3 少女は歌う

「助けて頂いて、本当にありがとうございます……!」


 深い海の底ような藍色の髪がふわりと宙を舞う。

 ――繁華街、「人魚の通り道」に軒を構える食堂、「三枚の貝殻亭」の外。

 騒ぎを聞きつけて飛び出したその場所では叫び声の通り、人攫いと思しき人物たちが一人の少女に猿轡さるぐつわをし、両手を縛って肩に担いで今まさに誘拐しようとしていたところだった。

 人通りの多いこの通りであれば、ターゲットが声を上げて助けさえ求めなければ逆に露見しづらいだろうという判断だったのかもしれない。だが、少女が背後から猿轡をされるところを偶然見ていた露天商が助けを求めたようだ。人攫いたちからすれば運が悪く、こちらにとっては運が良かった。

 私が真っ先に、身体強化の魔法を用いて人攫いの肩から少女を救い出し、その後ものの十数秒で、人攫いたちはセニスによって制圧された。

 彼らは全員気を失って路上に倒れていて、今はセニスが一人ずつ手首を縄で縛っている段階だ。

 そして、私が救出した少女は猿轡を外した途端、目の前で頭を下げた。


「私、マリーって言います。お二人ともお強いんですね!」

「お怪我はなかったですか?」

「はいっ! お気遣いありがとうございます……!」


 元気がよくて、とても気持ちのいい少女だ。

 そして何より――


「えっと、私の顔に何かついてますか?」

「ああ、いえ。失礼しました」


 驚くほどに、美しい。

 確かに、多少のリスクを冒してでも確保を強行した人攫いたちの気持ちも、許容はできないが理解はできる。

 少女――マリーの美貌は、どんな宝よりも価値があると言っても決して言い過ぎではないだろう。

 可愛らしいとか美人だとかそういう次元にすらなく、何か美術品を見ているような感覚にさえ陥る。


(王女を超える美しさを持つ人なんていないと思っていたけど、この人の美しさは王女のそれに匹敵しうるかも――)


 美しさの方向性は違うからはっきりとは比べられないけれど、もし総合的な美しさを数値化できるなら、王女とこの少女の美しさはきっといい勝負になるだろう。


(しかし、こんなにも美しい人物がいるなら、もっと話題になっていても――)


 そんな疑問に意識を巡らせていた、その時。


「おいまてっ!」


 ――セニスの声。

 人攫いのメンバーのうち、最初に手首を縛られた男が意識を取り戻し一瞬の隙をついて逃亡したのだ。

 人攫いだけあり足には自信があったのだろう。さらには、恐らく何らかの魔法でその脚力を底上げしているらしい。男は一瞬のうちにかなりの距離を駆けていた。

 セニスは後を追おうとしたが、流石に距離を空けられすぎた。捕らえることは難しいかもしれない。

 しかし追わないわけにもいいかず、彼は「ちっ」と舌打ちして立ち上がり、瞬間――


 辺りに〈歌〉が響いた。


 私たちの用いる、大陸共通語ではない。

 聞いたことのない不思議な響きの言語だ。というか、言語なのかどうかすらも分からない。

 しかし一つだけ言えるのは、その歌が抗いがたい魅力を持っているということ。信じられないほどに清らかで、美しい。聴く者の心を一瞬で虜にする力があった。

 そしてそれを歌っているのは、私の目の前の少女マリーだった。


(これは一体……。この状況で、いきなり歌が歌いたくなったから歌った、なんてことは流石にないよね……)


 その疑問の答えは、すぐにもたらされた。


「なっ!?」

「男が――」


 思わず声を上げてしまう。

 セニスも、その光景を見て呆然と立ち尽くしている。


 逃走した、人攫いのメンバーの一人。

 あのまま逃げ続ければ、十中八九逃げ延びることができたはずの男。

 しかしその男が、あろうことか逃走をやめてこちらに歩いてきていた。

 その足取りはどこか覚束おぼつかず、まるで何かに操られているようで……


(いや、彼は実際に、操られているんだ)


 誰に? 決まっている。

 私の目の前で不思議な歌を歌う少女、マリーによって。それしか考えられない。


 男はゆっくりと、しかし確実にこちらに歩み寄ってきて、ついにはセニスの目の前に膝を折って座ってしまった。

 そして、マリーの歌が止む。すると——男は我に返ったように身を震わせた。


「……っはぁ、はぁ……。な、なんだったんだ、今のは!? いきなり身体の自由が効かなくなって――」


 困惑に喘ぐ男と、セニスの目が合う。

 自身の目の前にいるセニスに、男は恐怖に表情を歪めて――

 にっこりと笑うセニス。

 今度こそしばらくは目を覚ませないであろう強さの手刀を入れられて、男はその場にくずおれた。



 兵士が到着する前に、少女は「この後約束があるので、すみませんが失礼します。助けて頂いて本当にありがとうございました!」と言って足早に去っていった。

 散策した際の記憶が正しければ、去っていった先の路地は水路に突き当たるだけ。つまり行き止まりだったはずだが……しばらくしても戻ってくる様子はない。道を間違えたのだろうかと思ったが、そういうことではないらしい。


