く染まり、動揺と困惑で小刻みに震えていた。

「――何してんのよ!」

 くすぐった脇腹から手を引き、カソルは軽く首を傾げた。

「いや、蚊がいたから」

「くすぐって殺せる蚊がいるもんですか!」

「君の笑い声の音波か何かで」

「私はマンドレイクか!」

「実際に出たのはもっとずっと可愛い声だったけどね」

 ふふっ、とカソルが笑うとハルは片眉を上げた。

「……ぶっ殺していいかしら」

「試みるのは自由だね」

 カソルがそう返すと、ハルは返答に詰まって渋い顔になった。

「うぐぐぐ……」

 歯ぎしりしてダン、ダン、ダンと教室の床を踏み鳴らす。

 ハルではカソルを殺せない。カソルの戦いを直接目にしたハルに、それがわかっていないはずもなかった。軽薄さの塊のようなカソルに自分が劣っているという事実が、ハルの怒りを何倍にも膨れ上がらせているようだった。

「夫婦げんかは家でやれよー」

 と、教室のどこかから冗談めかした野次が飛んでくる。教室のあちこちで小さな笑いが起きた。ハルは目を見開いて顔を上げる。

 教室の雰囲気は先ほどまでとかなり違うものになっていた。

 実績、噂、実際の態度や雰囲気から鼻持ちならない完璧超人のように思われていたハルが晒した醜態。それは生徒たちの中のハル像を大きく変えたようだ。

 意外と可愛いところがある。少なくとも、自分たちと根本から何もかも違う存在ではない。大部分の生徒たちの少し緩んだ頬からはそんな気持ちが読み取れた。

 カソルはその様子に、不思議と少しの満足感を覚えていた。

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