第5話 読めない文字と名家の魔術師
ホームルームを終え、一時限目が始まるまでの短い合間の時間。
カソルの座席は廊下側の列の一番後ろ。ハルの座席はその左隣になった。そのハルの席に一人の女子生徒がとことこと歩み寄ってくる。
背中の半ばまであるきれいな金髪に透明感のある碧眼。小柄な体も相まっておもちゃか人形がそのまま歩いているような愛らしい印象を与える少女だった。
「こんにちは、エベラインさん、アルフマンくん。クラス委員をやってるナノ・フリアスっていいます。何かわからないこととかあったら――」
「待てフリアス!」
「……あー、うるさいのが……」
ナノが目を伏せてゆるく首を振った。カソルがナノの背後に目をやると、ナノより少し背が高い程度の小柄な男子生徒が猪のように肩を揺らして突進してくるところだった。
「この俺を差し置いて最初に話しかけるやつがあるか!」
「なんでエルレイくんを待つ必要があるの?」
「それは俺がこのクラスの代表だからだ」
「クラス委員は私だよ」
「魔術の技量は俺が一番だ」
「でも座学は私が一番じゃない」
ナノが軽くあしらうように反論すると、エルレイと呼ばれた少年はややたじろいだ。
「ま、魔術師たるもの実践を重んじなくてはならないのだ」
「はいはい。エルレイくんのことも紹介しておいてあげるから座ってなよ」
「それはならん。俺はこの天才聖法官とそのお付きとやらに宣戦布告をするのだからな」
瞳をギラつかせたエルレイは勢いよくハルを指差し、その指を滑らせてカソルにも向けた。カソルは表情を変えずに二度まばたきする。
「僕はよくない?」
「いいや、将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。お前も俺の宿敵だ」
向けた指で突くように、改めてカソルを指す。ナノが大きなため息をついた。
「ごめんね、エルレイくんはちょっと頭がおかしいの」
「何を言うかフリアス。確かに俺は常人のそれとは一線を画す頭脳を……」
「あー、うん。訂正します。エルレイくんはすごく頭がおかしいの」
滔々と己の非凡さを語るのを無視してかぶせるように言い、ナノは顔をしかめた。
「とにかく! ここは我らが魔術師の城。いかに不世出の聖法官であれ、ここにおいては雛鳥も同然。このエルレイ・ソージアがすぐにその驕り高ぶった考えを改めさせてやる」
「ふふ、楽しみにしてるわ」
ハルは挑戦的な微笑を湛え、嘲弄することも一笑に付すこともなくまっすぐにそれを受け止めた。未だ学舎の枠に収まっている者に遅れは取らないという自信の表れだろうか。
直後に一時限目の始業を告げるチャイムが鳴る。エルレイは満足げにうなずいて自分の席に戻っていった。
「エルレイくんも別に悪気があるわけじゃないんだけど……。気にしなくていいからね」
ナノが頬をかきながら言う。ハルは小さく首を振った。
「いえ、ああいう意気軒昂なやつがいるのは大変結構よ。ありがとう、フリアスさん」
「うん、ナノでいいよ」
「じゃあ私もハルで」
「これからよろしくね」
そう言って微笑すると、ナノも教室の中心辺りにある自席に戻った。
それからすぐに、老齢の男性がゆったりとした歩調で教室に入ってきた。カソルが事前に受け取った時間割によれば一時限目は現代文。男性はその担当教諭のようだ。
ナノの声による号令に従いカソルとハルも立ち上がり、教壇に立った教諭に会釈する。着席したところで教諭が口を開いた。
「はい。それでは早速始めましょう。引き続き『魔獣の涙』を講読していきますが、今回は転入生がいるということなので、これまでの内容も簡単におさらいします」
小川が流れるように穏やかな調子で言うと、振り返って黒板に向き直った。黒板の左上へとやせ細った右手のチョークを伸ばし、文字を書き始める。
「えー、魔術師としての修行に嫌気のさしたレリスは、人里離れた土地にある森林へと入っていった。そして人目のない森で、念願の自由な暮らしを手に入れる」
カソルはしばらく黒板の上を走るチョークを目で追っていたが、やがて一つ首を傾げるとあきらめて視線を切り、ハルの方へ顔を寄せた。
「ねえ、読めないんだけど」
ハルは意外そうに目を瞬かせる。
「え? あんた目悪いの?」
「ん? いや……」
「まったく、もっと早く言いなさいよ」
カソルの言葉にかぶせるように言ってため息をつき、ハルが手を挙げて先生をに声をかける。緩慢な動作で黒板に背を向けた教諭は、用件を問うように小首をかしげた。
