第37話 伸ばした手ははるか先まで

「好きなの」

 言葉の継ぎ目に生まれた瞬きのような静寂に、ハルがそっと言葉を重ねる。

「私、カソルのことが大好きなの」

「……は?」

 耳を疑った。今、ハルがとんでもなく馬鹿げたことを言ったような気がした。口を半開きにしたまま頭の中でその響きを反芻してみても、やはりそれは絶対にハルの口から出てくるはずのない言葉にしか聞こえなかった。

 しかしハルはカソルのそんな内心はお構いなしに続ける。

「誰かのためじゃないとか言いながらそれでも人を助けちゃうカソルが好き。不器用だけどちゃんと人を思いやろうとしてるカソルが好き。それに何より、私をちゃんと私として見てくれるカソルが、私は大好きなの」

 一度だけと言った言葉を何度も繰り返したハルは肩をこわばらせてうつむき、頬を紅潮させる。言葉を切ると眉根に苦悶を刻み、薄く形の良い唇を噛み締めた。

「だから私は自分が許せない。大好きな人を何よりもひどい言葉で、誰よりも深く傷つけた。今の私にとって一番許せないことをしたのが、他でもない自分自身なの。他の人を傷つけるのだって嫌だけど、カソルじゃなきゃこんな気持ちになったりしない」

 そしてゆっくりと、力強く首を横に振る。

「だから理想がどうとか、そういうの全然関係ない。それより多分もっと醜くて汚くて、だけど他の全部の気持ちを足しても足りないくらい大きくて強い気持ちが、私がしたことを絶対に許してくれないの」

 絞り出したような声は、最後にはかすれて細くなっていた。静かな夜闇ににじんだ染みのような小さく静かな悲鳴は、しかし確かに街の空気とカソルの心を震わせた。

 一瞬の沈黙。重く冷たい黒に塗りつぶされた世界の中、心臓の音だけがうるさかった。

 顔を上げたハルは呆然として立ち尽くすカソルをまっすぐ見つめた。そして自嘲するように目を細めながら、同時に嘲ろうとする自分に挑むような強気の笑みを口元に湛えた。

「それくらいね、私はあんたのことが好きなの」

 その言葉を合図にしたようにようやく硬直から解き放たれたカソルは、戸惑いに頬をかきながら問いかけた。

「好き、って……話聞いてた? 僕、人じゃないんだよ? ちょっと冷静に……」

「それが何?」

 威圧するように目を剥いて言い返す。もはや自分自身はおろか、たとえカソル自身であっても、カソルを侮辱するなら容赦はしないとでも言いたげな開き直りだった。

「私は人が好きなんじゃないの。カソルが好きなの。関係ないから。人間とか魔獣とか。いっそ別に無機物でもいいわよ。あんたがあんたなら、生き物としての本質なんて本当にどうでもいいの」

 そう言い放ちため息をついて笑った。

「不思議な話よね。どんなに苦くてまずい果物だって魔法にかかったらぺろりと食べられちゃうんだから。本当、腕のいい魔術使いってずるいわ」

 まだうまくハルの言い分が飲み込めない。つまり、どういうことなのだ。

 人じゃなくても関係ないというのか。このあまりに深い断絶を前にしてなお、こちらに手を伸ばそうというのか。人の心情もろくに理解できず、何度もハルを傷つけた、そしてこれからも傷つけるであろう自分を、それでも受け入れてくれるというのか。

 カソルは胸の奥に何か熱いものがわだかまるのを感じた。

「だいたいね、人じゃないなら好きじゃなくなるとかそんな程度の気持ちで、大っ嫌いな暗闇の中を走って追いかけてきたりできないから」

 言いながら思い出したように身をすくませて辺りを見回す。

「今だって怖いのよ。でも、あんたがいなくなっちゃうことの方が何百倍も、何千倍も怖かった。だから暗いのが怖かったのなんてすっかり忘れて、何も持たずにここまで走ってきちゃったの」

