第9話 色仕掛けと朴念仁

 数分後、ハルは六〇三号室で頭を抱えて床に座り込んでいた。

「腐敗だわ……聖法協会は腐ってる……」

「まあまあ、元気出しなよ」

 カソルは二つあるベッドのうち一方の縁に腰かけながら声をかけた。

「元気なんて出ないわよ!」

「それだけ叫べれば十分だよ」

 ハルは頭を抱えたまま立ち上がり、きれいな栗毛をわしゃわしゃとかき乱した。

「ねえ、私の聞き間違いじゃないわよね!? あんたも聞いたでしょ!?」

「何を?」

「受付の人が言ってた、聖法協会の幹部からの伝言! 六階には他に人はいないし下の五〇三号室も空室だから安心してくださいって!」

「言ってたね。話の内容に気を使う必要がないのはありがたいね」

 ハルは険しい表情でカソルの座るベッドを指差す。

「……あんたが今座ってるベッド、大きさについて何か疑問はない?」

 カソルは首を回して自分の背後に広がる、王城の医務室のそれよりもいくらか大きな白いシーツの海を視界に収める。

「そっちよりも大きいね。あ、こっちがよかった?」

「そういうことじゃなくて……。受付の人、言ってたわよね。寮は原則同性二人で相部屋だって。なのになんで一つだけダブルのベッドがあるのかってこと」

「厄介な任務を押し付けられた君への協会からの配慮?」 

「……ねえ、わざととぼけてるの?」

 ハルは非難がましい視線を半眼の上目遣いで投げる。

「いや、なんのことだかさっぱり」

 カソルは両手を上げて首を傾けた。

 ハルが何を言いたいのかまるでわからない。だいたい、ベッドを使ったのだって王城で寝たのが初めてなのだ。ベッドの大きさから何かを読み取れなどと言われても、寝返りが打ちやすそうくらいの感想しか出てこない。

そんなカソルの様子にハルは大きなため息をついてから改めて口を開いた。

「だから……つまり、その」

 呆れたように切り出したハルの顔が突然火照り始める。それにともなって、普段は過ぎるほどに歯切れのよい口の動きが鈍くなった。

「つまり?」

「も、もしあんたが、えっと……私を……その、求めたら」

「求める? 君の助けを?」

「助けというか、だから、ほら……体を」

 言いながらカソルから目をそらし、ますます頬の朱を濃くするハル。

「身体能力的には君の助けがいることはないと思うんだけど」

 魔術による身体能力の向上を含めれば大抵のことはこなせる自信がある。少なくともハルに遅れを取るという事態は考えづらかった。

 察しの悪いカソルにハルの顔はどんどん羞恥と苛立ちに染まっていく。

「違うわよ! 体を求めるっていうのは、つまり……せっ、せっ」

「せーの、よいよいよい?」

「違う! なんで今手遊び歌する必要があるのよ!」

「じゃあなんなの?」

「……うぐ」

 一瞬だけ普段の調子を取り戻したものの、切り返されるやいなや、再び口ごもってしまう。そのまま唸りながら両の拳をぎゅっと握りしめてうつむく。

 十数秒ほどそうしていたあと、ハルは一つうなずくと深呼吸を挟んで意を決したように顔を上げた。

「いい? 小さい声で言うからちゃんと聞いてなさいよ」

「うん」

 カソルは左の耳に手を当ててハルに向ける。

「あのね、体を求めるって表現は、その、せ……」

「せ?」

「……セ、セックスすることを要求するって意味なの」

「え? なんて?」

「バカぁ!」

 カソルが聞き返した瞬間、音の速さでハルのバッグが飛んだ。カソルはそれを顔の前でとっさに受け止める。幸い中身は衣類が主になっているようで痛みはなかった。

「危ないよ」

「うるさい! もう知らない!」

 そう言い放つとハルは自分のベッドに飛び込んでシーツに顔を埋めた。

「ごめん。よく聞こえなかったんだよ。なんて言ったの?」

 無視するようにじっとしていたハルは、やがて寝転がったままで仏頂面をカソルの方に向けた。そしていじけたように鼻を鳴らすと腕を伸ばして枕を引き寄せる。

 そしてまたうつ伏せになり、顔の上半分だけをまくらに押し付けて動かなくなった。

「だから……セックスよ。もしあんたにセックスを要求されたらおとなしく応じろって協会の連中は言ってるの!」

「え、なんで? その指示になんの意味があるの?」

 確かに遺伝子交配的に興味深い試みではあるかもしれない。ただ二つのまったく異なる能力に秀でた二人の間に生まれる子供がいずれかの親を超える潜在能力を持ちうるのだろうか。それなら優秀な聖法官と交配して聖法という一芸に特化させた方がいい気もする。

