6 誰かの歌声

 ――歌だ。


 微かに届く誰かの歌声で、目が覚める。

 どこかで、誰かが歌っている。

 女性の、澄んだソプラノだ。

 賛美歌のようでも鎮魂歌レクイエムのようでもある、どこかで聞き覚えのあるような、不思議な歌。


(誰だろう――)


 寝ぼけ眼をこすって上体を起こすと、まるで私が目覚めるのを待っていたかのように、その歌は止んでしまった。


「あ……」


 もう少し、聴いていたかったのに。

 伸びをしてベッドから降り、カーテンを開ける。

 まだ、日は昇り始めたばかりだった。

 朝日に照らされ、遠く稜線が浮かび上がっている。

 初夏の頃とはいえ、この時間はまだ少し肌寒い。


(朝の祈りの歌だったのかな)


 それにしても、少し早い気はするけれど。

 とはいえ、悪い目覚めではない。

 目覚めて一番に耳に入る音の中では、限りなく上等な部類だ。


(もう一眠りも捨てがたいけど、せっかくの素敵な寝覚めが勿体無いし――)


 体でも動かそう。

 そう思った矢先、部屋にノックの音がする。


「俺だ。起きてるか」


 セニスだ。


「はい。少し前に。――どうぞ、入ってください」

 

 返すと、ドアが開いて、セニスがいつもの裾の長い使用人メイド服姿で入ってきた。

 そして――


「その……おまえは、それでいいのか?」


 開口一番、そんなことを言った。


「え?」

「お前は、そのままでいいのかって訊いてるんだ」


 まったく話が読めない。

 セニスは、まるで目を合わせたくないかのように、こちらをまっすぐに見てくれない。

 な、なんでいきなりそんな態度取られてるの、私。


「えっと……」


 このままでいいのかと問われれば、別に現状に満足しているわけではない。

 そのために、他ならぬセニスにも毎晩特訓に付き合ってもらっているわけだし……。


「わ、私は、常に成長できるように、私なりに頑張っているつもり……ですが……」


 私の答えに、セニスは怪訝そうに眉を潜めて――、


「いや、そういことじゃなくて……お前の、その格好だよ!」


 横を向いて、私の身体を指差した。

 彼の指し示す先――つまり自分の身体を見下ろし……

 見下ろして……


「……い……」


 ――寝る前、ベッドを汚さないように服を脱ぎ、下着姿でガウンに着替えて、起きてから着替えてはいない。

 寝ている間にガウンは当然着崩れて、今や、前を留めるトグルの一つが辛うじて引っかかっているような状態だ。

 要するに――


「いやあああああああ!? ちょ、ちょっと!! はやく出てってくださいよ!?」

「いや、だからちゃんとノックしただろ!?」

「私が悪いのはわかってますから! いいから! はやく!!」


 素敵な寝覚めの余韻は、一気に吹き飛んだ。



 * * *



 暫く部屋の外で待ち、ようやく小声であの女イマジカから許可が出て、もう一度部屋に入ると、「フーッ、フーッ」という猫科の動物みたいな表情で威嚇された。


(いや、だから俺のせいじゃないだろ……)


 と口に出してもいいことはないといい加減学んでいるので、「悪かったな」とだけ言って中へと進む。

 見れば、イマジカはいつもどおりの服装に身を包んでいる。


「思い出したら殴ります」


 物騒だな……。

 まあ、早いところいつもの調子に戻ってもらったほうがやりやすい。


「お前の貧相な身体を誰が思い出すって?」

「なあっ!?」

「まあ、そんなことはどうでもいい。それより――」

「どうでもよくないでしょう!」

「――それより。さっきから、外が騒がしいんだ」

「えっ……?」


 ようやく、怒り状態から脱したようだ。

 

「……何も聞こえませんが?」

「俺は狼男だからな。普通の人間より、耳もいいんだよ」

「はぁ。……便利なものですね」

「まあな」


 便利というのは皮肉のつもりだったのかもしれないが、華麗にスルーだ。

 いちいち相手にしているときりがないし、今はそんな時間もないかもしれない。


「とにかく、ちょっと様子を見に行ってみないか。……なんとなく、嫌な予感がするんだ」

「嫌な予感、ですか」

「予感というか……聞こえたんだよ。私兵団たちだと思うんだが、見張りがどうしたとか、旗が揚がったとか。それに――血がどうとか」



 * * *



「外ですか?」


 そうだ。声は、外からした。そして正門の前には、まだ新しい足跡がある。

 どうやら、兵士たちは正門から館の中へは入らず、迂回して館の側面へと向かったようだ。


「ああ。こっちだ」


 館の側面、その奥。

 そこには小屋程度の小さな建物があって、外には何人かの兵士の姿があった。

 その近くには荷車が置いてあり、その上から、おびただしい量の血が流れている。


(風上で助かったな……)