(ということは、やっぱり……)


 人間離れした美しい容姿。

 人を操る歌。

 水路へと続く路地。

 そして、その美貌が街で噂にならない理由……。

 それらが意味するのは――


「もしかして……〈人魚〉……?」


 私の呟きが聞こえたのだろう。セニスは目を丸くして、彼女の去っていった通路をしばらく見つめていた。



 * * *



 日も落ちてきて、皆家路についているのだろう。先ほどまでは人を縫って歩かなければならなかった通りの雑踏が今はまばらになってきている。

 私たちも例に漏れず、ヴィスタリア公爵の邸宅への帰路についていた。

 人攫いたちは兵士に引渡し済みだ。


「人魚、か」


 セニスの呟きが、夕日が差し込んで赤く染まる水路に吸い込まれていく。


 ――人魚。

 女性にのみ先天的に発現する、亜人に分類される特異体質の一種。その名の通り、人間でありながら魚の能力も持ち合わせる存在だ。

 昔語りの内容が正しいのであれば、午前は下半身が魚の半人半魚に。午後は人間と変わらない姿になるらしい。


「昔は、地上でも普通に暮らしていたって聞くけどな……」

「ええ。でも今は、どこかの海の底に人魚たちだけの都を築いて、そこで暮らしているって噂ですね。本当かどうかはわかりませんが」


 そう。この通りの名前が「人魚の通り道」であるように、かつて人魚は地上でも暮らしていた。

 当然だ。人の営みは地上にしかないのだから。

 しかし、地上世界で亜人差別の意思が広がっていくにつれて、彼女たちは徐々に地上から姿を消していった。

 地上で暮らしてはいたが、彼女たちは水中で生きることもできる。

 亜人が地上で生きづらくなった以上、彼女らに地上で生活する理由はなくなったのだ。いや、水中での暮らしを余儀なくされた、というべきか。

 彼女らがその後どういった生活を送っているのかは定かではないが、聞くところによると彼女らは、世界の海に人魚の楽園とも呼ぶべきいくつかのささやかな海底都市を作り上げ、そこでひっそりと暮らしているのだという。


「そんな人魚が、どうしてまた地上にいたんだ?」

「さぁ……」


 理由は、わからない。

 まあ、人魚の全てが海底都市で暮らしているというわけでもないだろうから、彼女はその数少ない例外というだけなのかもしれない。


「人魚は漏れなく絶世の美女で、男を歌で操ることができる――か。確かに、そんな御伽噺を聞いたことはあるが」

「ですね……。まさか、本当のことだったとは」


 人魚が地上で暮らしていたのは、もはや数百年も昔の話だ。

 その間に人魚に関する情報は失われ、残存するのは昔語りにのぼる数少ない情報だけ。

 極まれに、船乗りや商人が人魚をみたとか人魚と取引したとかいう話を耳にすることもあるが、そのどれもが眉唾物で信憑性にかける話ばかりだった。

 唯一、人魚に関する話で一般的にも広く知られ最も有名なのが、「人魚の作る真珠の指輪を付ける夫婦は、永遠の愛を約束される」という迷信だ。

 どこかの商人が「人魚の指輪」として売り出した真珠の指輪が、その手の商品に目がない層に大当たりして以来、その価値を高めるための戦略の一環として作為的に広められた信憑性もなにもない噂であるとか、はたまた、実際に人魚に作って貰った指輪をした夫婦が実体験をもとに語ったことだとも言われている。


(指輪……結婚……。私もいつか、誰かと結婚したりするのかな……)


 ぼうっと考えていると、不意に右の二の腕をつかまれ、引っ張られた。


「おい、落ちるぞ」


 セニスが私の腕を引いたのだ。相変わらず、その小さな体には似つかわしくない力で。

 見れば、進行方向では水路がその向きを変えていた。確かにこのまま進むと落ちてしまっていたかも……。


「あ、ありがとうございます」

「何をぼうっとしてるんだ」

「い、いえ、別に……」


 不甲斐ないところを見せてしまったせいだろうか。顔がちょっと熱い。でも、少しは心配してくれたのだろうかと思うと、さらに顔が熱く……あれ? いやいや。


「珍しい亜人が見られて浮かれでもしたか? とにかく、気をつけろよ。びしょ濡れになったお前を引っ張りあげるのはごめんだ」


 ああ、はい。なるほど。


「で、ですよねー。あはは。気をつけます」


 そうだね。その通りなので、気をつけるとしよう。

 なんとなくむかっとして、その後少し残念な気持ちになったのは、彼の物言いがあまりに雑だったからだろう。


「……ふん!」

「なんだ?」

「ナンデモナイデスー」


 ……それ以外に意味なんて、きっとありはしないのだ。

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