第28話 ちょうちょ

「ユメミタケ?」

「聞いたことないわ」

 ナノとハルが顔を見合わせる。

「そうなの? アス――Aさんに」

「出た! Aさん!」

「高く売れるからって探させられたりしてたけど」

「へえ、おいしいの?」

 ハルがカソルの手からユメミタケを受け取って匂いを嗅いでみる。

「いや、味は別に。でも食べると面白い幻覚が見えるんだ」

「ちょっ、それやばいやつなんじゃないの!?」

 ハルは慌ててユメミタケを顔から離してカソルの手に押し付けた。

「ううん、副作用も中毒性もないただの軽い魔術的幻覚だよ。この山菜が魔力で擬態するみたいに、このキノコも魔力で食べた相手に幻覚を見せるんだろうね」

「じゃあ食べても安全なの?」

 今度はナノが興味深そうに顔を近づけてくる。

「少なくとも僕やAさんは食べても何も問題なかった」

「……ちょっとかじってみてもいいかな?」

「ナノ!?」

 ナノの発言を聞いたハルが素っ頓狂な声を上げて目を見開く。

「うん、もぐもぐ大丈夫」

「ってこっちはもう食べてる!?」

 答えながら咀嚼するカソルと笠の一部が欠けたユメミタケを見たハルは、頭を抱えて叫んだ。カソルは地面がゆるやかに遠ざかっていくような浮遊感を味わいながら頬をかく。

「いや、一応人に食べさせる前に自分で確認しておこうと」

「なんだろう。私、自分がものすごい臆病者みたいに思えてきたんだけど……」

 頭に手をやったまま引きつった顔でしゃがみ込む。

「あはは、私が向こう見ずなだけだよ。ハルちゃんが普通だし正しいんだって」

「そう言われても……」

 動揺するハルを尻目に、カソルはユメミタケをナノに差し出した。

「食べてみる?」

「うん。それじゃあ失礼して……」

 ナノは髪の毛がかからないよう左手でかき上げながら、キノコに唇をつけた。そのまま前歯でほんのひとかけら笠をちぎって口の中に含む。そしてしばらく味を確かめるようによくかんでから嚥下した。

