第6話 読める文字と嫌味な教師
本日最後の授業、古典の担当教諭はルシスという若い男性だった。
まっすぐに切りそろえた前髪としゃんと伸ばした背筋、そして高い背丈で見下すような視線の向け方がその気位の高さを窺わせていた。
エルレイに似ている。カソルはそんな感想を抱いた。体格はまるで違うが、爛々と輝く瞳などからにじみ出るプライドの高さなどがどことなく似ている。
「今日からは古代ユグド文字の学習に入ります」
教室中から小さな不満の声が上がった。ルシスはにやりと笑ってうなずいた。
「複雑で難しい文字なので嫌だという気持ちもわかります。しかし現代ユグド文字よりも古代ユグド文字の方が断然美しい。優秀な魔術師の中にはあえて古代ユグド語を使う者が少なくないのです。つまり優れた著作を十全に読み解くのにはその習得が必須なのです」
「どの本も現代の文字に翻訳されてるじゃないですかー」
教室窓側の列の中ほどにいる男子生徒から不平が飛ぶ。ルシスは鷹揚な笑みを崩さずに首を横に振る。
「十全に、と言っているでしょう。翻訳には必ず変質が伴います。翻訳された言葉は翻訳者の言葉。筆者の意図を十分に理解するには原典の読解が不可欠なのです」
「そんなぁ」
男子生徒の情けない声に教室のそこここから笑いが漏れる。
「安心してください。最初は定番のテキストです。みなさんも多少知っているでしょう。教科書五四ページ。古代の偉大な魔術師ヴァルハレオの『魔術の心得』です」
生徒が一斉にページをめくり始め、紙の擦れる音が幾重にも重なる。
その画数の多い文字列を見たカソルは眉を上げ、隣のハルは顔をしかめた。
「では早速講読していきましょう。エルレイくん、冒頭部分を読むことはできますか?」
エルレイは得意気にうなずいて口を開く。
「魔道に邪道なし。是即ち龍の道なり」
まだ一度も授業で扱っていない古代文字をこともなげに読み上げたことに対し、教室内で感嘆の声が上がる。
「すみません。それ以降はわかりません」
眉間を指でつまみ、わざとらしく恥じ入るような表情を作るエルレイ。ルシスは満足げに微笑んで大仰にうなずいてみせた。
「冒頭の一節は非常に有名な一節です。エルレイくんはそれを知識として知っていたのでしょう。しっかり勉強しているようですね。さすがはソージア家の長子です」
「ありがとうございます」
エルレイが口元にゆるい弧を作って会釈する。
「それでは続きを……」
ルシスは言いながらクラス内を見回す。挑発的な視線は教壇から向かって右手の窓側からゆっくりと廊下側へ流れていき、ハルのもとで止まった。
「エベラインさん、どうでしょう。あなたなら読めるのでは?」
ハルは苦笑して首を横に振った。
「恥ずかしながら、勉強不足で」
「これは失礼。聖法の天才に下賤な魔術師の教養を求めるのはお門違いでしたかな」
鼻の穴を広げてねっとりとした口調で言う。左方からは勝ち誇るように口の端を片方だけ吊り上げたエルレイの嘲笑が向けられ、ハルは笑みを引きつらせた。
「他に続きを読める人は?」
粘着質な視線は、続いてハルのすぐ隣のカソルを捉えた。
「どうです? 読めませんか?」
「僕ですか?」
カソルは、自らの顔を指差して首を傾けた。
ルシスは芝居がかった仕草で額を押さえ、そのまま前髪をかきあげた。
「ああ、すみません。天才聖法官のエベラインさんのお付きとあれば、何か並外れた能力をお持ちなのかなと思いまして。私としたことが生徒に恥をかかせるような……」
「えー……怪奇に曲折すること限りなく」
妙にのんびりと間延びしたその声に、教室が静まり返った。カソルの口から発せられたその言葉が、他のあらゆる物音を吸い込んでしまったかのようだった。
「蔓延る藪を分け入ること限りなし。毒に逢うては毒を持って制し、難物に面しては清濁隔てず然ながらに飲む。遥か高みに至らんと欲すれば天の柱に絡み巻きつきて――」
