第12話 特異個体〈衛風の銀狼〉
「待った!」
カソルは飛び降りようとするナノとその下で待ち受けるハルに鋭く声を飛ばす。
二人がその言葉の意味を理解するより早く、カソルはハルの襟首をつかんでいた。
ハルが視界の隅に何かの影を捉えるのと、カソルがハルを後ろから引きずり倒すのはほとんど同時だった。
直後、ハルの上体があった空間を青銀の疾風が虚空を穿つように切り裂いた。
続いて二人の伏せた場所から数メートルのところで、耳をつんざくような破裂音が轟いた。ややあって巨大な何かが倒れたような音と微細な振動が森を揺らす。
カソルはハルの襟首をつかんだまま手近な大木の枝の上へと跳んだ。その途中、疾風と破裂音の源を素早く視界に収める。
大きな銀色の狼が、自らの牙と打突によって倒れ伏した巨木の前に静かに佇んでいた。木漏れ日を浴びた青銀の体毛はきらめき、薄暗い森の中にあって巨狼の周囲は星空のようにまたたいていた。
足から背中までの高さはカソルの身長をゆうに超える。中型に分類される、小隊規模での討伐が推奨される大きさだった。おそらくは今回の目当ての獲物。
しかし問題は――。
「
中型以上の魔獣の一部には、特殊な能力を備えた、ユニークネスと通称される個体がいる。炎を操るもの、外気温を著しく低下させるもの、体に強力な電気を帯びたもの。いずれも魔力をその発生源とするそれらは、自然現象としてのものとは一線を画し、強力な攻撃や防御の手段となる。
狼の体躯の周囲の空気が歪んで見える。おそらくは風の形をとった魔力が狼を中心に渦巻いているのだろう。その効果次第ではかなり厄介な相手と言える。ユニークネスの討伐の場合は二個小隊、もしくは三個小隊での討伐が望ましいとされている。
「歯ごたえは十分かな」
カソルは右手に吊るしたままのハルの様子を確認する。
全身が弛緩している。気絶しているようだ。どうやら引き倒したときに後頭部を地面に叩きつけてしまったらしい。
カソルは布団を干すように二つ折りでハルの体を枝にかけてから、深く息を吸い込んで全身に酸素を行き渡らせる。
「万里を越えて貫き穿て――」
唱えながら着地し、足元から小石を拾って右手の中指と薬指の間に挟む。
「――
続いて人差し指と中指の間に小さな針状の光の塊を生み出すと、素早く腕を振ってそれと小石をを魔獣へと飛ばす。
針は魔獣に当たる直前で何かに操られたかのように進路を変え、あさっての方角へ逸れて虚空に消えた。しかし小石はそれることなく狼の鼻先にあたって地面を転がる。
「魔術よけの風、ね」
時間的には巨邪竜を一息に仕留めるときに使った
針を弾いた直後、巨狼もカソルの着地点へと駆けていた。
「曇天を破き裂け光の標――
カソルの右手にハルの長剣と同等の大きさの、光でできた抜き身の刃が現れる。刃を逆手に持ったカソルは上体を傾けて左前に重心をずらす。
先行してきた横薙ぎの風が頬をかすめると同時、そのまま地を蹴って左前方に跳ぶ。すれちがいざま、陽炎のような残像を連れた巨狼の脇を撫でるように拳を振る。
強烈な風圧に押し返されながらも、刃には毛を裂きわずかに肉をえぐる手応えがあった。
腕を振り抜いたあとは体を押し流す風圧に身を任せ、体を一八〇度転回しながら宙を舞う。もとの進路よりやや左に煽られた位置で着地し、同様に前足で地面を捉えた巨狼を認める。
「ちょっと工夫がいるかな」
カソルはつぶやき、小さく息をつく。一瞬で集中力を高めたあと、人差し指を立てた左手を軽く振り上げた。
その隙に体勢を立て直した狼は、即座に切り返し再びカソルへ向かって疾駆する。
カソルはそれをまっすぐに見据えて微動だにしない。
手を伸ばせば届くような距離に迫った狼がその凶悪な顎門を開く。薄紅の奈落の入り口で、鋭利な牙がねばついた唾液に濡れて光った。
「――
巨狼の顎が袈裟懸けに噛み潰すようにカソルを捉える。
――ガキンッ!
