12 その日の朝
『ねえ、あなた。私の、探偵になってくれないかしら?』
その言葉が、蝋燭の火が幽かに揺らめく薄暗闇の中に響く。
これは、私の人生を決定づけた、あの日の一幕……。もう随分昔の……つまり、夢だ。
どうして今更こんな夢を……? まあ、今はもう少し、このまま寝ていたい気分だ。
王女に声をかけられているのは、幼い頃の私。それを私は、俯瞰している。
……あの時私は、なんと返したのだっただろうか。
確か——
『あなたの、タンテイ……? それって、なんですか?』
そうだ。初めて聞いたその探偵という言葉に、私は戸惑うだけだった。その言葉の意味を問い、そして彼女はこう言ったのだ。
『そうね。……探偵は、真実を明らかにする存在。そして、私はこの国の王女。だからあなたは、私のために、私の求める真実を明らかにする、王女の探偵になるのよ。そうすればきっと——』
——あなたも、あなたの目的を果たすことができるから。
王女は、この国における犯罪捜査の歪みを正したい。
私は、この国で理不尽な扱いを受ける人々を救いたい。
私たちの利害関係は、確かに一致しているように感じられた。であれば、返す言葉は決まっていた。そもそも、彼女の放つ魅力に逆らうことのできるような克己心を、私は持ち合わせていなかった。
衰弱によって掠れていたはずの喉は、なぜかその一言だけは、明朗に音を発した。
「喜んで、お仕えします」
あの時、私たち二人の目的の呼応関係は、確かに成立していたと思う。
でも、今は……
* * *
寒い。それに、冷たい。
手首と……それに足首も。
固い床。埃っぽくて、少し錆びた鉄の匂い。
……ここはどこだろう。
確か私は、使用人の女性――そう、アイラさんと廊下で会って、彼女の持つ氷のヘリオトロープの甘い香りに眠気を誘われ眠りに落ちた。
霞む視界を鮮明にしようと手を目に伸ばそうとするが、手は動いてくれない。いや、厳密には、動かすことができない。何かで固定されている。足もそうだ。
これは、枷。だから冷たい。
どうしてだろう。私は、この感覚を知っている。
いや……そうだ。私は幼いころ、しばらくの間、確かに今と同じ状況にあった。
――あの日、王女が私を迎えに来てくれるまで、私はここに似た場所に囚われていた。
(だから、あんな夢を……)
不意に、首を誰かに掴まれる。その固い体毛が私の肌を刺す。
頭を持ち上げられて、何かを首に嵌められる。そして、錠がなされた。
「――これでいいんだな?」
頭を持ち上げられて、視界がようやく戻ってくる。
「そうです」
そこにいたのは、
「私も、そこのアイラも、力仕事には向いていないので。――あなたがいてくれて助かりました」
呪術師、アイラさん、そして――
「どうして……あなたがここに……?」
「おっと、丁度お目覚めのようだぜ」
そこは、小さな石造りの牢だった。
鉄格子を挟んで、呪術師がせむし気味に、枯れ木のように立っている。
その後ろには、アイラさんがいた。顔は床に向けられていて、表情は読めない。
さらにその後ろには上り階段。そうだ、一階を見て回った時、地下へと続く階段を確かに見た。ここは、館の地下なのだろう。
そして私の目の前には――、三メートルはあるだろう巨躯。全身、固い毛に覆われている。その相貌は、人間のものではない。
そこには、狼男がいた。
その額には、わずかに血が滲んでいる浅い裂傷。
……つまり、その狼男はあの時の狼男であり、それは彼が、「王族殺し」の真犯人であることを意味していた。
「まあ、偶然だな。偶然、俺たちは同じ時期に、この宿に居合わせたってことだ」
「それは……最高に素敵な偶然ですね」
私は皮肉を込めてそう言ったけれど、呪術師は口元を不敵な笑みに歪ませる。
「本当に、色々な意味で素敵な偶然だ。そもそも、もし今日来られたのがどちらかだけだった場合、私はどちらも宿の中には入れなかったでしょうしね。――私とて、そう簡単に殺されるわけにはいかない」
どういうことだろう……。
先刻彼が言った通り、呪術師もアイラさんも、私を楽に運ぶことのできるような体格はしていない。私を運ぶには狼男の協力が必要だった。それはまあ、なんとなく理解できる。それだって幾らでもやりようはあると思うんだけど……。まあ、まだ説明もつく。
