11 氷の花の香

 中庭には、氷のヘリオトロープが咲いていた。その輝きの中心に、彼女はいる。

 彼女の演奏いのりは、まだ中庭を満たし続けている。

 その曲は昼に聴いたものと同じだったけれど、その時とは何か、演奏に込められているものが違うように感じられた。

 私と辺境伯はただ、それに聴き入っていた。

 私はその間も辺境伯の言ったことを頭の隅で考えていたけれど、答えは見つからない。だが、あと少しという感覚は確かにある。一瞬掴みかけた真実を、先入観によって放棄した、そんな感覚。同時に、私が見落としている何か。その見落としとは何なのか。それが、もう少しで一つの結論へと結実しようとしている感覚。

 あと一歩……。

 そう思ったところで、彼女の奏でる旋律が、ゆっくりと収束していく。

 儚くも気高い、まるで何かを誓うような終奏。

 隠された真実を僅かに掴みかけた私の意識は、その見事な演奏によって上書きされてどこかへと行ってしまった。

 勿体ないが、このことについてはまたあとからゆっくり考えることにしよう。今は、彼女への賛辞が先。この感動を伝えないなんてことは、あり得ない。

 彼女の演奏が完全に終わった段で、特に示し合わせたわせではないけれど私と辺境伯は揃って拍手をしていた。

 その拍手の音を聞いて、彼女はやっと私たちの存在に気がついたようだ。彼女は弦を弾いていた手をぱっと後ろにやって恥じらいながら、ゆっくりと腰を折って見せた。

 そんな彼女に辺境伯は大きく頷いて、


「いやあ、素晴らしい演奏だったよ。ええと、名前は……そういえば聞いていなかったね」


 美女の名を訊ね忘れるとは、私としたことが……と結構本気で落ち込む辺境伯にちょっと引き笑いしつつ、彼女は鞄から木板を取り出して、『フィリアです』と書いた。


「……おや、なるほど。……つまり君はここに、その呪いを解いてもらいに来たわけだね」


 それだけのことで、辺境伯は全てを察したらしい。


『はい。私はここに、呪いを解きに来ました』

「ふむ……。イマジカちゃんは知ってたのかな?」


 イマジカちゃんって。

 こそばゆい呼ばれ方に若干の居心地の悪さを覚えつつ、私は首肯する。


「ふむ、そうか。……いやしかし、是非ともフィリアちゃんには声を取り戻して欲しいね。あれだけの演奏だ。ぜひとも、詩と一緒に聴きたいものだよ」

『伯爵様であれば、もっと上等な演奏をいつも聴いているのではないですか?』


 彼女は謙遜するが、辺境伯はかぶりを振る。


「いやいや。あれほどの演奏、そうそう聴けるものではないさ。……それに、寒い地域ではあまり、素手で弦を弾く人はいなくてね。あんなに柔らかな音色を聴いたのは、本当に久方ぶりだったよ」


 確かに、この寒さの中であの冷たそうな弦を弾き続けるのは、見た目よりも辛そうではある。彼女も昼間は、素手では弾いていなかったはずだ。


「昼間は骨のような何かで弾いていたように記憶してるんですが、今は使わないんですか? 確かに素手では寒そうです」


 彼女は少し驚いたように身体を震わせ、少し視線を彷徨わせてから言った。


『よく見ていらっしゃいますね。でも、今みたいな曲は、素手の方が雰囲気が出るんですよ』

「……なるほど。確かに、素敵な雰囲気でした」


 確かにそうだ。その奏法は確かに、見事に曲に合致していた。


『とはいえすみません、流石に冷えてきたので、そろそろ部屋に戻りますね』


 彼女は心なしか寒さに震える手でそう書いて、ぺこりと一礼して中庭を去っていた。


「素敵な女性だな」

「ええ」

「もちろん君もそうだけれどね?」

「いや、そんな取ってつけたように」

「いやいや。本当は何かを問いたかったのだろうけど言葉を呑み込んだあたり、さすがに配慮が行き届いていると思ったよ」

「……」


 なんというか、この人にはすべてを見透かされている気分になる。

 確かに、私は一つ疑問を呑み込んだ。

 ――彼女の言う通り、あの素手による奏法は確かに曲の雰囲気にあったものだった。

 ……でも。

 であればどうして、昼間はあの骨を使ったのだろう。

 彼女が今弾いていたのは、昼間と同じ曲だったのに――。



 * * *



 中庭での思いがけない演奏会。その後フィリアさんが中庭から去り、私と辺境伯も部屋へと戻ることになった。

 廊下を二人で歩く。等間隔で設置された燭台に立てられた蝋燭の火が、通り過ぎるたび揺らめく。


「グーダルク様」

「おや、なんだい? 夜のお誘いなら是非もないが」

「いえ、そうではなく……、いくつかお聞きしたいことがあるのですが、宜しいですか」

「ふむ、残念。まあ、私に分かることであれば答えるよ。基本的に、美人の頼みは断らない主義だ」


 本当に、残念な英雄……。だけど、この人とこうして二人きりで話せるチャンスは少ない。この人は、噂通りであれば、もう100年以上もの間この世界に存在している。当然、その知識は私などと比べるべくもないほどのものだろう。私は彼から、いくつかのことをきいておきたい。