鋭い牙とカソルの体の間で、硬質な打撃音が鳴った。魔獣は文字通り歯の立たない肉体に食らいついた状態で着地し、その勢いのまま地を滑ってカソルを木の幹に叩きつけた。
「かふっ」
衝撃でカソルの肺から空気が一気に押し出される。
魔獣は顎に一層の力を込めるがそれでもカソルを貫けない。きしみを立てる歯の奥で狼が苛立ちのにじむ唸りを上げる。
それを聞いたカソルは不敵に口元を吊り上げた。そして柳のようなしなやかさでゆらりと左手を持ち上げる。その人差し指は、まっすぐに天を指していた。
「教えてあげるよ、エルレイ」
つぶやくように言って、その手を勢いよく振り下ろした。
「これが――僕の浮動魔術の使い方だ」
指先が大地を指し示すと同時、上空から高速で飛来した大木が魔獣の後頭部に叩きつけられた。魔獣の初撃で噛み折られたその巨木は、狼の後ろ頭に一瞬斜めに突き立ったあと、再び土の上に倒れ伏した。
咬合が緩み、カソルは身を滑らせて巨狼の側面に転がり出る。
頭蓋を揺らされ足元のふらついた狼の巨体が傾ぐ。一歩、二歩と前によろめいて、もたれかかるように鼻先をカソルを押し付けていた幹にぶつけた。混濁した意識の中ではもはや風を操ることもできず、魔獣の周囲は先ごろまでの突風が嘘のように凪いでいた。
カソルは右手に握った光剣を高く振り上げ、小さなため息とともに叩き下ろした。
――ウオオオオオッ!
前後まっぷたつに断ち切られた哀れな狼は、遠吠えのような断末魔とともに大きな血しぶきを上げた。そして、自らが倒した大木に寄り添うようにその身を大地に預けた。
転がった巨狼の前半分は完全に沈黙した。しかし後ろ半分は、切断面から赤黒い血を垂れ流しながら未だ悶え苦しむように足を暴れさせている。
「心臓は後ろか」
魔獣は心臓を破壊しなくてはいずれ魔力を集めて再生する。この狼も放っておけば心臓の残った後ろ半身が、失った前半身を再形成して復活することになる。
さらに後ろ半身を十字に斬りつける。後ろ半身の四分の一。尻尾の付け根がある部位だけがかすかに震えていた。無力化できる魔獣ならば、こうして心臓を探すのが効率的だ。
だいたいの位置をつかんだカソルは光剣の出力を幾分弱めた。
白炎魔術は体に負担をかける。切断を可能とする出力を維持するのは出来る限り短い時間にとどめたかった。
カソルはあくびを噛み殺しながら、出力を極限まで落としほとんど糸のような細さになった刃で手当たり次第に光剣を突き刺していく。
刺した箇所から血が溢れ、肉の焼ける匂いが漂ってくる。カソルの光剣は白炎魔術の応用技であり、その実質は火だ。それゆえ当然触れたものを容赦なく焼き焦がす。
白炎魔術に熟達したアスカトラなどは、いつも惜しみなく魔力を消費して跡形もなく魔獣を消し去ってしまう。その域に達していないカソルはより効率的に攻撃する手段を選ぶ必要があったため、光刃を編み出すに至った。
魔獣の肉片の三分の二ほどが焼け焦げたころ、ようやく刃の先が容易に燃やし尽くせない何かにぶつかった。
「やっとか。今日は運がないな」
カソルはため息をついてから一瞬だけ光の出力を上げる。するとそれは刃の先端で砕け、断末魔のような紫の残光を放って消えた。
カソルも手元の閃光を収め、倦怠感と充実感のないまぜになった息をこぼした。
「カソルくん!」
そんな声に振り向いてみると、いつの間に木から降りたのか、ナノが大慌てで駆け寄ってくるところだった。
「ああ、怪我は――」
と、念のため無事を確かめようとした台詞の続きは、ナノが勢いよく胸に飛び込んできた衝撃で肺から一気に空気が吐き出され、声にならなかった。
「大丈夫? どこも怪我してない?」
そして代わりにナノの口から似たような言葉が出てくる。
「僕はなんともないよ」
