第24話 安全じゃなかった図書館

「あ、僕の腕とかどう?」

 左腕を持ち上げてハルの前に差し出す。ハルは何度かまぶたを弾ませて目の前の肌色の細長い棒を凝視した。

「へ? あんたの腕、を? 抱くの?」

「そう。ぬいぐるみよりはだいぶ細いけど長さは十分じゃない?」

 ハルは戸惑いつつ目を細めて差し出された腕を見つめる。

「ま、まあ……確かにギリギリ大丈夫な気もするけど」

「危険があったときにすぐ君を引いて逃げることもできる」

「き、危険って何よ」

 もはや作り笑いを浮かべることすら放棄して顔を恐怖に歪める。

「うっすらと魔獣の匂いがする」

「はあ!?」

 ハルの素っ頓狂な声が館内に響き渡った。

「……図書館は静かにする場所じゃないの?」

「うっ……そうだけど魔獣ってどういうことよ」

 ハルはばつ悪そうに口元を手で覆いながら言う。

「多分罠だよ。匂いがわかる以上避けるのは簡単だし問題ない」

「そ、そう言われても……」

 暗闇の前ではとことん人が変わるようで、普段の意気が嘘のように尻込みするハル。

 しかしカソルとしても譲る気はない。とはいえ、あえてハルを苦しめようという気はさらさらない。多少の譲歩や妥協案の提示くらいはするべきだろう。

「わかった。じゃあどうしても耐えられなくなったら僕の肘を三回叩いて。そしたら引き返すから」

 カソルの提案にハルは目を丸くした。カソル自身も、状況次第では自らの自由を制約するような提案を自分があっさり容認できたことに少しだけ驚きを感じていた。

「……ごめんなさい。わかったわ。行きましょう」

 何か思うところあってか、ハルは覚悟を決めた様子でうなずく。

「はい、じゃあ腕」

 改めてハルの前に腕を差し出した。しかしハルは難しい顔でその腕を見つめたまま動かないでいる。

「どうかした?」

 カソルが声をかけると、ハルは我に返ったように顔を上げて首を振った。

「あ、いえ、そのちょっと待って。心の準備が……」

 そう言ってから三度、全身を使って大きく深呼吸をする。

「仕事だから抱きつくだけ。仕事だから抱きつくだけ。仕事だから抱きつくだけ……」

 そして呪文を唱えるようにそんなことを自分に言い聞かせてたあとで、思い切ったようにカソルの腕をぎゅっと抱きしめた。肩口に押し当てられたハルの頬は、熱した鉄板のように熱かった。

「よし、じゃあ――」 

 ――トントントン。

「……早すぎない?」

 腕を抱いてから五秒と経たないうちのギブアップ宣言だった。ハルは顔をカソルの腕から離して顔を隠すようにうつむく。

「ごめんなさい。これ、思いのほか……心臓が、その……」

 言いよどんでため息を一つ。

「……いえ、なんでもないわ。行きましょう」

「本当にいいんだよね?」

「ええ、なんとか頑張ってみる」

 了解を得られたところで今度こそ出発。

 カソルが足だけ差し入れて暗闇の中を探ると、その先は段差になっているようだった。

「階段かな? 足元気をつけて」

 ハルはカソルの方に頬を押し付けたまま黙ってうなずいた。

 幅の広い階段を慎重に下り始める。背後で再び本棚が動いて通路を塞ぐ。

 音波による空気の振動が妨げられているので、当然もう会話もできない。ハルとしては心細いだろうが、ここまで来たら進むしかない。

 少し歩いたところで、二人は三叉路に出て一度立ち止まった。もちろん何も見えてはいないが、正面、左右からそれぞれ異なる匂いを伴った空気が流れ出し、今二人の立つ場所で混ざり合っていたためにカソルにはそれと判断できた。