「カソルが黒板の字が読めないと言うのですが、席を移ってもよろしいでしょうか」
「ああ、そうでしたか。じゃあ移動させましょう」
教諭がうなずいて最前の席の辺りを手で示した。カソルとハルそれぞれの席の列に座っていた生徒たちが各々立ち上がり、二人もそれにならった。
教諭が二列の机と椅子に向かって指を振ると、計一〇個の座席がひとりでに浮き上がり移動を始めた。カソルとハルの席が先頭に移動し、他の座席は一つずつ後ろに下がる。
二人を含め、生徒たちが新たな自席に移動する。
「へー、面白いね」
カソルが感心して言う。座席の移動によってハルの左隣となったエルレイがそれを聞いて眉根を寄せる。
「なんだ? まさかこの程度の浮動魔術を使えないわけではないだろうな」
エルレイの挑発的な物言いに、カソルはきょとんとして肩をすくめた。
「いや、こういう使い方をしたことはなくってさ」
「ではどんな使い方をするというのだ。物の移動以外に使いみちなんてないだろう」
「そんなことないよ。大きめの岩なんかを飛ばせば魔――」
ハルがとっさににらみを利かせ、カソルは思い出したように口をつぐんだ。
「なんだと?」
「ああ、いや。僕の勘違いだった。普段から結構使ってるね、浮動魔術」
「どんな勘違いだ。意味がわからないぞ」
エルレイは訝しむように目を細めてカソルを見る。
「……そもそもお前は何者なのだ。本当にこの学院に入学するにふさわしい人間なのか?」
「さあ、どうなんだろう」
首を傾げるカソル。エルレイはさらに表情を歪め、疑いの色を濃くする。
「どうなんだろう、だと?」
「ソージアくん。授業を再開してもよろしいかな」
教諭にたしなめられたエルレイは、ばつの悪そうな顔になって目を伏せた。
「失礼しました。コキルス先生」
椅子に腰を下ろしたカソルは、先に座っていたハルの方を向く。
「ところで、僕目は悪くないんだけど」
「え? でもだって字が読めないって」
「うん。僕、あの文字の読み方を知らないんだよね」
「……へ?」
カソルの言葉が、それこそまるで異国の言葉のように意味がわからないといった風に目を瞬かせて硬直するハル。カソルは困ったように頭をかく。
「僕の知ってる文字と違うんだ、これ」
ハルは唖然として発するべき言葉を探していた。
カソルの言葉に先に答えたのはハルの向こうでおとなしくなっていたエルレイだった。
「おい、どういう意味だ。お前、まさか本当に字が読めないというのか?」
「残念ながら」
カソルがうなずくのを見て、エルレイが椅子を蹴飛ばすように勢いよく立ち上がる。
「馬鹿にするのも大概にしろ!」
声を荒らげ鋭くカソルをにらむ。
「ここは王国が誇る魔術の名門だ。多くの魔術師が憧れ、しかし涙をのんで背を向ける茨の城だ。誇り高き魔術師が、人生をかけて研鑽に打ち込む神聖な学舎だ。得体の知れないやつだとは思っていたが、よもやこれほどまでの蒙昧とは! いくら付き人だと言っても限度があるぞ!」
カソルは腕を組み、少し考え込んでから静かに首を縦に振った。
「そうかも。確かに君の覚悟に比べると僕の気持ちは軽いね」
ハルとは少し違うが、彼もまた何か途方もない理念や理想を信奉する人間のようだ。彼は彼で面白い。しかしこちらが面白くとも向こうは面白くないようだ。
すんなりと言い分を認められたエルレイの表情には、いささか拍子抜けの感が見えた。
「……一体、お前は何者だ。お前は今までどこで何を学んできた。字も読めぬというのならば地方の学院からの転入のはずもあるまい。それにそもそもそんな例は数えるほどだ。いずれもうちやフリアス家のような名家の子弟がわずかに合格基準に満たず地方の学院に入学し、のちに台頭したものだ。それほどの有望株の噂が俺の耳に届かぬはずがない」
「ナノもいいとこのお嬢さんなんだ」
エルレイが頭痛をこらえるように額を抑えてかぶりを振る。
「それだ。それがますます怪しい。ソージア家とフリアス家といえば王国で十指に入る魔術の家系。学院に入学するほどの血脈と実力を持つ者で知らないはずがない」
「ごめん、世情には疎くて」
あっけらかんと言うカソルに、エルレイは余計に苛立ちをつのらせる。
「聖法官が物見遊山にやってきたというだけで腸が煮えくり返っているのだ。あまつさえその聖法官の意向で得体の知れない愚鈍めが由緒正しい学院の制服に袖を通すなど……」
ギリッという歯ぎしりの音がカソルの耳にも届いた。
「俺は断じて許さんからな。お前のような、実力もなければ誇りもない、軽挙妄動の権化のような無能がこの学院の門戸を――」
――バンッ!