そう答えたとき、肩口に額を押し付けてくるナノが少し震えていることに気づいた。
「ありがとう、カソルくん」
「いや、もともとあれを倒すために来てたんだ。気にしなくていいよ」
「あんな、あんな大きい魔獣……始めてみたから……。すっごく怖かった。ここで死んじゃうんじゃないかって……カソルくんがやられちゃうんじゃないかって」
言われてみれば、今回の戦闘はなんの事情も知らないナノから見るとかなり危なっかしい戦い方に見えたかもしれない。自分にとっては肉も切らせず骨を断つ戦術のつもりだったが、傍からは相打ち覚悟の捨て身の作戦にも見えるか。
「なんかごめん」
「なんでカソルくんが謝るの?」
「いや、そういうものかなって」
「ふふ、何それ」
ナノがくすりと笑いを漏らす。それに少しの安堵感を覚えていることを自覚して、カソルは不思議な気分になった。
とりあえず、ナノが落ち着くまでこのまま胸を貸し続けることにした。
しばらくしてから顔を上げたナノは、うつむいたまま頬をかきいてゆっくりと二歩後ろに下がった。そして少し赤くなった顔で、上目遣いにカソルを見つめる。
「ご、ごめんね。なんか甘えちゃって」
「別にいいよ」
そう言ってふと思い出したカソルは、ハルを干しておいた木の上を見やる。手足をだらりと下げて二つ折りで枝にかけられたハルは、普段の凛としたイメージも相まってなんともいえない間抜けさを漂わせていた。
「ぶふっ」
それを見たナノがこらえきれずに少し吹き出す。意外と笑い上戸らしい。
「ちょっと降ろしてくる」
小刻みに肩を震わせるナノとともに枝の下まで歩いて行く。
手早く木を登り、枝の付け根で屈んで腹と枝の間に腕を差し入れ体を持ち上げる。
「ん、んん……」
その直後、ハルがうめき声を上げて身じろぎした。カソルが手を止めて様子を見ていると、ハルはそのままゆっくりとまぶたを開けた。
「あ、あれ……私……って何これ!?」
そして目の前に地面が顔の向きと平行に広がっていることに気づき大声を上げる。
慌てたように首をひねってカソルの方を向くと、今度は自分の腹の下にカソルの腕が差し込まれていることに気がついて瞠目した。
「ちょっ、バカ! 痴漢! 変態! 何してんの!」
「何って、下ろそうとしてるだけだよ」
「下ろ……って、え? あ、なっ、木の上?」
落ちることによる身の危険を感じたのか、きゅっと身をすくませて固まるハル。
「そのままちょっとおとなしくしてて」
カソルはハルを持ち上げると、枝の上に立ち上がってから改めてお姫様抱っこのような形に抱え直した。
「ななななっ、ななな何よこれぇ!?」
「いいから動かないで」
「は、はいぃ……」
高所の恐怖と状況の不明さで混乱の極致に陥ったハルは、わけもわからず素直に従っていた。
カソルは静かになったハルを抱えたまま、軽やかに木の上から飛び降りる。着地と同時に両腕を下げ、ハルへの衝撃を最大限緩和する。
「はい、もういいよ」
膝の下に入れていた腕を抜き、立つようにハルを促す。
しかし、ハルは腰が抜けたのか地に足をつくができずにそのままぺたんと地面にへたり込んでしまった。
「え、えっと私、どうして……」
顔の半分を右手で多いながら深刻そうな表情で記憶を手繰る。
「――あっ、魔獣が出てきて、私頭を……」
「ごめん。頭たたきつけちゃった」
カソルが詫びると、ハルは小さく首を横に振った。
「う、ううん。それは油断した私の責任よ。助けてくれてありがとう」
そう言って座り込んだまま律儀に頭を下げる。
カソルはちらりとナノの方を見てから本題を切り出す。
「それで、ことの顛末なんだけど……」
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