 ハルが心配そうに見上げる中、ナノは目を見張って口元を抑えた。

「わ、うわわ……」

「ど、どうしたの!? 大丈夫!?」

「お花畑だよ! お花畑! すっごいの! 先が見えない! 地平の果てまでお花でいっぱいなの! 三六〇度! どこみてもお花ですっごくいい香り!」

 ナノは一面緑の森の中で、興奮気味にあちこちを指差しながら叫ぶ。その様子にハルはますます不安をつのらせてカソルを見つめる。

「一瞬だけだよ」

 と、言うが早いか笑顔満開だったナノがきょとんとした表情に変わる。

「あ、終わっちゃった」

 残念そうに、しかし少しだけほっとしたようにつぶやいて息をつく。

「よ、よかった……」

 ハルはハルで大きな安堵の息を吐き出していた。カソルはそんなハルにもユメミタケの笠をマイクのように差し向ける。

「ハルも食べてみる?」

「え」

 と一歩後ずさりするハル。詰め寄るようにキノコを持ったまま一歩進むカソル。

「大丈夫。怖くないよ」

「注射も歯医者も誘拐犯もみんなおんなじこと言うわ!」

 カソルを近寄らせまいと怯えるように両手を突き出してバタバタする。

「私は本当になんともないよ」

 ナノも背中を押すように自信の無事をアピールする。それを聞いて生来の負けずぎらいが鎌首をもたげたか、少し真剣に考え込むような顔つきになるハル。

 しかし結局すぐに勢いよくぶんぶんと首を横に振った。

「だめ! そういう不必要な冒険はしないから! 君子危うきに近寄らず!」

 と言って口を真一文字に結ぶ。

「まあ無理にとは言わないけど」

 カソルが引き下がると、ハルはようやく肩の力を抜いて眉根に寄っていたしわを伸ばした。

「あ、じゃあエルレイくんに食べさせてみよう」

 ナノが唐突に遠くを指差してそんなことを言い出す。ナノが指した先には、確かに真剣な表情で山菜を探しながら歩き回るエルレイがいた。

「たまにはエルレイくんの間抜けな顔も見てみたいし」

「……ナノってときどき結構黒いわよね」

「そうかな? 普段が猫かぶってるだけかも」

 ややグロッキー気味のハルの指摘を笑い飛ばしつつ、ナノはエルレイの方に向かっていく。カソルとハルもそれに続いた。

 エルレイのすぐ近くまで来ると、ナノはカソルからユメミタケを受け取った。

「ねえ、エルレイくん」

「ん? フリアス……とハル・エベラインにカソル・アルフマンか」

「このキノコ一口食べてみない?」

 そう言って自然に微笑んでユメミタケを見せた。エルレイは不信感むき出しでにらむようにキノコを見つめ、すぐにかぶりを振った。

「なんだそれは。そんな怪しげなキノコ誰が食べるか」

 カソルは複雑な表情のハルが小さくうなずくのを横目で見ていた。

「これ、実はものすっごい激辛キノコなんだ」

 突然ナノの口からまったく脈絡のないでまかせが飛び出し、カソルとハルは目を剥きながら顔を見合わせた。

「激辛? だからどうした」

「ハルちゃんもカソルくんも一口挑戦したのに、エルレイくんはこのまま逃げちゃってもいいのかなって思って」

「なんだと?」

 笠についた二つの歯型をナノに指し示され、細めた目でカソルとハルへと鋭い視線を飛ばしてくるエルレイ。二人は微妙に笑ってそれをごまかした。

 それをエルレイは挑発と受け取ったのか、口元を歪めて大きく一つ鼻を鳴らすとナノからユメミタケをひったくった。

「ふん、このような小指の爪ほどもない量を食べただけで、よくもまあそう勝ち誇っていられるものだな。臆病者の語る武勇ほど聞き苦しいものはない」

 嘲笑を浮かべていつもながらに啖呵を切るエルレイ。カソルとハルは何も言わずただ穏やかに微笑を湛え続けた。

「そこでよく見ておけ。この俺の海より深く広がる度量と山より高く積もる勇気をな!」

 そう言って、エルレイはユメミタケをまるごと口に押し込んでしまった。

「あ」

「げ」

「ほお」

 ナノ、ハル、カソルが三者三様の反応を取る。それを驚嘆と受け取ったらしいエルレイは自慢げに口の中のキノコを噛み砕いていき、そのままそれを飲み下した。

「ま、まさか全部食べちゃうとは思わなかったんだけど……大丈夫かな?」

 動揺したナノがカソルの耳元に口を寄せて囁くように尋ねる。

「多分かなりぶっとんだ幻覚が長めに続くけど、後遺症とかはないと思うよ」

 ナノとハルの不安げな視線とカソルの好奇の視線が注がれる中、エルレイの動きが止まる。三人が同時に唾を飲み込んだその瞬間。

「あっひゃっひゃっひゃっっひゃっひゃっひゃ!」

 半ば白目をむいたエルレイは舌をだらりと垂らして奇声を発したかと思うと、直後にはそのまま全力で走り始めた。

「うわあ! まずいよ! 絶対まずいよ、あれ!」

「間抜け面ってレベルじゃないわね……」

 三人も慌てて追い始める。

「ちょ、ちょ、ちょちょ、ちょうちょだ、ちょうちょ! ちょうちょが飛んでるんだぜぇえええいえええあああ! いやっほほほぉう! 超ちょうちょぉ!」

 走りながら天に向かって人差し指を突き立てた右手をぐるぐる回す。時折足がもつれそうになるが、木や石などの障害物は見事に避けながら走り続ける。

 ハルとナノの表情は、すでに故人を偲ぶかのような沈痛なものに変わっていた。

「いち、に、ひゃく、はち、りく、かい、くう、なな、じゅう! ちょうちょがいっぱい飛んでるうっふううう! せん、まん……おく? おく、ちょう……ちょうちょだぁ!」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 ナノが走りながら手を合わせて必死に懺悔する。