だが、どうして狼男だけだった場合も、彼は狼男を泊めることができないのだろう。
そもそも、私が彼を殺す? そんなことをして、呪いを解くことができなくなってはもともこもない。
長い歴史の中で、多くの人が、呪術師によって呪いをかけられてきた。当然、呪いにかけられた誰かを助けるため、その家族や親友たち、また彼らから依頼を受けた誰かが多くの呪術師を殺してもきた。
しかし、彼らはその後、皆一様に、後悔することになった。
なぜか。
呪いが、解けなかったからだ。
彼らは呪いを解こうと呪術師を殺したが、逆に、唯一解呪が可能な存在である呪術師が死に、その誰かが死ぬまで、その呪いを解くことがかなわなくるだけだった。
これは、この国に昔から語り継がれる教訓。
そして私も、それを目にしたことがある。かつて私が関わった事件。その被害者は、呪術師だった。犯人の動機は、呪いをかけられた娘を助けるため。しかし結局彼らに訪れたのは、教訓の通りの結末。呪いは、解けなかった。
――そう。だから呪いは、呪術師を殺したって解けはしない。少なくとも一般的には、そう言われている。
だから、私には彼を殺す理由なんて――いや、理由はあっても、殺すことはできない、そのはずなのに……。
「おや……? あなたなら私の言葉の意味を理解できると思ったのですが……。いや、待て。まさか……」
私が考えを巡らせていると、呪術師が何やらぶつぶつと呟いたと思えば、狼男に命じた。
「その女の、胸元を見せてください」
……今、なんと言った?
「……確認するが、殺すんでも拷問するんでもなく、こいつの服ひん剥いて、胸元を見せてやりゃいいのか?」
「そう言っています」
「なっ――!?」
「へえ、アンタも意外と好きなんだねェ」
狼男が、私の外套の首元に爪を立てた。厚手の外套だし、中にだって相当着込んでいる。だが、それらはいずれも寒さを凌ぐためのものであり、それ以外を防ぐものではない。狼男のその屈強で鋭い爪の前には、あまりに心もとない。
「まあお前も、拷問よりはいいだろ?」
狼男の爪が、外套を切り裂く。
「――っ」
声を上げそうになるが、堪えろ。堪えて、考えろ。
私の身を包むものが、外套から下着まで全て、胸元まで引き裂かれる。
狼男が小さく口笛を吹いて、
「へえ、意外と、なくはないってところか」
などという。
そうだ。外側からは無いように見えるだけで、私にだって決してその女性の証がないわけではない。じゃなくて、考えろ。
だが、これを望んだ呪術師は、
「ない……」
と、悲痛な響きをもって小さくつぶやく。……これは一種の、精神的拷問の類ですか?
いや、流されるな。たぶん、彼が言っているのは胸の話しではない。胸が期待したよりもないというだけであそこまでの悲しみを感じられる人間である可能性だってなくはないが、きっと違う。
またなにやら呟いている。
「あの時、確かにこの顔を……私は確かに、お前に〈従順の呪い〉を……。しかし呪いの印が……であれば、私が呪いをかけたのは一体……そもそも、だとするとどうして王女はこの娘をここに……」
呪術師はしばらく考え込んで、
「まあ、今は考えても仕方ないでしょうね……。むしろ私としては、王族から更に金を巻き上げるいい交渉のカードを手に入れた、とでも考えておけばいい。……アイラ、お前は朝日が昇るまで、あの王族の狗がここから逃げないよう、見張っていなさい。……くれぐれも、逃がさないように」
そう言って、階段に向かって身をひるがえした。
「承知……しました」
アイラさんが、小さく首肯する。
「おい、俺は」
狼男が短く訊ねると、
「ああ、あなたは、もう部屋に戻っていいです。短剣に付与した裂傷の呪いは、約束通り明日解いて差し上げましょう。そうすれば、その額の傷も、普通の傷と同じく癒えるようになる」
呪術師はそう言い残して、その場を去っていった。
しかし、なるほど。狼男はここに、裂傷の呪いを解呪しに来た。だが、その呪いは、私の持つ短剣に付与された「裂傷の呪い」を解かなければ、解呪できない呪いだった。だから、今日この場に私が居合わせたことは確かに、彼らにとって素敵な偶然だったかもしれない。
でも結局、彼が狼男を一人で泊めることができない理由にはなっていない。
……狼男に殺されることを恐れている?