エルレイの言葉を鋭く断ち切ったのは、ハルが机に平手を打ちつけた音だった。
「黙って聞いていれば……あなたこそいい加減にしなさいよ」
静かな、しかしそれゆえに確かな熱を感じる怒りに場の空気が揺れた。
エルレイは思わぬ方向からの苛烈な反論に目を見開いて絶句する。これまでの泰然自若の振る舞いのハルの姿しか見ていなかったカソルも、その明らかな怒気には少し驚いた。
「こいつのこと、何も知らないくせに……! くだらない対立意識にとらわれて相手のことをこき下ろすことしか考えてない。一面だけ見て中身や本質を決めつける。愚かなのはどっちかよく考えてみなさいよ」
言って教室中をぐるりと見回すハル。
「いい? 今あんたや私たちがこうやってのんきに勉強できてるのも――」
「ハル」
カソルは苦笑をこらえながら義憤にかられる聖法官を諌めた。
まさか自分が止める側に回ることになるとは思いもしなかった。自分の口が滑るのは自覚していてもなかなか治らないが、はたで聞いていると意外と気がつくものだ。
「……うぐ」
ハルも同じような感想を抱いたのか、自己嫌悪を顔に貼り付けてうつむいた。
「でも私、物事に正当な評価が下されないのは許せなくって……」
「正当な評価だと? 俺が、この無知蒙昧よりも格が下だと言いたいのか?」
反発心でなんとか動揺から立ち直ったエルレイが、一時の気勢をそがれながらも言う。
「それは、その……」
しかしハルにそれを具体的に説明することは許されない。ハルは歯噛みしながら、もどかしげに眉間にしわを寄せたり、口元を歪めたり、目を硬くつぶったりしていた。
「ハル、ここは学びの場だよ」
「え?」
カソルの言葉に虚を突かれて振り返るハル。
「それを踏まえたら、文字の読める彼と読めない僕のどちらが優れていると判断するのが正当な評価かなんてこと、言われずともわかるんじゃない?」
「そ、そうだけど、あんたは、もっと……」
ハルの言葉は尻すぼみに小さくなっていく。代わりにエルレイが調子を取り戻して胸を張った。
「そうだ。お前がこの男の何を知っているのか知らないが、文字すら読めないようなやつに俺が劣っているなどということは、万に一つもあり得ない」
荒く鼻息を吐き出して続けるエルレイ。
「わかったら二度と聖法官の分際で魔術の話に口出し――」
――ガコッ!
「ったあ!?」
硬質で軽い音が響くと同時、エルレイの口から情けない悲鳴が飛び出した。
音の発生源はエルレイの後頭部。その背後にはナノの姿があった。振り抜いた格好で止まった右手にはノートが握られている。
「背表紙!? お前背表紙で殴ったな、フリアス!」
「うるさいよ! 先生も困ってるでしょ」
「……あ」
熱くなると周りが見えなくなるたちらしい。眉を垂らして自分を見つめていたコキルスと目があったエルレイは、しゅんとなってうつむいた。
「申し訳ございませんでした」
「では、今度こそ授業を再開しましょう」
ハルとエルレイが反省の色を示しながらも憮然とする中、カソルだけがけろっとしてコキルスの語る言葉に耳を傾けていた。
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