第22話 氷の女王
凍てつく嵐の訪れは放課後のことだった。
一日の授業を終えた開放感で教室中が和やかな空気に満たされる中、美しく冷たい声が響いた。
「こんにちはー」
教室前方の入り口から聞こえてきた声に振り向いた生徒たちは、皆一様にその場で金縛りにあったように固まった。
そこにいたのは、聖法協会監察院長、メイア・ルベルテインその人だった。
「あれ、どうしたの? みんな怖い顔しちゃって」
国家の治安を、とりわけ魔術師の動向を監視する役割を持った監察院。その頂点にして魔術師嫌いと名高いルベルテイン。言ってみればここにいる生徒たちにとっては圧倒的に格上の天敵のようなものだった。
「魔術師はただでさえ人相悪いんだからもっとリラックスしなきゃ」
口元を上品に手で抑えながらくすくすと笑う。
ガタッという音とともに立ち上がったのはエルレイだった。
「貴様……! 一体な――」
おそらく「なんの用だ」と続けようとした口は、半開きのまま糊付けされてしまったように動かなくなった。
肩を怒らせたエルレイを、ルベルテインが視線で射すくめていた。
険しい眼差しでにらみつけているというわけではない。表情はむしろおだやかで、しかしその奥底にはこれ以上ないほどに研ぎ澄まされた氷の刃がきらめいているのが、カソルにはよくわかった。
嘲笑と侮蔑。見下すような視線はそのまま巨大な氷山のごとき重みを伴って、エルレイを冷たく押しつぶそうとする。
わずかに身震いしたエルレイは、力なく崩れ落ちるように腰を下ろすことしかできなかった。
その代わりに立ち上がったのはハルだった。
「監察院長。どういったご用件でしょうか」
低く抑えた声で言ったハルを、ルベルテインはやや眉を上げて見やった。
「あ、ハル。いたんだ」
わずかにハルの眉間が寄る。いい返す言葉を飲み込むように小さく喉を鳴らしてから、ハルは改めて続けた。
「学院への通学に関してはまず一週間様子を見るというお話です。まだ二日目ですから今後の方針の確認に来るには早いのでは?」
「そんな野暮な話しに来たんじゃないってば」
そう言ったルベルテインは、視線をそのままカソルにスライドさせた。
「カソルくんをデートに誘いに来たんだ」
ピシリ、と凍りついた教室に亀裂が走った。
「な、は……? なぁ……!?」
ハルが珍獣の鳴き声のような奇妙な音を出した。
「どう? カソルくん、このあと暇?」
ルベルテインはカソルの横までやってくると、席についていたカソルの左腕を取って立ち上がらせるように引いた。
「暇だよね? ねえ?」
腰を上げたカソルの腕を抱き込むように引き寄せるルベルテイン。豊かな胸の膨らみをカソルの上腕が押しつぶした。
「ちょ、ちょっ、ちょぉっ!?」
ルベルテインの後ろで、ハルが顔を真赤にしてあたふたしている。
教室を包んでいた冷たい空気に色濃い困惑がまじり始めていた。
昨日会ったときに「今度お茶でも」と声をかけられたのは確かだし、ハルがそれを指してデートだと言っていたのも覚えている。しかしルベルテインの口からもそんな言葉が出てくるとは思ってもいなかった。
十中八九ふざけているだけなのだろうが、それにしてはやりすぎているようにも思える。ハルの話が本当で、魔術師を毛嫌いしているのであれば腕を抱いたりするなんて行為はとてもではないができないはずだ。
「おいしいものごちそうするよ? 何がいいかな? お肉? どうせなら食べたことないようなものがいいよね」
ルベルテインが軽く身をよじらせ、カソルの腕が丘の間でむぎゅむぎゅと転がる。
「いや、まあ……」
何かしら目的があってのことならば、それはルベルテインにここまでさせるほどのことということになる。それならば無下にするのもどうかとは思う。
かといってここでルベルテインについていくとクラスメートたちとの関係に小さくない問題が生じるようにも思われる。どうしたものだろうか。
態度を決めかねているカソルを連れ出そうとするように、ルベルテインがさらに腕を引いたそのときだった。
「だ、駄目ですよ!」
教室にそんなナノの声がこだました。
ルベルテインは驚いたように振り返り、教室の中心で机に手をついて立ち上がるナノに視線をやる。そして興味深そうにゆっくりとまばたきを繰り返した。
「何がだめなの?」
視線はエルレイに向けたものほどではなかったが、それでもやはり怜悧だった。
「うっ……えと、そのなんというか……約束があるんです……!」
「約束? なんの?」
ナノはひるんで視線をそらしながらも口は閉ざさない。
「それは、その……あの、カソルくんに……うちに遊びに来てもらう約束が」
ナノの発言を受けたルベルテインの視線がカソルに向く。
「そうなの?」
「え」
想定外の展開に、カソルは単音で応えることしかできなかった。
約束なんてしただろうか。何か知らないうちに約束を成立させる言葉を口にしたり行動を取ったりしていたのか。ただ少なくともはっきり口約束をした覚えはなかった。
