第10話 黒光りするアイツ
「どうしたのよ、難しい顔して」
部屋の窓から外を見下ろしていたカソルは、ハルの声に応じて振り返った。トイレから戻ってきたハルは何事もなかったようにいつもの調子を取り戻していた。
カソルの視線の先には王国における北端防備の鉄壁、ローラル山脈があった。学院や寮は王都の中でも北方にあり、少し行けばすぐ山脈に突き当たる。王城は王都の中心部、城と学院の間には高い尖塔を伴った聖法協会の本部が建っている。
「うーん、なんというか……むずむずするんだよね」
「むずむず?」
「うん、むずむずというか、うずうずというか」
ハルは首を傾げてさらなる説明を求める。
「遠いからはっきりとはわからないんだけどさ、山のふもとの森のあたり何かいる感じ」
「何かって何よ」
「多分魔獣だと思う」
ハルが目を見開く。
「そんなことわかるの?」
「なんとなくはね。森にいるとそういう気配には敏感になる」
「なんか本当にいろいろ異次元ね……」
ため息をついて視線を明後日の方角へ飛ばしたハルは、壁の一点に目を留めてそのまま動かなくなった。目を剥いたまま、戦慄したように凍りついている。
カソルもその視線の先を追った。
「……ゴキブリ?」
そこには黒くて小さい小判型の虫が壁に張り付いていた。白い壁に落ちた染みのようにじっと動かず、触覚だけを揺らしている。
「べべべ別に平気よ! あんなの!」
「いやどうしたの急に」
カソルのツッコミも耳に入らない様子のハルはゴキブリから目を離さない。
――カサカサッ。
「ひいっ」
ハルが可愛い悲鳴を上げる。その直後、唐突に部屋のドアがノックされた。
「ひいぃっ」
神経過敏になっているのか、その音にすらハルは飛び上がって反応した。
「はーい?」
ハルはとても応対できそうな様子ではないため、カソルが代わって応えた。
ドアの向こうから聞こえてきた声は少女のものだった。
「あ、同じクラスのサラ・ジュレーです。先生からエベラインさんのお部屋はここだって聞いたんだけど……違ったかな?」
「いや、そ――」
そうだよ、と答えようとした口がハルに塞がれた。
「待って。ちょっと待って」
壁の黒点とカソルの顔の間で視線をせわしなく行き来させながら、最大限声のボリュームを絞ってカソルの耳元に顔を寄せる。
「どうしたの?」
口を開放されたカソルも小声で応じる。
「クラスメートに同じ部屋で生活してるなんてバレてみなさいよ。絶対あることないこと噂されるじゃない」
「そうなの?」
「そうよ。もうあんたが応えちゃったのはどうにもならないから、私はいないことにしてなんとか適当にあしらっておいて」
と言ってまたゴキブリの方に目をやる。
「私は、その、見えないように隅の方に隠れてるから」
そう言ってそそくさと部屋の角の方に後ずさりする。ゴキブリのいる壁から一番遠い、部屋の隅っこだった。
「……ゴキブリから隠れるわけじゃないわよ?」
それを見つめていたカソルに、ハルは念押しするように言った。別にハルがゴキブリが苦手だろうとなんだろうと特に問題はないと思うので、気にしないことにした。
カソルはドアの方まで歩いていき、ドアを開ける。
そこに立っていたのは髪をツインテールに縛った女子生徒だった。見覚えはあるような気がするが、少なくともカソルには部屋を訪問される心当たりはなかった。
「待たせてごめん。でもハルはいないよ」
「あれ? そうなの?」
「用件があるなら聞いとくけど」
「あ、そうなんだ。まあ用件って言うほどのことでもないんだけど……ナノちゃんどこにいるか知らない?」
カソルは肩をすくめて首を振る。
「いや。でもなんでハルのところに?」
「ほら、放課後に学院の案内とかしたりするかなって」
「ああ、なるほど。でも教室出てからは見てないね」
「そっかー」
女子生徒は腕を組んで低くうなった。
「何か大事な用事でも?」
「ううん。私じゃなくてね、ナノちゃんのご家族が。用があるのにまだ帰ってないって学院の方に連絡があって」
「ふーん」
「またこっそり森の方に行ってるのかな……」
