其の四 聖王、滔々と異世界を語る
巨人族の大王ヴァルバルは、聖王イシュナグが魔王ガラムとの一騎討ちのさなかに姿を消したときのことを、昨日のことのように覚えている。
ガラムの一騎討ちの申し出を断るべきと、あの時もっと強く止めるべきだったと、何度も何度も後悔してきた。
『ヴァルバル、互いの民を一人残らず失ったとしても、余か、あやつが倒れるまで終わらぬのだ。一騎討ち……なぜ、思い浮かばなかったのだろうな』
笑いかけてくれたイシュナグの頼もしさを、昨日のことのように覚えている。
◇◇◇
そして、待ちに待ったイシュナグの帰還。
獣人族の耳のような飾りを頭につけ、白銀の戦装束とは比べ物にならないほどの粗末な装束の聖王に、涙が乾いたヴァルバルは軽い苛立ちめいたものを募らせていた。
そんなヴァルバルの胸中に気がついているのか、いないのか。イシュナグは
「余が人間族のために用意し移住させた世界だ。その世界に、余が迷いこむことになろうとは夢にも思わなかったぞ」
おかしそうに笑うイシュナグに、とうとうヴァルバルが苛立ちを隠しきれなくなった。
「イシュナグさま、笑い事ではございません。あの短命かつ、魔力を持たない人間族と、我らが聖王がともにあったというのは、由々しきことですぞ」
広い広間にヴァルバルのどら声が響き渡る。
よく日に焼けた彫りの深い顔のこめかみに、青筋が浮かんでいる。
翼人族の君主ウームルが息を呑む一方、小人族の君王ニグルスは呆れたと言わんばかりのわざとらしいため息をつく。もちろん熱しやすい性格のヴァルバルに向けたため息だった。
「よせばよいものを……」
イシュナグは、その端正な顔に笑顔を浮かべている。
「ヴァルバル、そなたはあいかわらずのようだ。安心したぞ」
だが、その声は氷よりも冷ややかだった。
「が、ちと言いすぎだ」
新参者の立場をわきまえ、ヴァルバルの斜め後ろで跪いていたウームルは確かに見た。その肩幅の広い大きな背中が、かすかに震えたのを。
「そもそも三千年前、聖魔分かたれるようなことがなければ、人間族もこの世界で暮らしていけたのだ。人間族を他の世界に追いやった聖魔分かたれるきっかけを、知らぬというのか?」
「そ、それは……」
ヴァルバルの青筋が浮かんでいたこめかみには、嫌な汗が浮かんでいた。
「答えられぬのなら、今、教えてやろう。聖王イシュナグと魔王ガラムの諍いだ。つまり人間族を他の世界に追いやったのは、余のせいでもある。他でもない余が、二度目の命を使って人間族にふさわしい世界を用意し、移住させたのだ」
もちろん、ヴァルバルも承知のことだ。この世界の住人ならば、誰もが知っている。
だからといって人間族を見下してはならないというのは、ヴァルバルにはとうてい納得できる話ではなかった。
ひび割れそうなほど乾いた唇を湿らせて口を開いた彼に、ヒュンデは形の良い眉をひそめる。
「しかしながら、イシュナグさま。人間族が短命であり、魔力を持たない脆弱な者どもだったことには、違いありますまい」
イシュナグは、軽く目を見張って膝を叩いた。
「そうであったな。そうであった。許せ、ヴァルバル」
何がおかしいのか声に出して笑いだしたイシュナグに、さらなる怒りを覚悟していたヴァルバルはそっと胸をなでおろした。
胸をなでおろしたはいいが、いまだにイシュナグの振る舞いに対する戸惑いは残る。もしかしたら、目の前の聖王は自分が知らない新たな聖王かもしれないと。
「あの世界に迷いこむまでは、もう長いこと余もそう考えておったのを忘れておったよ」
膝の上に目を落とせば、黒猫の耳のカチューシャがある。この世界において万能であるイシュナグだが、このカチューシャが何でどうやって作られているのか見当もつかない。
「諸君らも一度人間族の世界に行けばわかるだろうよ。短命で魔力を持たないゆえに、我らにはとても考えつかないような道具を作り出しておる。余はこの目で見たのだ、何百人と人間を乗せて空を飛ぶ鋼の船。魔法でも炎でもない、夜の闇を昼間のように明るくする熱のない灯り。遠く離れた人間たちが会話する小さな箱。想像できぬだろう。だが、確かにあったのだ」
諸侯たちは、どう答えるべきか考えあぐねている。
もっとも、イシュナグは彼らの答えなど必要としていなかった。
「余と忌々しい魔王ガラムが過ごした
想像もできない話をされても、諸侯たちは困惑するよりほかない。が、主君の話はなかなか終わりそうにない。
「
新参者のウムールだけは、困惑しつつも、聞き流さずに耳を傾けていた。
だから、彼だけがイシュナグの声の調子が変わったことに気がついた。
ウムールは後にこの夜のことを話す機会に恵まれると、必ずこう語るのであった。
いやな予感がした、と。
「誰にでも等しく休む権利がある。その権利を与えられない者が『社畜』だ。ブラック企業とかいう悪辣な組織の奴隷であり、蔑称である。まるで民たちのために休むことを知らない余のことではないか」
イシュナグは、天を仰ぐ。
「誰にでも等しく休む権利がある。余は、素晴らしい考えであると感動した。そして、この世界に帰ったあかつきには、まず休暇をとろうと決めたのだ」
耳を傾けていたウームルですら、何を言っているのか即座に理解ができなかった。
休暇ってあの休暇じゃないよな、というのが、諸侯たちの嘘偽りのない心の声だっただろう。
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