第15話 癖毛の呪いと暗闇
物音と人の動く気配で目を覚ましたのは、カソルが眠りに落ちてから一時間も経たないころだった。
殺気や敵意は感じない。そもそも人が出入りすればその時点でさすがに気がつく。ハルが起き出して何かしているようだ。
目を開き耳をそばだてて様子を窺う。部屋は暗いまま。何をしているのかわからないが、灯りがないせいで手間取っているのか、物音はなかなか止まなかった。
カソルは上半身を起こして目を凝らす。ハルは例の箱の前にいるようだった。山暮らしが長く夜目が利くとはいえ、当然灯りなしでは細かいことまでは見づらい。
人差し指を立てた右手を頭より高く上げ、パチンと指を鳴らす。すると、まばゆい光が人差し指の先に灯り、部屋一面に薄明かりを届けた。
突然現れた光源に驚き、ハルが振り返る。
ハルは両腕で何かを抱きかかえていた。ハルの体を足元から顔の下半分まで隠してしまうほどの大きさの焦げ茶色の塊。それについた二つのつぶらな瞳がカソルを見つめている。
くまのぬいぐるみだった。
カソルの視線に気がついたハルは、その目を大きく見開いた。そしてそのまま固まって腕の中の巨大なぬいぐるみをうっかり取り落とした。包容力を感じさせる笑みを浮かべたくまがゴロリと床に転がる。
見てはいけないものを見てしまった。カソルはなぜかそう直感した。
黙って右手の指を鳴らして光を消すと、改めて静かに横になった。
「あ、ま、待って! やだやだ! 暗くしないで!」
今にも泣き出しそうな切羽詰まったハルの声を聞き、カソルは慌てて指を鳴らした。
起き上がって見てみるとハルはぬいぐるみの傍らで床にへたり込んでいた。
「ど、どうしたの?」
動揺も露わに尋ねるカソル。ハルは目元をわずかに潤ませ、幼い子供のように弱々しい顔つきでカソルを見上げていた。
「……こ、怖いの」
「何が? 何かいる?」
ハルがふるふると首を振る。
「じゃあ何?」
「……暗いのが」
カソルは自分の耳を疑った。そして次に目の前にいる人物の正体を疑った。
暗闇が怖い。そう言った。いつも気丈で堂々と振る舞い怖じけず物を言うハルが。にわかには信じがたいが、身をすくませて座り込む少女は間違いなくハル本人だった。
「本当に?」
「こんな情けない嘘ついてどうするのよぉ……」
一層震えを増した声に慌てたカソルは、早足で壁に近づいて部屋の明かりをつけた。
それから山で小動物の警戒心を解くときにそうしていたように、しゃがみこんで尻餅をついたままのハルに視線を合わせる。
「大丈夫?」
「え、ええ……灯りさえついてれば」
立ち上がろうとするハルに、カソルが先に腰を上げて手を差し伸べる。
「ありがとう」
二人が立ち上がると、逆立ち一歩手前の状態で転がるくまのぬいぐるみにそれぞれの視線が自然と吸い寄せられた。思いのほか年季が入っていて染みやほつれも少なくない。
「えっと、これは?」
聞いていいものかどうか迷いながらも、どうしても気になったので口にしてみる。
ハルは少し落ち着いてきたせいで自らが晒した醜態が自覚されてきたらしく、目をそらして顔を赤くしながらつぶやくように答えた。
「それ抱いてると……怖くないの。小さいころからそれと一緒に寝てて……」
「なるほど」
羞恥は次第に自己嫌悪に変わっていったらしく、ハルはうつむいてため息をついた。
「いいわよ、馬鹿にして。むしろ笑ってほしいわ。自分でも呆れてるし。あんたにからかわれれば負けん気で克服できるかも」
言われたカソルは戸惑い、頭をかきながら考え込む。
「やーい、やーい。臆病聖法官ー」
どんよりと肩を落としたハルは、そのままくずおれて四つん這いになった。
「いや、あの……嘘だから。落ち込まないでってば」
「いえ、いいのよ。本当にその通りだわ。こんな、人並み外れて意気地のない人間が聖女を目指すとか、冗談にもならないわね……」
もはやカソルは立ち尽くすしかなかった。
わからない。どうすればいいのか本当にわからない。言われた通りにしてやるのがいいのではないかと馬鹿にしてみたが、完全な逆効果だった。からかい方が悪かったのか、そもそも言うことを聞かずになぐさめていればよかったのか。