いや、彼だって間接的にではあるが額に呪いを受けている。そもそも彼の目的はどうやら、呪いを解くことらしい。そんな彼が、呪術師を殺せるはずがない。
だが、考えても答えは出ず、謎は深まっていくばかり。
であれば、一旦それは後回しだ。
「呪術師ってのは本当に勝手な奴ばっかりだ……」とぼやきながら、狼男もまたこの場から去ろうとしている。彼には、一つ問うておきたい。わたしは、去り際の彼の背中に声をかける。
「あなたはどうして、国王派に加担したんですか? あの夜のことは、あなたなりに国王派と王女派の正義を秤にかけての選択だったんですか?」
彼ほどの力があれば、国王派の依頼を撥ね付けてもよかったはずだ。だが、彼はあの夜、国王派の差し金で王女派の王族を殺して回った。そこには、彼なりの正義があったのだろうか。
私は、どうしてもそれを知りたかった。
もしあの夜の出来事が、国王派と王女派の正義、その二つを天秤にかけて下した決断だったのだとしたら、私に彼を咎める権利はない。
そこにあるのは、認識の相違。それだけだ。
私には国王派に正義があるとはとても思えないけれど、それは見方次第だ。国王派の行動だってもしかしたら、誰かにとっての正義となり得るのかもしれない。
だけど、もし、あの夜の彼の行動原理が、もっと浅い部分にあったとしたら……。
私は、彼を許すわけにはいかない。
どちらにしろ彼を捕らえることは必要だが、それに臨む際の、心の在り方が違ってくる。
そして、彼の答えは、私の望むものではなかった。
「いいや、俺にとっての正義は、どっちの方が金払いがいいか、それだけだよ。そもそもお前こそ、あんな王族たちに正義があると本気で思ってるのか?」
狼男は悪びれもせずそう言って、その巨体にはさぞ窮屈だったであろう地下牢を、ゆっくりと去っていった。
* * *
地下牢に残ったのは、私と、アイラさんだけ。
彼女は、スカートの裾をきゅっと摘まんで隅に立ち尽くしていた。
彼女は、私のことをここで見張るように、そして逃がさないようにとも命じられていた。
忠実に、その命に従っているのだろう。
「……あの、アイラさん。無理を承知で言うだけ言ってみるんですが……この枷を外してもらうことって、できないですよね……?」
私がそう声をかけても、彼女は小さく首を振って、「ごめんなさい」とつぶやくだけだった。ですよね。
「いいんです。ただ……その、せめてこの外套の切れている部分を結んでいただくことだけでも、できたりしませんかね……?」
私の言葉に少し警戒心をにじませつつも、彼女はゆっくりと私に近づいて、裂け目を結んでなんとか塞いでくれた。
まだ寒いけど、あけっぴろげよりは断然マシだ。
「ありがとうございます」
純粋な感謝だったのだけれど、彼女は悲し気に呟く。
「どうして、ですか」
「え?」
「どうしてこの状況で、感謝なんてできるのですか……? 私は、あなたをあんな風に罠に嵌めて、ここに捕えたのに」
どうやら彼女は、私を捕らえたことに罪悪感を覚えているらしい。……優しい人だ。
でも、その罪悪感は、無用のもの。だってこれはきっと、彼女の本意ではないから。
そもそもそうだとしたら、彼女が今こうして、私の頼みを聞き入れる道理などない。
「グラムル氏の指示だったんですよね? あなたは彼に、ツケがある。ツケの精算を終えるまでは、あなたは彼に逆らえない。きっと、そういう呪いをかけられているんですよね――?」
「――っ、でも――」
「そんなのただの言い訳にしかならない、なんて思っているなら、それこそ心外です。――少なくともわたしは、そんなことは思いません。……あの呪術師のことです。あなたが彼との契約を破って失うものは、あなたにとって、何よりも優先されるべきものなのでしょう。そういうものを、あなたは彼に握られているはずです。だから私は、あなたのことを憎むことはない。……誰にだって、優先すべきものは存在しますから」
呪術師は、アイラさんがまだツケを清算していないと言っていた。そのツケとやらが何かはあの場ではきくことができなかったが、彼女はそのツケの対価に、こうして呪術師に仕えている。
だけど、彼女は私を罠に嵌めたとき、「ごめんなさい」とそう言っていた。そして今も、自らの意思でこの役割を担っているようには見えない。
となればそのツケの精算に伴って、彼女と呪術師の間には何らかの契約が交わされ、その契約を裏切ることができないよう、なんらかの呪いをかけられている可能性が高い。
「そう、ですね。……ありがとうございます」
彼女は、少し笑ってくれた。そうだ、彼女は悪くない。