カソルが顔を上げて教壇の上のルシスを見る。
「どこまで読めばいいんですか?」
ルシスは瞠目して、顔から血の気を失わせていた。代わりにエルレイが立ち上がり、ものすごい剣幕でカソルを指差して言う。
「お、お前! 適当にそれらしいことを言えばいいと思っているんだろう!」
そしてカソルと同様にルシスを見上げ、祈るように言う。
「せ、先生、今のは全部でたらめでしょう? そうですよね?」
贔屓にしている生徒から向けられる熱い期待の視線に、冷え切った唇を震わせながら蒼白な顔を向けるルシス。その異常な様子にエルレイも表情をこわばらせる。
「……一言一句、誤りありません」
水を打ったような静けさに包まれていた教室がにわかにどよめく。
「ほら見なさい! カソルは愚鈍なんかじゃないわ!」
ハルが得意満面で机を叩いて立ち上がる。その見下ろすような視線を受け、エルレイは椅子の上で悔しげに縮こまった。
「なんでハルが誇らしげなの」
ハルの幼い子供のような振る舞いに、苦笑がこぼれた。それに気がつき我に返ったハルは少し顔を赤くして静かに席についた。
「いや、まあ、その、ね?」
「まあいいけど。でも別に自慢できるようなことでもないと思うよ」
「どうして? みんなにできないことができる。それってすごいことだと思うわ」
ハルが声に力を込めるように語る。
「いや、だって知ってる文字が違うってだけで一つの文字しか知らないって言う意味では他の人と何も変わらないし。たまたま僕が初めてアスカ――」
その名前を口にしかけた瞬間、ハルが慌てて口の前に指を立てる。
カソルもさすがに少しは会話上の禁則事項に慣れつつあったので、すぐに口を閉じることができた。しかし、今後アスカトラのことはどう言ったものか。
カソルは明後日の方角に視線をやって考え込んでから改めて口を開く。
「たまたま僕が初めてAさんから教えられた文字がこれだったってだけの話だよ」
「Aさん!? Aさんって誰だよ!」
エルレイがたまりかねてツッコミを入れる。
「まあ……山奥に暮らすしがない村人?」
「村人Aって、そんな舞台の端役みたいなやつに古代語が扱えてたまるか!」
混乱と困惑の極致に達した様子のエルレイは、そう叫ぶと机に肘をついて頭を抱えた。
カソルはひょうひょうとして再びルシスをみやった。
「授業、続けませんか?」
「そ、そうですね」
石膏のような色の顔面のまま曖昧にうなずいて、手元の教員用の教科書に目を落とす。
「あ、それと」
カソルが言うと、ルシスはぎくりと肩を跳ねさせた。
「……なんでしょう」
「エルレイが読んだところ、龍の道じゃなくて蛇の道じゃないですか?」
そう指摘された途端、ルシスは糸の切れた操り人形のように膝を折って教卓に突っ伏した。そして額を天板にこすりつけながら、情けない声でうめく。
「その通り……です」
「格言としては龍の方が有名なのかもしれませんけど、教科書に載っているのは改稿後の蛇の道版ですよね?」
「ええ、そうですね。この私が……このような、このようなつまらない誤りを……しかも年端もいかない聖法官の前で、その付き人に指摘されるなど……」
絞め殺されかけている鶏のごとき、聞いているだけで心を病みそうな苦悶の声だった。
日頃から高慢極まりないルシスの醜態を、教室の生徒たちはそれぞれ哀れんだり呆れたり、あるいは嬉々とした眼差しを注いだりしていた。
中でもひときわ表情に爽快感をあらわにしていたのはナノだった。
席から立ち上がったナノは、親指を上に立てた右手を繰り返しカソルに向かって振っている。クラス委員がそれでいいのだろうか。
この学院の人々はつくづく面白い。カソルは早くも学校生活に充実感を覚えていた。
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