「ではまず――、『呪いを解く方法』について、呪術師による解呪以外の方法を何かご存知ではないですか?」


 私はここに、あの呪術師が王女に呪いをかけた呪術師なのかどうかを見定めに来た。そして、それはほとんどで確定している。王女が呪いを受けたのは、城下に二人組の吟遊詩人を見に行った時。そして、フィリアさんは双子で吟遊詩人として活動していて、王都で呪いを受けた。その二人の「呪いの紋様」は同じ「黒薔薇の紋様」で合致していた。

 呪いの紋様は、呪術師それぞれで異なる。

 一つとして同じものはないとされていて、それが合致するということはつまり、その呪いが同じ呪術師によってかけられたものであることを意味する。

 そして、フィリアさんの元にはグラムルから解呪金の請求が来て、それをグラムル自身も晩餐会の場でほのめかした。フィリアさんに呪いをかけたのは、グラムルで間違いないだろう。ということは間接的に、王女に呪いをかけたのは、グラムルであるということになる。

 となれば私が次に考えるべきことは、どうやって呪いを解くか、だ。

 王女には解呪金の請求が無かった以上、その呪いの報酬は既に、それをグラムルに依頼した何者かから支払われているとみていい。

 つまり王女の呪いを解くには、それ以上の金を用意してグラムルに解呪を依頼するほかない。

 それはもちろん交渉次第だが、向こうだって馬鹿ではない。王女側からそんな接触があった場合、王女側が提示する金額を上回る報酬の上積みを約束されている可能性だってなくはない。というか、恐らくその可能性は高い。――現在実際にこの国の王座に君臨しているのは王女ではない。国王派と王女派、どちらの懐事情に余裕があるのかは、火を見るよりも明らかだ。この線での解呪は、実際のところ望み薄だと言える。

 だから私は、それ以外の解呪方法を探さなくてはならない。

 奴隷に用いられる束縛の腕輪には、それを嵌めた者による口付けという解呪の方法だって存在するのだ。であるならば、それ以外の呪いにも、もしかしたら呪術師による解呪以外の方法があるかもしれない。私はそれを、この魔法大国を北の大地から眺め続けてきたこの人の知識に恃んでいる。

 ……しかし、彼の答えはこうだった。


「いやあ……最初から主義に則ることができなくて残念なんだが……、それについては私も、君の期待に応えられるような知識を有していないんだ」

「そう、ですか……」


 やはり、そう簡単にはいかないか。と肩を落としかけたとき、「だが――」と、彼は続けた。


「一つだけ……、どんな呪いも等しく解くことのできる方法が、たった一つだけ存在する、という話を聞いたことがある。――呪術師たちは決してそれを明かさなかったけど、ある高名な魔法使いがその秘密に迫っていると、王族たちの間で一時期話題になっていたことがあったよ。……まあ、その魔法使いはどうしてか王都から去って、その秘密が暴かれたのか、そしてその秘密とやらがなんなのかは、結局わからなかったみたいだけどね」

「なるほど。……望みがないわけではなさそう、ですね」

「そうだね。……すまない、最も肝心なところが結局わからないままで」

「いえ、とんでもないです」


 何か方法がある、それがわかっただけでも、大きな進歩だ。

 あるかもわからない何かを探すよりは、ずっと希望が持てる。


「ではすみません、もう一つ……」

「今度はご期待に沿えるといいんだけどね」


 思わず苦笑してしまう。


「弦楽器を弾くのに、何かの骨を用いることってあるんでしょうか」

「骨……ああ、さっき言っていたあれか」


 彼は「あー」と頬を掻いて、少し遠くを見て言った。


「そうだね――、これは彼女の秘密を無遠慮に暴く行為だとは思わないでもらえるとありがたいんだけど……高名な吟遊詩人なんかが死んだときに、その遺骸をその人が愛用していた楽器に寄り添う形でその楽器を弾くための道具に加工することは、あるみたいだね」