その台詞にカソルはわずかに目を見開いた。
「森? 山のふもとの?」
「え、うん。そうだよ?」
意外な食いつきのよさにやや当惑した様子の女子生徒。
「ナノちゃんの住んでる街が森に隣接しててね、行っちゃ駄目って言われてるけどよく行ってるって。だからご家族に黙ってどこかいくならそこかなって」
「そっか」
「うん、それじゃあ――」
と、女子生徒が暇のあいさつを口にしようとしたそのときだった。
「ひゃあぁぁぁっ!!」
カソルの背後から甲高い叫び声が響いた。
かと思えばドタドタと慌ただしい足音とともにハルが部屋の奥から飛び出してくる。
「と、飛んだ! 飛んだわ! あいつこっちに飛んできて……!」
言いながらカソルの前に回り込んできて、カソルを盾にするように部屋の方を窺い見る。
「……エベライン、さん?」
「……あ」
我に返ったハルがぎこちない仕草で振り向き、女子生徒と目を合わせた。
見つめ合うこと数秒。ゴキブリへの恐怖。醜態を晒したことによる羞恥。不在を装ったばつの悪さ。それらに一斉に襲われたハルは、真っ赤な顔で目を白黒させた。
「いや、あのね、これはその……なんというか……」
フル回転して言い訳を捏ね上げようとしているであろうハルの頭からは、忙しない機械音が聞こえてくるような気がした。
「そう! トイレ!」
「トイレ?」
ひらめきに目を輝かせたハルが言うと、女子生徒は気圧されて少しのけぞった。
「私の部屋のトイレが壊れててね! カソルの部屋のを貸してもらおうと思って!」
矢継ぎ早に言葉の弾丸を放つハル。
「トイレにいる、なんていうのも恥ずかしかったから居留守しちゃったの! それでその、本当ごめんなさい」
「い、いや、それは別にいいんだけど……」
頬をひきつらせて言う女子生徒の台詞にかぶせるようにハルが畳み掛ける。
「だ、だからね! ここにもついさっき来たばっかりなのよ、本当に!」
そんなこと聞いてない。カソルですらそうツッコミを入れたくなるような、露骨すぎる言い訳だった。案の定、女子生徒も戸惑いを露わにする。
「え、ええと……なんでそんなに慌ててるの?」
「え。いや、まあ、それはその……うん」
曖昧に笑ってごまかすハル。
「アルフマンくんはエベラインさんの付き人なんでしょ? 別に部屋でお話とかしてても誰も変に思ったりしないと思うけど……」
苦笑いの女子生徒に、ハルは作り笑いをひきつらせる。
「……そ、そうね。……それもそうよね」
普通に考えてみれば、ハルがこの場にいるというだけで一緒の部屋に寝泊まりするのだとばれるはずもなかった。ハルもゴキブリのせいで正常に嗜好が働いていなかったのだろう。
ハルはまばたきを繰り返してから、脱力してがっくり肩を落とした。
「あー、えーと、なんか、取り乱しちゃってごめんなさい」
「あ、ううん。私こそ、なんか……ごめんね」
二人の間に微妙な空気が流れる。
「そ、それじゃあ私はこれで」
やや引き気味の女子生徒は、軽い会釈を残してその場を去っていった。
残されたのは重苦しい沈黙。燃え尽きたようにそのまま立ちつくすハルを、カソルはただ傍らでながめていた。
やがてハルは頭を抱えて勢いよくしゃがみこんだ。
「うぅ……最悪。本当、最悪」
「僕ももっとうまい言い訳ができればよかったんだろうけど」
「いえ、いないことにしろっていったのは私だし……」
はあ、とハルが大きなため息をつく。
吐き出した息を追いかけるようにハルの視線が落ちる。その瞳が足元で捉えたのは、黒光りしながら床を這うアイツの姿だった。
「うにゃああぁぁぁぁっ!?」
ハルはエビのように後方へ飛び退り、そのまま外に飛び出さんばかりの勢いで背中をドアに激突させた。ハルはほんの少しでも距離を取ろうと、ドアに密着して膝を小さく折りたたむ。その目には涙さえうっすらと滲んでいた。
――見なかったことにしよう。
人心に疎いカソルにでも、それが唯一の正しい対応なのだとわかった。
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