 そうしたくなるのも当然の地獄絵図だった。すれちがうクラスメートたちも一様に目を点にしている。教室に戻ったあとを想像するといたたまれない。

 ふと自分たちの行く先について考えたカソルは、あることに気がついた。

「ねえ、このまま走っていくとさ……」

 ハルが何事かと耳を傾ける。

「う、うん」

「クルラン先生、いるよね」

「――――!」

 ナノが声にならない悲鳴を上げた。

 エルレイ憧れのクルラン。彼女に今のような自身の姿を見られたと知ったら、ただでさえ無駄にプライドの高いエルレイはどうなってしまうのだろうか。

「と、止めなきゃ!」

 ナノが切羽詰った形相で足を運ぶ速度を上げる。

「あ、危ないわよ!?」

「でもこれはちょっとさすがに!」

 カソルとハルもそれに応じるようにスピードを上げる。

「ちょうちょ……! ちょうとちょうちょ、ちょうちょちょうちょがちょうちょにちょうちょだけど……ちょうちょ? ちょう、ちょ、ち……ちん……ちんち……ちんちん!?」

「待って! 謝るから! 謝るからストップ! ストーップ!」

 なんとかあと少しというところまで距離を詰めたナノ。手を伸ばしてエルレイの方に手をかけようとする――が。

「――ひゃっ」

 ナノが寸前で木の根に足を取られる。隣でハルが息を呑むのを聞きながら、カソルは全力で大地を蹴りつけた。

 地を這うように空を裂く。つんのめったナノの懐に入ると体を反転させ、ナノの体を素早く抱き寄せる。そのまま背面でランディング。地面に擦れる背中が二人分の重みを乗せた摩擦で過熱していく。

「……ふう」

 木の幹に激突する直前でなんとか静止する。息をついたカソルの目と鼻の先に、怯えたように固く目をつぶるナノの小さな顔があった。

「大丈夫?」

 カソルが問うと、ナノはゆっくりと開いた目を瞬かせた。

「え、あれ? なん……って、あ」

 体勢を理解したナノの顔が一瞬で真っ赤に染まった。

 勢いをつけるように上体を起こすと、押し付けられていた豊満な胸が弾む。しかし全力疾走の余波でうまく足に力が入らないらしく、立ち上がるのに失敗してまたカソルに体を押し付ける格好になってしまう。

「ごごごごめんね! 今どくから!」

「いや、別に大丈夫だよ。重くもないし」

 慌てて言ったナノは無理に立ち上がろうとせず、先ほどと同じように胸を弾ませて手で体を浮かせてから寝返りを打つように右へ体を回転させた。今度はなんとかうまくいき、ナノはカソルと並んで仰向けになった。

「あ、あの、ありがとね」

 ナノが寝転がったまま顔を向けて言う。

「気にしなくていいよ。ただの気まぐれだから」

 そう。気まぐれとしか言いようのない行動だった。

 なぜカソルは身を挺してナノを助けたのか。そうすることでカソルに何か利益があったというのか。あるいはナノが顔から地面に突っ込み負傷することでカソルに何か不利益があったというのか。

 そのどちらの問いに対しても、カソルは即座にうなずくことができなかった。

 カソルは自分の行動に驚いていた。これはつまり、街に暮らす普通の人々のように、自己犠牲という不可思議な原理のもとに行動したということなのではないか。

「あ、先生! ちょ、ちょう、ちんちん! ちんちん飛んでるうんだぜえええ! 先生ちんちん! いっぱいちんちん飛べ! おひゃひゃひゅひゅ! ちちんちんちーんっ!!」

 自身に表れた変化に大きな戸惑いとほんの少しの甘い感慨のようなものを感じながら、カソルはエルレイの断末魔を聞いていた。

 ちなみに、このあとユメミタケの効果が切れたエルレイはすべてを忘れていた。ナノはクルランを始めクラスの全員に今日のことはなかったことにしてほしいと全身全霊で頭を下げて回り、なんとか了解を取り付けた。

 かくしてエルレイの心の平穏はかろうじて守られたのだった。

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