〈第二章〉人魚の歌声
◆問題編◆
1 薄暗い路地
どこかで、誰かが歌っていた。
それはまるで、賛美歌のようでも、あるいは
失われた魂たちは、その歌によって慰められたのか。
あるいは、その歌によってこそ失われたのか。
侯爵とその花嫁候補のうちの二人は一体、誰に、どうやって殺されたのか。
そしてその問いの答えに、探偵は果たして、たどり着くことができるのか……。
彼らの死体を前に、ある者は咽び泣き、ある者は
血溜まりの上で、死体は一様に、薬指を切り落とされ、首を吊られていた。
誰かの叫びに、赤い水面が小さく波打っていた――。
* * *
羊皮紙に、手を
すると手元で、仄かな
「すごい、これが……」
その様子を見ていた兵士たちは一様に、驚きに目を見開いていた。
――薄暗い路地の奥の奥。
どこからか漂う生臭い臭いや刺激臭に自然と表情が歪む、ゴミの掃き溜めのような場所。
そこで私は、自身の右目に宿る特異体質――、〈真実の眼〉を使っていた。
後ろには、メイド――の格好をした助手のセニスが控えていて、恐らくは私などよりも苦しい表情に顔をゆがめながら、何度目とも知れない悪態を
「ったく、ほんとになんつーところに隠れてやがったんだこのクソ野郎……! ――イマジカ嬢、さっさと終わらせて出よう」
彼は狼男であり、その副次的作用として通常の人間よりも鼻が利くらしい。感覚的には、通常の人間の十倍程度だという。
(……それは、とんでもなく辛いだろうなぁ)
とは思うものの、何か言葉を発するとどうしても鼻でも空気を吸い込んでしまうので、
「そうしましょう」
彼への同情は心の中だけに
すると手元ではそれに呼応するように、無秩序に浮かび上がった文字たちが徐々にその数を減らし、意味を成していって――
最終的に残ったのは、今私が右目で捉えていた手鏡に宿る、「呪い」の効果だった。
++++++++++++++++++
〈
正当な所有者が手に持ったとき、
所有者の前に手にしていた人物の現在の視界を映し、
その人物の聞いている音を流す。
++++++++++++++++++
「――うん。紛うことなき
私が目を向けると、セニスの後ろで両手を縛られ兵士に捕縛された初老の男――、呪術師ヴェンディは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
――私たちは、ここ、ヴィスタリア公爵領に属する都市「フィンラム」で、公爵の私兵団による、ある人物の捕縛任務に
ターゲットは、呪術師ヴェンディ。
ヴェンディは最近この都市を本拠地に活動を始めた呪術師らしく、作成や所持を法で禁じられている
そして、私兵団が多大な労力を割いた捜索の結果、ようやくその潜伏先を見つけ出した。だが、恐らくは彼が所持しているであろう数々の呪具について、その効果を知ることのできる人間がいなければその取り扱いに困る可能性があるということで、〈真実の眼〉を持つ私と、その助手であるセニスが呼ばれたのだ。
「――無いようですね。では、違法呪具所持の現行犯ということでいいでしょう。……もちろん、この呪いの
私がそう結論付けると、ヴェンディを捕縛している兵士が頷く。
「さあ立て。このまま、お前をバンディン監獄に収監する」
それを聞いた途端、私たちを睨めつけていたヴェンディの表情が、一気に恐怖に塗り換わった。
「バンディン監獄だと――!? それは……、それだけは許してくれ……!!」
近くの山間にあるバンディン監獄は百年以上の歴史を誇る年季の入った監獄だけど、増改築の結果、公爵領の中でも最も堅牢であり、最も獄中の生活が苦しいとされる監獄となっている。
そこでの生活を想像し、ようやく自身のおかれた状況を理解したのだろう。
なおも必死に哀願しているけど、兵士は取り合わない。当然だ。
「だめだ。お前が作って売った呪具で、どれだけの人間が苦しんだと思っている……!」
その種類や効果がある程度体系的に整理されている魔法や
そのため、呪具によって引き起こされる犯罪は、魔法具によるものよりも立証が
「もちろん、全ての呪具が悪用されるわけじゃない。……でもそれは、この地の領主である公爵の許可のもと、その管理下で慎重に取り扱われるべきものなのです。あなたは、犯罪の種となり得る道具を私欲のために、全てを分かったうえで違法に売り裁いた。……犯した罪に対する代償は支払わなければなりません」
私が言うと、ヴェンディは目を見開いて、がっくりと肩を落とし……、力なく俯いた。
自らの罪を認め、ようやく諦めたのだろう。
……と、そう思った矢先。「であれば」と声がして――、
「――貴様らにはやはり、死んでもらうことにしよう」
突如ヴェンディが顔を跳ね上げて叫んだ。
その表情は、捕えられている者が到底浮かべられるようなものではない、醜い笑みだった。
「……
(まずい――ッ!?)