 真面目に考え込むカソル。ハルは苛立ち一割あきらめ九割の表情でカソルをみやる。

「だから、あんたを抱き込もうとしてるのよ。もしあんたが私という聖法協会側の人間を気に入ればむやみに危害を加えなくなる。ひいては協力関係を築くことにつながる」

「……ん?」

 カソルは自分の頭の中に知識として収まっている言葉にぴったりのものがあると気がつき、半信半疑で小首をかしげた。

「もしかして色仕掛けってやつ?」

「まあ、だいたいそういうことね」

「知識としては知ってたけど、そんな言葉使う機会なんて絶対ないと思ってたからすっかり忘れてたよ」

「……そう」

 年頃の男子の持つべき色気や羞恥のようなものとあまりに無縁なカソルの振る舞いに、ハルは低いトーンで相槌を打った。そして力尽きるように額を枕に預ける。

「……私だけバカみたいじゃない」

「うん?」

「なんでもないわよ」

 そう言ってハルは大きなため息をつき、寝返りを打って仰向けになった。

「そう? でもとりあえず君に手を出したりなんてしないから安心していいよ」

 カソルは両手を上げて大きく伸びをする。ハルはその言葉にむっとして唇を歪めた。それから自分のなだらかな胸元を見下ろしてため息をつく。

「あー、はいはい。私みたいなちんちくりんなんか眼中にないですよねー」

 両手を上げて肩をすくめ、ふてくされたように鼻を鳴らす。

「何よ、もう。そりゃ胸もないしがさつだし、よく可愛げがないって言われるけど、そんな面と向かって堂々と言うことないじゃない」

「そんなこと言ってないよ」

「具体的には言ってなくてもそう思ってることがよくわかる発言だったわよ」

「思ってもいないって」

 なぜこんなに不機嫌そうそうなのかもわからず、カソルはただ首を横に振る。ハルは唇を歪めてにらみつけるようにカソルを見つめた。

「何、関心すらないって言いたいわけ?」

「違う。ハルは可愛いって思ってる」

 カソルが言うと、ハルは真顔になって硬直した。

「――へ?」

 間抜けな単音を発し、そのまま口を半開きにして固まる。恥ずかしげなど一切なくカソルは淡々と続ける。

「少なくとも僕が街に来てから見た中では整った顔してる」

「いや、えっと……」

 再び頬を薄紅に色づかせたあと、ぴくぴくと頬を引きつらせる。

「……そういう冗談はあんまり真面目なトーンで言うと……その、ね? 勘違いしちゃって傷つく人もいるだろうから、気をつけた方がいいわよ」

「冗談なんて言ってないよ」

 カソルの発言の真意を測りかね、無言で見つめ返すハル。

「僕の感覚がおかしいのかな? まあ確かに自分でもどういう基準でそういう印象を持ってるのかはよくわからないけど。ハルは周りに可愛いって言われないの?」

「……親戚とかは言ってくれることもあるけど、そういうのは違うわよね」

「君の見た目に関心を持つような年齢や立場の人じゃそもそも君に近づけないから、とか? 大人が気にするのはきみの才能ばっかりだろうし」

「そ、それはそうかもしれないけど……」

 ハルは落ち着きなく視線をあちこちにさまよわせて膝上で指を弄ぶ。物陰から様子を窺う小動物のように慎重に顔を上げたハルを、カソルは気負いなくまっすぐ見つめた。

「この際君が可愛いかどうかはどうでもいいや。手を出したりなんかしないって言ったのは、君が聖法官だからだ。少なくとも僕の知識の中にある聖法官は清廉潔白を重んじる。まあ現実は理想を掲げるだけじゃやっていけないんだろうけどね」

「そ、そうね」

「でも君はきっと理想に忠実であろうとする人だ。あの洞穴で、僕はそう感じた。普通だったらすべての人を幸せにするなんて無理だって、そんな完璧な世界作れっこないって思う。実現したいと思っても恥ずかしくて口に出せない。でも君はそうじゃなかった」

 気の抜けた、しかしそれゆえに虚飾とは無縁なその言葉を、ハルはただ目を見張ったまま身じろぎもせずに聞いていた。

「僕はそんな、困難だとわかっていてなお完璧な理想を目指す君を面白いと思った。だから僕は君の理想を傷つけるような真似はしたくない」

 そこまで言うと少し口元を緩めてうなずいた。

「それが、今聖法協会から僕に与えられた、君を好きにしていいという自由に対して出した結論だよ」

 カソルが言葉を切ると、絨毯張りの室内は水中に沈んだかのような静けさに包まれた。

 ハルは瞬き一つせず、枕に頭を預けけたまま石像と化していた。それから十秒ほど経って、ようやくカソルが口を閉じたことに気づいたようにびくりと肩を跳ねさせる。そして半開きの口に気がついて火照った頬ごと両手で覆い隠した。

「……そ、そういう、こと、ね」

 手の中に途切れ途切れの言葉をこもらせる。ようやく硬直から解けた視線はカソルの足元の辺りを右往左往していた。

「わかってくれたならよかった」

 カソルは満足げにうなずいてベッドから立ち上がる。

「それとベッドはこっち使っていいよ。僕は床でも地面でも寝られるし……」

「ごっ、ごめん! ちょっとトイレ行ってくる!」

 ハルはそれに応えずに飛び起きるように立ち上がると、顔を手で覆ったまま勢いよく部屋を駆け出していった。

「えっ、そこ……」

 トイレ併設のバスルームの戸に視線をやって、カソルは首を傾げた。

 何かハルの気に障るようなことを言ってしまっただろうか。ただでさえ人との付き合い方には拙いのにしかも相手は異性だ。どうにも勝手がつかめない。

 今後もいろいろ苦労しそうだ。カソルは内心で嘆息してベッドに身を投げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る