「どうなの?」
顔を近づけて詰め寄ってくるルベルテインに、カソルはのけぞりながら首をかしげた。
「いや、そんな約束はしてないと思うけど」
「カソルくんのバカぁ!」
「ええっ!?」
ナノにいきなり罵られ、街に来てから一、二を争うほどに面食らうカソル。ナノはルベルテインの重圧のせいか、瞳にうっすらと涙を浮かべてカソルをにらんでいた。
「でも、その、僕の方には心当たりがないというか……」
「いいからしたって言って! 約束してたって!」
ナノは怒りなのか羞恥なのかよくわからない感情に頬を紅潮させ、カソルに迫る。
「え、でも」
「いいから!」
畳み掛けるような勢いに気圧され、カソルはほとんど無意識にうなずいていた。
「……や、約束した。確かに約束してた」
「ほら聞きましたか!? カソルくんには先約があるんです!」
完全にやけっぱちになった様子のナノは、ルベルテインの方へとぶんっと首を回し、割れんばかりの声で言う。
反響が収まったのち、しんと静まり返る教室。今や生徒たちの注目は、ルベルテインではなくナノに集まっていた。
「ぷっ……ふふ、うふふふふ」
再びルベルテインに視線が吸い寄せられたのは、そのイメージにそぐわぬ、心底からこみ上げるような笑いが聞こえてきたためだった。
「ふふ、うふふっ……ああ、ごめんね。ふふふ」
普段見せるような薄ら笑いでも、嘲るための作り物めいた笑い声とも違う、本当に可笑しさを感じての笑い。ハルも意外そうな面持ちでそれを見つめていた。
ルベルテインは一通り笑ってから、咳払いを一つ挟んで再びナノの方を見やった。その瞳には、先刻ほどではないにしろ、いつもながらの冷たさが戻っていた。
「魔術師にも可愛らしい子がいるものだね。ええ、ふふ……一途で健気で、気持ちが良いほど素直。とっても可愛い」
そしてその目は完全に普段の調子を取り戻してハルに向けられた。
「――誰かさんと違って、ね」
その冷え切った声を浴びせられた瞬間、ハルの顔はまさしく凍りついたようにこわばった。
「器量もよさそうで肝も据わってる。きっとああいう子と一緒になった男の子は幸せだろうなー。そう思わない? ハル」
ハルは口を真一文字に結んで無表情にルベルテインを見返す。ルベルテインは意地の悪い微笑みをたたえて目を細めた。
「ふふ、優しい従姉がアドバイスをあげる。あきらめるのはね、早い方がつらくないんだよ」
ぴくりと肩を震わせたハルが唇を噛む。そしてその怯えるような瞳はなぜかカソルに向けられた。
「私、は……」
か細い、声とも言えないような声がうつむいたハルの口から漏れる。しかしハルがその続きを紡ぐことはなかった。ルベルテインは肩をすくめて鼻で笑った。
「ちょっといじめすぎちゃったかな。お母様に怒られちゃうかも」
そして気を取り直すように軽く手を打ち合わせると、カソルの方へ向き直った。
「今日はあちらの魔術師ちゃんにカソルくんをゆずってあげることにしました。残念だけど、また機会があったら遊びに行こうね。それじゃ」
ルベルテインは一方的に告げると、優雅に踵を返して教室を去っていった。
それを合図にしたように、教室中にため息の合唱が響いた。
「ハル? 大丈夫?」
立ちつくすハルの肩を叩く。ハルは我に返ったように顔を上げ、思いの外近くにあったカソルの顔に驚くように一歩引いた。
「う、うん。大丈夫よ、なんでもない」
「なんの話だったの? よくわからなかったんだけど」
カソルが問うとハルは少し頬を引きつらせて首を横に振った。
「さあ……私もよくわからなかったわ」
よくわからないのに、あんなに傷ついたようなそぶりになるだろうか。かといってカソルにハルの気持ちを推察するだけの理解はない。うまい追及はできそうにもなかった。
「そ、それよりもだ!」
やや裏返った声で叫んだのはエルレイだった。椅子に座ったままでカソルを鋭く指差して叫ぶ。
「ま、おまっ、お前は一体なんなんだ! 次期聖女候補の付き人だとか、監察院長がでっ、ででデートに誘いに来るとかぁ! お前は聖法協会のなんなのだ!」
まだルベルテインのプレッシャーから立ち直りきっていないのか、いつも軒昂なエルレイのスピーチはつっかえたり変に間延びしたりしていた。
「僕に聞かれても困る。今度会ったらルベルテインに聞いてみてよ」
この返しは意外とエルレイの急所をついたようで、先ほどの顛末がフラッシュバックしたらしいエルレイは顔をしかめて黙り込んだ。
「はあ……」
知らず、カソルも大きなため息を吐き出していた。
妙に疲れた。なぜルベルテインがあんなことをしてきたのかもわからないし、なぜナノがあんなに声を荒らげたのかもわからない。おまけにハルもいきなり気落ちして、全方位から謎を放り投げられているような状態だ。
またの機会、とやらがあったら、一体どうなってしまうのだろうか。
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