 左と正面から魔獣の匂い。正しい道は右だ。匂いに敏感なものか、たまたま右の壁伝いに歩いているものでなければ知らずに進んで魔獣の餌食になっていただろう。

 一方で右手の道から漂ってきているのは、もといた図書館の中と似たような匂いだった。地下書庫のようなものにでもつながっているのだろうか。

 ほどなくして通路の終端にたどりつく。ドアがあるものと判断して腰から上辺りを手で探っていると、果たしてノブらしきものを見つけた。

 それをひねって手前に引くと、木材のきしむような音とともに正面に新たな空間が開けた。カソルは右手で指を鳴らし、指先に明かりを灯す。

 目の前にあったのは、小さな書斎のような部屋だった。

「大丈夫?」

 カソルは腕に巻き付いたままのハルを見下ろしながら尋ねる。

「えっ、あっ、うん」

 慌ててカソルから離れてうなずく。意識を何かからそらそうとするようにポケットからくしを取り出し、斜め下に視線を落としながら波打つ後ろ髪の毛先をなでつける。

「うん、まあ、正直暗闇がどうとか気にしてる余裕なかったし……」

「どういうこと?」

「な、なんでもない」

 ハルは言いながらくしをしまうとぐるりと周囲を見回した。

 四方の壁はびっしりと書物の詰まった本棚で埋められていた。その片隅には小さな机と背もたれのある椅子があり、その周りにも乱雑に本が積まれている。

 カソルは机に近づいて行って本の一冊を手に取った。

「……伝承? 魔獣に関する伝承を集めた本だ」

「誰かの秘密の研究室、みたいな?」

「こっちは……」

 装丁されていない、紙を紐でくくっただけのノートを取ってめくってみる。

「これ……」

 そこに並んでいた手書きの古代文字を目にした瞬間、カソルは思わずつぶやいていた。

「――アスカトラだ」

「えっ!?」

 ハルも驚きの声を上げてのぞきこんでくる。

「この筆跡、間違いなくあいつのだよ。多分ここはアスカトラが使っていた書斎だ。あの異常な完成度の遮断魔術もそれなら納得できる」

「じゃあもしかしてここが校長先生の言ってたアスカトラの学院生時代の拠点? でも百年以上前に使われてたにしては、そこまで埃まみれってわけでもないわね」

 ハルは言いながら机の上の別のノートを手に取る。

「あれ、これは筆跡が違うわ」

 それを聞き、カソルはハルの手元をのぞき込んだ。

「本当だ。アスカトラの字じゃない」

「私たちの他にも何人かここに入った人間がいるってことね」

 カソルはノートを机に戻し、改めて辺りを見やる。

「気になるけどここを調べるのは時間がかかりすぎるからまた今度にしよう。今はナノとの約束もあるし」

「そ、そうね。ひとまず戻りましょうか」

 うなずくハルの前にカソルは再び腕を差し出した。ハルが一呼吸間を置いてから再びカソルの腕を抱いたところで、二人は部屋をあとにした。

 光源魔術を消して、もと来た道を帰っていく。結局ハルは行きも帰りも、少しも取り乱すことなくおとなしくカソルの腕につかまっていた。

 出入り口である本棚の裏までやってくる。本棚の裏側には取っ手がついていて、それを引くと入ってきたときと同じように本棚が回転して出口が開けた。

「まさかアスカトラ絡みだとは思わなかった」

「うん、嫌な予感的中どころの騒ぎじゃないわね」

 ハルも同意してため息をつく。それと時を同じくして、左手の本棚の陰からナノが顔を出した。カソルとハルを探していたのか、ナノは二人を見て安堵の表情を浮かべて歩み寄ってくる。

「いたいた。二人ともどこに……って」

 しかしすぐに驚きと戸惑いを絶妙にブレンドした表情を浮かべて立ち止まった。

「どうしたの?」

 カソルが尋ねると、ナノは二人から目をそらしつつ頬をかいた。

「ああ、いや、その、仲よしだなーって」

 意味を理解しかねた二人とナノの間に一瞬の沈黙が降りる。そしてカソルとナノは肩を挟んで至近距離で顔を見合わせた。

「うわあっ」

 悲鳴を上げたハルが慌ててカソルの腕を離して高速で後ずさりした――かと思えばその勢いのまま本棚に背中をぶつけてくずおれる。

「いだっ」

「だ、大丈夫?」

 立ち止まっていたナノが心配そうに駆け寄ってくる。

「大丈夫……だけど違うの! 本当に違うの! そういうのじゃなくてちょっとやむを得事情があって仕方なく……!」

「え、ええと」

 ハルの剣幕に圧され、ナノは苦笑を浮かべて口ごもる。

「あの、あのね……そう、関節技! 関節技の練習してたの! それだけ!」

「図書館は実践の場じゃないんじゃなかったっけ」

「あんたは黙ってて!」

 必死の形相をカソルに差し向けて一喝する。カソルは理不尽な叱責に肩をすくめた。

そんな二人を困惑気味にながめつつ、ナノが「まあまあ」となだめるようにハルに両手をかざした。

「う、うん、よくわからないけど深い意味はないって言いたいんだよね。ハルちゃんがそう言うならそういうことにしておくから、とりあえず落ち着いて……」

「そういうことにしておく……じゃなくて本当にそうなのよ!」

 無罪を訴える罪人のような痛切な声音だった。なんだか気の毒になってきてカソルも助け舟を出すことにした。

「本当にちょっと事情があったんだ。じゃれてたとかじゃないよ。ハルはむしろ嫌がってたくらいだから」

「いや、別に嫌じゃなかったわよ」

 カソルの発言に、ハルは心外そうに真顔で首を横に振った。

「え、でもなんか、仕事だからしょうがないみたいなこと言ってなかった?」

 思い出して目を見開くハル。

「あ、それはそういう意味じゃなくて……」

「じゃあどういうこと?」

「だから、その、自分の私情に折り合いをつける、みたいな……」

 言いながら頬を少し朱に染めるハル。言っている意味がよくわからず、カソルは首を傾げてより詳しい説明を求める。ハルは困ったように唇を曲げる。

「と、とにかく嫌ではなかったから!」

 それだけ言い放ってそっぽを向いた。その先にいたナノが微笑ましげに目を細める。

「じゃあやっぱり仲よしなんだよね?」

「あああ、だからそういうことでもなくてね!」

 床に手をついてがっくりと項垂れるハル。次から次へと襲いかかる誤解の波に振り回されるハルの背中には、なんともいえない悲愴感が漂っていた。

「まあ、仲は悪くないけど特別な関係ではないってことだよ」

「そう、そういうこと! 珍しくカソルがいいこと言った!」

 ハルがびしっとカソルを指差して壊れた人形のように繰り返し首を縦に振る。カソルは「珍しく」という部分に反論しようかとも思ったが、その通りだったので口をつぐんだ。

「ーん……? カソルくんもそう言うならそうなのかな」

 戸惑い混じりに言ってから、一転してにっこりと屈託なく笑った。

「でも二人が本当にそういう関係になったら教えてね。ちゃんとお祝いしたいし」

「はあ……わかってくれてよかった」

 ハルはそう言って、疲労困憊といった体でふらふらと立ち上がった。

 ハルも静かに本を読む場所であるはずの図書館で、真っ暗闇やら弁明地獄やらとの格闘することになるとは思わなかっただろう。やはり図書館は恐ろしいところだ。カソルは認識を新たにした。

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