しかし、それが逆に、私の行動を縛ってもいる。
血縁の加護の魔法を使えば、この枷……を壊すことは叶わなくとも、これが取り付けられている壁を壊すことはできるかもしれない。
そうすれば、私はここから抜け出して、狼男と呪術師を追うことができる。
だが、王女の呪いを解かなければならない以上、私には呪術師を殺すことはできない。そうなれば、アイラさんはいずれ、呪術師から、私を逃がした責任を問われることになる。それは、出来るならば避けたい。だから少なくとも私は、この場にもう一度呪術師が現れるのをまって、その場で壁を壊して脱出しなければならない。そのタイミングであれば、責任は呪術師本人にあることになる。
逆に言えば、それまで私は、ここでじっと、その時を待たなければならない。
であれば、アイラさんと二人きり、ずっと黙っているというのもおかしな話だ。
「もしよければ、アイラさんがあの呪術師にどんなツケがあるのか、聞かせてもらえませんか」
もしそれを、彼から禁じられていないのならば。
「……私は……」
彼女は逡巡し、ふうと息をついて、私の隣に腰を下ろして続けた。
「私はかつて、奴隷でした」
彼女はそうして、自身の過去を、私に明かしてくれた。
彼女はかつて、奴隷だった。
彼女には母も、父もいない。
気付いた時にはもう、どこかの誰かの身の回りの世話をするために調教される、奴隷だったらしい。
毎日がただ、自分のためではなく誰かのために過ぎて行く。奴隷商の機嫌を損ねれば、魔法による拷問。彼女はひたすら、奴隷商の機嫌を損ねないことだけに必死にだった。
そんな生活に、希望などなかった。
しかしある時、彼女に転機が訪れる。
彼女がまだ、10歳くらいの頃だったそうだ。
彼女を調教する奴隷商のもとには他にも同じような境遇の子供が二人いて、彼女たちは調教の時間を除いて、隣り合う牢に、一人ずつ囚われていた。
ある日、一人の奴隷の少女が、調教の途中、拷問に耐えかねて息絶えた。
その翌日、いつもアイラの前に調教が行われる少年が、いつまでたっても戻ってこなかった。
いつもなら、とっくにアイラの番が来ているのに。
彼も死んだのだろうか。そんなことを考えていると、いつもよりもずいぶん遅れて、少年が戻ってきた。
虚ろな目をした彼は、手に、牢の錠を持っていた。
――理由は、きかなかったそうだ。
たぶん、彼が奴隷商から奪ったのだろうけど、奴隷商がどうなったのかは知らないらしい。
奴隷に腕輪がつけられるのは、10歳を迎えて、ある程度手首の太さが安定してからになる。そうしなければ、腕輪の大きさが測れないからだ。
アイラさんにはすでに腕輪はつけられていたが、少年はまだだった。
もしかするとその日は、彼に腕輪をつける日だったのかもしれない。
だとすると、彼が彼の力で奴隷商をどうにかできるのは、その日までだった。腕輪をつけられてしまえば、片手はほぼ使い物にならなくなる。そうなればもうほとんど、自らの力では逆らうことはできなくなる。
だから彼はその日、最後の機会に、奴隷商を殺そうとしたのかもしれない。前日の少女の死が、彼にその勇気を与えたのかもしれない。そしてそれは運良く、果たされたのかもしれない。
理由はどうあれ、彼女はその日、自由の身になった。
そう思った。
だが、違った。外に出ても彼女は、腕につけられた腕輪のせいで、どこへ行っても嫌煙される。果てには、彼女を捕らえようとする者までいた。
彼女は、その腕輪がある以上、本当の意味で自由になることも、ましてや普通の生活を送ることも叶わないのだと知った。
そんな時、彼女に声をかけたのが、呪術師グラムルだった。
彼はアイラさんに、こう声をかけたらしい。
『その呪いを解きたくはないかな?』
『……あなたは?』
『私は、呪術師だよ』
『じゃああなたが、この呪いを……?』
『いいや、違う。だが私は――』
――その呪いを解く方法を知っている。
彼女にとってそれは、救いだった。
彼女は、その誘いに乗った。
『私が君の呪いを解いたら、何があっても、契約者の命に従う。――これでいいかな?』
呪いが解けるなら、なんだってよかった。だから、彼女はその日、
『――はい』
契約を交わした――。
薄暗い、路地の奥。彼は、更にその奥へと彼女を案内した。
二人がたどり着いたのは、路地の最奥にある、掘立小屋。風雨にさらされボロボロになったその小屋には、一人の老人が住んでいた。
そこで、グラムルはアイラさんに短剣を手渡して言ったという。
『その老人を、殺しなさい。それが、君が呪いを解く方法だ』