 ……なるほど。確かに、これは彼女の触れられたくない部分に勝手に触れてしまう行為にあたったかもしれない。でもそれを咎められるべきは、辺境伯ではなく私だ。


「すみません、変なことをきいてしまいました。どうかグーダルク様はお気になさらないでください。私が無理に聞いたことです」

「いやいや、あくまでそういうこともある、という話だよ。彼女の使っていたというそれが本当にそういうものなのかどうかは、わからないさ」

「ええ、そうですね――」


 しかし、私は知っている。彼女には、双子の弟がいることを。

 彼女は、弟は今解呪金を集めにどこかへ行ってしまったと言っていたけれど、もしかすると彼女の弟はもう――。

 いや、これ以上のことを考えるのは、本当に野暮というものだろう。

 そもそもこの質問はほとんど私の興味本位だ。これ以上、彼女の秘密を無遠慮に暴くのは本意ではない。

 私たちは丁度、二階の1号室。つまり辺境伯の部屋の前へと到着していた。区切りもいい。私はそこで、最後の質問にうつった。


「この館は、グーダルク様が建てさせたと仰いましたよね?」


 彼は首肯する。


「うん、そうだね」

「この窓のない内装も、グーダルク様のオーダーですか?」


 彼は少しの逡巡ののち、


「……ああ、そうだよ」


 と再度首肯した。


「……わかりました。ありがとうございます。お手間をかけてしまい申し訳ありません」

「いや、いいんだ。君が彼女の命に忠実であることに、私はある種の敬意すら抱いているんだ。だから、いずれ私の秘密が明るみになるならば、それはできれば君のような人物からでありたい。……もう、ほとんど気づかれているみたいだからね」

「……」


 私が彼の秘密に気付きつつあることに、彼は気づいている。……いや、当たり前だ。今の質問は、あまりに直接的すぎた。


「……明日も早い。私はそろそろ休むとするよ。……といっても、私は夜型だから、今はそんなに眠たくはないのだけどね」

「眠れなさそうですか」


 彼はいつの間にか、手に一輪の花を持っていた。


「いや、庭に咲いていた睡眠導入剤にでも頼ってみるよ」


 彼はそう言って、真っ暗な部屋の中へと消えて行った。



 * * *



 辺境伯が自室に消え、私もそろそろ部屋へ戻ることにした。窓がないからだろうか、中庭の寒さが嘘のように寒さは感じない。廊下を等間隔に照らす蝋燭の火も多少は関係しているかもしれない。なにしろ、結構な数だ。

 自室を目指して廊下を歩いていると、前方の突き当たり、その曲がり角に設置されていた燭台に灯る蝋燭の灯りが、フッと消えた。廊下に風はない。誰かが消したのだ。

 暗闇の陰に隠れて、それが誰なのかは近づいてみなければ分からない。向こう側から、一つまた一つと、ゆっくり火が消えていく。

 私はゆっくりと腰に手をやって、気づく。短剣は食堂だった。

 まあでも、害意があるならこんな分かりやすい真似はしないだろう。恐らく彼女は……。

 目の前の蝋燭の灯りが届くギリギリのところにきて、ようやくその顔が判別できる。何か埃仕事でもしてきたのだろうか、口を布で覆っている。だが、誰かはわかった。

「おや、イマジカ様……。まだお休みではなかったのですね」

 それは、使用人の女性だった。綺麗な人だ。心なしか、いい匂いもする。……いや、その匂いは、彼女が手に持っている包みから。中では何かが融けているようで、包の底は少し湿っている。……何かはわからないが、多分、花の香りだ。

「ええ、今戻ろうと思っていたところで。ええと……」

 ……彼女の名前を、私はまだ知らない。

「アイラと、お呼びください」

 柔らかな物腰。

「アイラさん、ですね。晩餐会での食事、とても美味しかったです」

「身に余るお言葉ですが……、ありがとうございます」

 控えめに笑ってみせる彼女。

 誰かに仕える立場の者として、その慎ましやかな態度にはなんとなく親近感を覚える。……いや、私が慎ましやかかどうかはわからないけれど。

「今日はもう、アイラさんもお休みですか?」

「……ええ。廊下の蝋燭の火を全て消して……」

 そこで彼女は少し俯き沈黙して、

「……いえ。本当はまだ一つ、仕事が残っています」

「あれ、そうなんです……か……」

 ここでようやく、自分の意識が少しずつ遠のくのを感じた。

 そうだ、王女は言っていた。

 この街には、氷のヘリオトロープが咲く。

 中庭にも、それは咲いていた。

 辺境伯も、それを睡眠導入剤と呼んでいた。

 ……寒い地域では滅多に溶けることのないその花の効果が広く知られるようにったのは、つい最近のことだったはず。

 氷のヘリオトロープは溶けると甘い香りを放ち、その匂いには……。

「強い……睡眠効果……」

 膝からその場に崩れ落ちる。

 彼女が、私を見下ろしている。

 彼女と目が合う。

 でも、布で覆われた彼女の表情を伺い知ることはできなかった。

 ただ一言、

「……ごめんなさい……」

 そう、聞こえた気がした。

 ……甘い香りは、まだ続いている。

 私の意識はそこで、一度途絶えた。

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