 ハルの言う通り、カソルの先ほどの想像とは違い、その手元にはくまのぬいぐるみも白い抱きまくらもなかった。

 その代わりズボンの下に隠れた脚と、軽く握られた拳が小刻みに震えていた。

 それを見て、カソルはようやく自分がハルに抱く気持ちの正体に気がついた。

 完璧を、理想を追及するハルが好きだという気持ちと、ハルは今のままでいいという気持ち。一見背反するような二つの気持ちは、その実まったく同じものだったのだ。

 カソルはへたり込んだままのハルの前に片膝をついて視線を同じ高さに合わせた。間近で顔を合わせると、ハルは先ほどまでの気勢が嘘のようにしおらしく黙り込んだ。

 カソルは膝の上で握られたハルの左手を上からそっと握った。

 ハルの震えが、怯えが、手のひらを通して伝わってくる。自分が臆病だったがために、二つの大きな恐怖と戦わせる羽目になってしまった少女の小さな手。それが今のカソルにはこの上なく愛しく思えた。

「ねえ、ハル。前に理想を、完璧を追い求める君が魅力的だと思ったって話をしたよね」

「……ええ、でもなんでもかんでも完璧にする必要はないとも言ったわ」

 少しぶすっとして応じるハル。

 そう。ハルに指摘されて、自分でもよくわからなかった二つの気持ち。今ならそれをきちんと説明できる。

「僕は完璧な君がいいって思ってるわけじゃないんだ」

「じゃあどんな私ならいいっていうのよ」

 不機嫌そうに唇を尖らせるハルに、真面目な顔でうなずいて返す。

「完璧じゃないからこそ完璧を目指そうとする志。完璧なんてあり得ないって現実を甘受せず努力を重ねようとするる姿勢。前に進み続けようとするその勇気。多分ね、僕はハルのそういうところに惹かれていったんだと思うんだ」

 ハルは再び頬を朱に染めて一瞬カソルから視線を外す。ハルが恐る恐るといった風にもう一度自分を見つめ返してくるのを待ってから、カソルは続けた。

「だから僕は今のハルのままでいいと思う。何ができなくても、理想には手が届かないとしても。挑み続けられる、手を伸ばし続けられるハルでいてくれれば、僕はそれでいいんだと思う」

 今こうして暗闇の恐怖を越えて自分の意志を貫き、手を差し伸べてくれたように。人ならざるものと歩むことの困難を承知で、その道を選んでくれたように。

「矛盾してるように見えるかもしれないし、屁理屈に聞こえるかもしれない。でも僕はそう思ってるってことを伝えたかった。ハルに自分の気持ちを知ってほしいって思った」

 そんな風に、何になれなくともハルがハルらしくいてくれることは、何者でもない名も無きの獣にとっての一つの光であり、希望だったのだ。

「だからつまりね、何が言いたいかというと……」

 そんな自分の気持ちを表すのにふさわしい言葉を頭の中で探し回る。知識として収蔵されたのみの、実体を持たない空虚な言葉たち。どれもこれもがしっくりこなくて、結局口よりも先に体が動いていた。

 握った左手を強引に引き寄せる。表情に驚きを露わにしたハルの体が前に傾く、カソルはそれを正面から受け止めて背中に腕を回して力を込めた。

「僕も君が好きだよ」

 そうしたら、言葉は自然と紡がれていた。

 少しの間のあと、硬くこわばっていたハルの体が徐々にほぐれていく。弛緩した体はそのすべてを預けるようにカソルにもたれかかった。そのほどよい重さが、カソルには心地よかった。

「本当に?」

「こんなときにまで嘘をつけるほど器用じゃないよ。人間じゃあるまいし」

 耳元でハルが忍び笑いを漏らす。

「……一緒にいてくれる?」

「きっと後悔するよ?」

「苦みだって立派な味よ」

 そう。きっとこれこそがハルの強さの本質なのだ。苦痛に鈍感なわけじゃない。むしろ傷つけば人並み以上に心を乱す。それでもやがて襲い来るかもしれない痛みを受け止める覚悟が、ハルにはある。痛みすらやがて糧にできるという自負がハルにはあるのだ。

「そっか。それじゃあ、またよろしく」

「うん……ありがとう」

 そう言ってハルが、腰に添えていた腕でぎゅっと抱きしめてくる。縛り付けるように、もうどこにも行かせないと訴えるように。

 この束縛が、ほんの少しの不自由がなぜか愛しく思えて仕方ない。

 自らの変化を強く自覚したカソルは、思わず笑みをこぼしていた。

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