人と関わった経験が極めて少ないカソルには、正解など導き出しようがなかった。
「君は他が完璧すぎるから気になるのかもしれないけど、弱点なんて誰にでもあるって」
ハルは緩慢な仕草で顔を上げ、疑るようにカソルを見上げる。
「あんたにもあるの? 弱点?」
「えっ……?」
予想外の問いかけに当惑するかソル。
「うーん、ほら、今まさに他人とのコミュニケーションで苦労してるし」
ハルは眉尻を上げてカソルをにらんだ。
「そんなの弱点のうちに入らないわよ! 私なんて致命的じゃない! 夜の戦闘とかどうするのよ!」
「魔術なりなんなりで灯りをつければ済むことだよ」
先ほど使った光源魔術、それに射出魔術と浮動魔術を応用すれば、任意の一帯を照らす擬似的な太陽が作れる。そうまでしなくても機械に頼ることだってできる。
「でもなんかのトラブルでそれが消えたら大変なことになるじゃない!」
「僕はそんな失敗しないし」
カソルが言うと口角泡を飛ばしていたハルの唇の動きがが止まった。真顔で硬直してカソルを見つめ返す。カソルはまばたきを繰り返しながらそれを受け止める。
「な、何?」
「あ、いえ、その……今は監視対象としてそばにいるけど、それは、今だけじゃない。あんたとは、ほら、いつまでも一緒じゃないんだから……」
言われてカソルははっとした。なぜか自分がハルについている前提で考えていた。
「そうだね。そりゃそうだ。何言ってるんだろう、僕」
眉間をつまんで目を伏せる。自分の勘違いをどう受け止めていいのかわからない。ハルが今日や明日のこととして話していると解釈するような要素は何もなかった。逆にもっと先の将来に自分がハルと一緒にいる可能性も限りなく低いとわかっている。
それならばなぜ、このような錯誤に陥るに至ったのか。
数秒の沈黙を挟んだあと、ハルはカソルの足元に視線を固定したまま唇をなめた。そして蚊の鳴くような声で続ける。
「でも、えっと、あの……ありがとう。なんかちょっと、嬉しかったわ」
「え、うん。どういたしまして?」
よくわからない。よくわからないが無性に言い訳がしたくてしょうがない。
「……えーと、なんていうかさ、つまりあれだ。弱点があるなら、僕に限らず誰かが補えばいいんだってことだよ」
首を傾けながら言って、もう一度ハルに手を差し出す。
「そ、そうかもね」
膝立ちになっていたハルはぎこちなく笑ってうなずき、カソルの手を取って立ち上がった。気まずい沈黙が二人の間に横たわる。
どちらからともなく自分のベッドに戻り、明かりをつけたままベッドに潜った。
カソルはそれからしばらく、黙って天井を見つめていた。人工の照明の中で眠ったことは今までにない。しかし眠れそうにないのはそのせいだけではない気がした。
「ねえ、起きてる?」
「起きてるよ」
即答したカソルに、ハルは一つ間を置いて続けた。
「一つ聞いてもいい?」
「だめって言ったら?」
「勝手に聞く。答えるか答えないかはあんたの自由だけど」
カソルは失笑してハルを促した。
「どうぞ」
「今朝自己紹介のとき私をくすぐったのって、私のせいで空気が悪くなってたから?」
「そうだけど、別に君のためってわけじゃないよ。あれだと学院の人たちの生活を知るどころじゃなかったから。まああんな一気に雰囲気がやわらぐとは思わなかったけど」
想像以上に面白いリアクションをとってくれたことに感謝、と心の中で付け加える。
「そう。でもありがとう。どうしてああなっちゃうのかよくわからないんだけど、魔術師の人と話すときはいっつもあんな感じだったわ。だから仕方ないと思ってた」
どうやら無自覚で人を煽っていたらしい。確かに聖法官と魔術師の対立という背景は大きいが、ハルの場合は怒らせなくていい人まで怒らせていたのではないか。
「でもね、魔術師の人たちの力が必要だって、協調していきたいって思ってるのは嘘じゃないのよ」
「うん」
「ただ、それを実現するためには私がもっと強くなる必要があると思ってた」
「強く? それじゃあむしろ溝が深まるんじゃない?」