 風下であれば、血の臭いに顔をしかめることになっていただろう。

 俺たちは、兵士のもとへと駆け寄った。


「探偵の、イマジカです。何があったんですか?」


 イマジカが、相手の言葉を待つよりも早く問う。

 兵士は三人いた。彼らは顔を一度見合わせて、「この人たちなら」と言ってこちらに向く。


「それが……」


 それから続いた兵士の話をまとめると、こうなる。

 ここは館の地下へと繋がる唯一の階段で、平時は二人の兵士が入り口を見張っている。だが今、兵士は彼――今朝の見張りの一人だったランドを含め三名いる。

 今朝のもう一人の見張りはアダムといい、アダムは今地下にいるとのことだ。

 二人が見張りを交代してすぐ、荷車に載せている魔法具〈血の報せ〉の五つの杯の内の一つから血が溢れ出し、二人が応援を呼ぶために旗をあげたりしている間に、貴族令嬢の一人であるメリッサが「隣の部屋から叫び声がした」と言って階段を駆け上がってきた。

 そしてその時、更にもう一つの杯からも血が溢れ出し、もはや一刻の猶予もないと判断したアダムは、ランドを残し地下へと降りていった——

 ということらしい。


「メリッサさんはどこに?」


 イマジカが問うと、ランドが沈痛な面持ちで答える。


「『ディーン様には私が報せます』といって、アダムの後を追って降りていってしまいました……」


 なんだか次々に話が進んでいくが、それよりも……。


「すまない。まず、〈血の報せ〉ってなんだ?」


 口を挟むべきか迷ったが、その魔法具がどんなものか知らないと、何が起きているのか理解が追いつかない気がしたのだ。

 俺の問いに、イマジカが答える。


「〈血の報せ〉は、一対の報せの指輪と報せの杯からなる魔法具です。指輪を嵌めた人物と杯がリンクし、指輪を嵌めた人物が血を流すと、それと同量の血が杯に湧き出てくるのです。……これは、離れたところにいる誰かの身に迫った危険をいち早く把握するために用いられる魔法具ですが……」


 なるほど……。


「この量の血じゃあ、もう……」

「ええ……。もう命はないと思ったほうがいいでしょう」

(くそっ……)


 まさか昨日の予言が、こんな最悪の形で外れてしまうとは。


「――それで、今しがた館の隣にある宿舎から応援の兵たちが到着しまして、兵士長は私たち三名をここの見張りに残して、あとは全員、地下へ降りました。でも……」


 ランドが言葉を継げないでいると、イマジカがランドに問いかけた。


「ランドさん……先ほどの話では、血が溢れ出したのは二つの杯からだったはず。ここには、五つの杯があります。恐らく、地下にいる侯爵と、四人の花嫁候補たちのものでしょう。そして……今血が溢れているのは、三つです。……一番左の杯は、誰の杯なのですか? もしかして、これは……」


 ランドは唇を噛んで、こぶしを握り締める。

 他の二人の兵士も同様だ。

 そして、ランドがゆっくりと口を開いた。


「……そうです。それは、ディーン侯爵の指輪に対応する杯です」


 なっ……!?

 つまり、ディーン侯爵は、もう……。


「兵士長たちが階段を下りて行ってすぐのことです。不思議な歌が聞こえたと思ったら、侯爵の杯から血が……」

「不思議な歌というのは、共通語ではない言葉の、ソプラノの女性の歌ですね」

「え、ええ、そのとおりです」

「セニスさんも、きこえましたか?」


 そうだ、確かにイマジカの部屋に向かう途中、そんな歌が聞こえた。


「ああ、多分、十五秒くらい聞こえたな」


 そしてあれは確か……。


「あれは多分、昨日の――」


 言いかけたところで、階段から足跡が響いてきた。

 俺たちは揃って、開け放たれた扉の先にある階段を見る。そして、


 「えっ……」


 イマジカが、小さく声をあげた。


 ――階段を上がってきたのは、大勢の兵士たち。

 そして、その兵士たちに捕らえられた女性。


「マリー……さん……?」


 それは、昨日出会った人魚の亜人――マリーだった。

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