――途端、その口の中から、何かが伸びた。
黒光りし、無数の棘のようなものを纏った、細い鎧のような……それはまるで、大きな蠍のような姿で――
(……まさか、〈
そう、確かあれは、王国で定期的に行われている呪いに関する報告会で名前の挙がった、
普段は小さな蠍の姿をした舌ピアスだが、使用者が命じるとその姿を何倍にも大きくして、鎌状になったその体で対象を切り裂く、伸縮自在の極めて攻撃的な恐ろしい呪具だと、報告を挙げた者は言っていた。
――予想通り、蠍鎌が急速に巨大化しつつ、後ろの兵士に迫った。
「避けてっ……!」
叫ぶが、きっと間に合わない。
兵士は私の声で、ようやくその存在を視認した様子だ。
反応が遅れたせいで、私もまだ短剣を抜くことさえできていない。
……彼に蠍鎌が迫るその光景が過緊張によって引き伸ばされ、ゆっくりと流れていく。
一瞬後には、兵士の首は血飛沫と共に宙を舞っているだろう。
そうなる未来を幻視して、目を瞑りかけたその時――
「――っと、あぶねっ」
「なっ――なにィ!?」
誰かの声と、一瞬遅れて甲高い音。そしてヴェンディの叫び。
閉じかけた目を再び開けば、兵士と蠍鎌の間に、いつの間にか誰かが割って入っていた。
(せ、セニス君――!!)
彼は、その小さな体のどこにそんな力があるのかと思うほどの膂力を発揮して、中指と親指だけで、蠍鎌の刃を軽々と挟んでいた。
つまり、蠍鎌の横薙ぎの一閃を、止めていた――!
――セニスの外見は、どこからどう見てもメイド服を着た小柄な女性。何も知らない誰かが見たら、セニスのことはただの私の侍従だと思うに違いない。事実、予想もしない
(――この隙を、逃すわけにはいかない)
私は抜きかけだった短剣をそのまま引き抜いて両手で握り、ヴェンディの口から首をもたげる形になって徐々に巨大化しながら伸びている蠍鎌の根元付近を――
「はあッッ――!」
渾身の力を以て、切り落とした。
「――づぅああああああああぁぁぁぁぁぁ!? 舌が!? 俺の舌がぁぁぁ!?」
路地に、ヴェンディの叫び声と切り離された蠍鎌が地面に落ちるが轟く。
別に舌は切っていないんだけど、どうやら蠍鎌とは痛覚を共有していたらしい。
……切り離された蠍鎌に、動く気配はない。
切断によって、その力は失われたようだった。
「……ふぅ。ありがとうございます、セニス君」
「別に。これが俺の仕事だ」
「――いてえ、いてえよぉおお!!」
なおも叫び続けるヴェンディに、「うるせぇな」とセニスが鋭い目を向ける。
「ひっ――!」
それだけで、あの呪術師が痛みを堪えて口を押える。よほどセニスが恐ろしいのだろう。
……流石に、いたたまれなくなってきた。
「……なんか、すみません」
「とりあえず、今ので罪状に殺人未遂も追加だな」言いつつ、蠍鎌の頭部を踏み砕くセニス。
周囲からは、「す、すっげぇ……」と一歩も動けなかった兵士たちが口々に呟く声が聞こえる。
ヴェンディは口を押えながら、「一体、なんなんだお前たちは……」とその場に
――本来ならば別にそんな義理はないが、相手が誰であろうと、訊ねられたからには、答えなければならない。
それこそが、私の立場に相応しい振る舞いだから。
「私は、王女の探偵、イマジカ・アウフヘーベンです。そしてこちらが――」
「その助手、狼男のセニス・インベントだ。……まあ、とりあえず――」
セニスは長いメイド服の
「――これからは、喧嘩の相手はしっかり選んだ方がいいぞ」
呆気にとられる呪術師の気持ちはよく分かる。
(……いや、その見た目で言われても……)
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