「そういう見方もできるかもしれないけど……。でも私が誰よりも、魔術師だけじゃなくて聖法官の中でも圧倒的に強くなればいろんなことが変わると思う。魔術師の人たちが聖法官を嫌うのは聖法官が偉そうだからだわ。私についていこうって聖法官のみんなが思ってくれるくらいになれば、そういう空気も変えていけるかもしれない」
カソルは布団の中で腕を組み、まぶたを下ろして考え込む。
「私が誰よりも早く、誰よりも多く魔獣を倒せる聖女になれば、いずれ魔術師も含めてみんなが私を信頼してくれるようになる。あいつに任せておけば安心だって思ってもらえるようになれば、この国は聖女を中心として一つになれる」
つまるところ、聖法官側の態度を改めた上で、現状の方針を強化するというところだろうか。現状が聖法協会という組織が魔術師他一般市民を従えるという構造なら、ハルの理想は聖女が聖法協会という組織を含む、すべての国民の上に立つというものといえよう。
カソルにはその是非や成否は想像も及ばない。ただ、ハルが生半可ではない覚悟と熱意を持ってそれを口にしていることだけはわかった。
「……それが君の、理想を追及する理由?」
「そうね……」
カソルの言葉を認めてから、何かを迷うように言葉を濁す。
「ここからは勝手にしゃべる独り言みたいなものだから、寝てくれてもいいわ」
「ぐー」
「怒るわよ」
「寝てもいいって」
「寝たふりしろとは言ってない」
「ごめんなさい」
「はあ……。あんたの前でシリアスに話をするのは至難の業ね」
ハルは苦笑気味に鼻を鳴らしてカソルと反対方向へと寝返りを打った。
「私の母は聖法官の名門中の名門の出なんだけど、その家は筋金入りの魔術師嫌いでね、もう本当、呆れるくらいなのよ。私の髪、癖毛でうねうねしちゃうんだけど、あの家が言うにはそれは先祖が魔術師に受けた呪いのせいなんだって。本当かどうか知らないけど、少なくとも昔から魔術師との関係が悪かったっていうのは間違いないわね」
「強固な呪いにしては効果がちゃちだね」
カソルが笑うとハルは小さなため息をついた。
「私としてはかなり迷惑してるし、本当に呪いなら解きたいところなんだけど。それでそんな家に生まれたっていうのに、母ったら魔術師を好きになっちゃったのよ。結局はその魔術師っていうのが私の父になるわけなんだけど……」
「そう簡単にはいかなかっただろうね」
「当然激しい反対にあって、でもいつまでも突っぱねてたら最終的には勘当されたって」
「そういうものなんだね」
「そういえばちょっとあんたに似てるかも。地位なんてどうでもよかったからむしろせいせいした、って母は笑ってたわ」
そう言ってハルも愉快げな笑い声を漏らした。それでカソルはふと思い出す。
「そういえばルベルテインがなんか言ってたね」
「そう、ルベルテイン。それが母の実家の名前よ。あの人は母の姉の娘。私の従姉に当たるわ。家の連中ったら、私の才能を知った途端目の色変えて擦り寄ってきたのよ。望むなら本家の養子にしてやってもいい、ですって」
「それは大変名誉な申し出だね」
「まったくよ。満面の笑みで、おととい来なさいって言って差し上げたわ」
静かな夜半の部屋に二人分の忍び笑いがこだまする。
「私、両親のことが大好きなの。父と母みたいな人たちが最初から最後まで幸せに生きられる国であってほしいって思うし、聖法官と魔術師のいがみ合いもなくしたい」
ハルはもう一度寝返りを打ち、今度はカソルの方を向いた。
「たったそれだけの個人的な理由よ。私が頑張る理由なんて、そんなものだから」
ハルの穏やかながら力強い言葉は部屋を満たす夜闇に飲まれず、ただ染み渡るようにカソルの耳朶に届いた。
「うん、いいと思う。きっと、そういうのが一番強いよ」
カソルに実感はない。ただなんとなく、自らの心に根差さず宙に浮いた大義の大輪よりも、胸の奥深くに固く根を張った雑草の咲かせる花の方が強く色鮮やかな気がした。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
文化や流儀の違いに途方に暮れることはあるが、この学院に、ハルと一緒に来ることができてよかった。カソルは心の底からそう思いながら、ゆっくりとまぶたを閉じた。
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