アイラさんは拒んだが、それが呪いを解く方法だという。
老人は二人を認めると、何かを呟き始めたらしい。
だが、グラムルが『呪言か。――旧世代の呪術師は、やり方まで古くて見ていられないな』と手をかざした途端、その老人の首には黒い薔薇の紋様が浮かび上がり、声を出せなくなってしまった。
そればかりか、身体の自由さえきかない様子だったという。
『ここまで強力な呪いを使ってしまうと、相手が金を払うこともできなくなるからね。こういった場面でもないと、なかなか使う機会が無くて持て余していたんだ』
老人はそれでも、地面を這い蹲って、その場から逃げようとしていた。
『……さあ、彼はもう抵抗できない。今の君にも、簡単に殺すことができるだろう』
だがグラムルは、アイラさんに、その老人を殺すように迫った。
『なに。気に病むことは無い。その男が何をしたか知っているか? 彼は呪術師だ。君のその腕輪も、彼が呪いをかけたものなんだから』
その瞬間、アイラさんはこれまでに味わってきた苦しみを思い出した。
どうして自分があんな目に遭わなければならなかったのか。
拷問の中死んだ彼女は、何故あんな仕打ちの末死ななければならなかったのか。
あの少年は、あの少女を想っていたのではないか――。
気づけばアイラさんは、老人の背中に、短剣を突き立てていた。
痩せぎすで肉のほとんどない老人の背中には、アイラさんの力でも短剣は刺さった。浅くはない。だが決して、深くもない。
老人はしばらく苦しみに悶え、息絶えた。
老人の動きが止まり、荒い息が収まった。その瞬間、重い金属が地面に落ちる音が、路地に響き渡った。
――腕に嵌められていた束縛の腕輪が、外れたのだという。
『契約、成立だ』
同時に、アイラさんの胸元に、黒薔薇の紋様が浮かび上がった。
『君は私に、大きな借りができた。これからそのツケを、ゆっくり返してもらうとしよう』
グラムルの表情が、醜い笑みに歪む。そこで、アイラさんは思い出した。
グラムルは、契約に、期限を設けなかった。
呪術師は契約を尊ぶ。呪術師は、怪力乱神を語らない。その上で、相手を陥れる。そういう生き物だ。
その日からアイラさんは、呪術師グラムルに、その日のツケを、清算し続けている。
* * *
どれくらい、彼女の話をきいていたのだろう。
そして、その話から私は、どれくらいの間黙っていたのだろう。
彼女は、呪術師を殺した。
だが、呪術師を殺しても、呪いは解けないはずではなかったのか。
いや、そのはずだ。私が出会ったあの事件でも、呪いを受けた
だが、だったらどうして、彼女の呪いは解けたのか。
その両者の違いとは、なんだったのか――。
だが、その答えを待たず、私はその思考を一時放棄せざるをえなくなった。
地下牢に、誰かが駆け下りてくる。
「匂いを辿ってみれば、こんなところにいたのか……」
それは、グーダルク伯爵だった。
「ここは、ご主人様のお許しが無ければ立ち入りは禁じられています!」
恐らく辺境伯の身を案じてのことだろう、アイラさんが顔面を蒼白にしてそう叫ぶが、
「その許しも、もう必要なくなったさ」
そう言って、壁にかかった鍵束を使って、私の枷を外していく。
「ど、どういうことですか?」
アイラさんが訊ね、辺境伯が答える。
「この宿で、殺人が起きた」
その言葉に、私はひどく不吉な予感を覚えた。
「――誰が、殺されたんですか」
もちろん誰が殺されてもいいわけはない。だが、彼だけは……。
私の問いに、グーダルク辺境伯は枷を外す手を止めて、私の目を見て言った。
「呪術師が、殺された」
私が地下の階段を駆け上がり、二階へと向かう途中、正面玄関からは丁度、陽光が差し始めていた。夜が、明けはじめていた。私たちは気づけば、地下室で夜を明かしてしまっていたのだ。
エントランスの階段を駆け上がる。
長い廊下を走り抜けて、二階で最も広い部屋の前――。
私はその扉を、勢いよく開け放った。
呪術師の部屋へと入る。
そこには、呪術師グラムルがいた。
彼は、椅子に腰かけ、こちらを向いていた。
だが、その目は大きく見開かれ、口は何かを叫ぶように大きくあけられている。
その胸には、私たちが食事に使ったあのナイフが、深々と突き立てられていた。
「そんな……」
膝から力が抜ける。
雪と氷の町、クランブルク。
窓のない、呪術師の宿。
昨夜は寒さなど感じなかったのに、今朝はひどく寒い。
その日の朝――
呪術師は、死んでいた。
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