其の七 聖王、書庫で異世界の歌を歌う
イシュナグは、朝早くから飛翔館の地下にある書庫に篭っていた。そう、昨夜、君主ウームルが訪れた広間だ。
目的はもちろん、リルアの手がかりをつかむこと。
「…………」
薄暗い書庫の奥で、イシュナグはすぐに匙を投げたくなった。
純白の頭の上には、
きつく編まれた麻の敷物の上で、胡座をかく彼の目の前には、今にも崩れ落ちそうなほど積み上げられた巻物の山がある。
先代の君主ヨミの神経質そうな顔が、彼の脳裏に蘇る。
「まだ三分の一ほど残っていますが、いかがいたしましょうか?」
ただでさえ崩れそうな山に両腕で抱えた紙束を追加したウームルを、つい恨めしそうに睨んでしまう。
嫌がらせだ。
昨日の
ウームルを恨めしく思うのは筋違いもはなはだしいが、あいにく彼は昨夜から機嫌が悪かった。
「ウームル、貴様、いい性格しているな」
「文句なら、先代に言ってください。それから、百年ぶりに帰ってきた途端に努めも果たさずにふらふらしているイシュナグさまには、言われたくなかったですね」
「……そういうところが、いい性格しているというのだ」
深いため息をついて、イシュナグはひらひらと手を振ってウームルに出ていくようにうながす。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「許す」
顔をあげることなく先をうながされたウームルは、たっぷりと唇を湿らせた。
「そのリルアといういもしない娘は、どのような娘だったのですか?」
知らず知らずのうちに汗ばんだ両手を握りしめるウームルは、ひどく強張った顔で返事を待つ。
ほんのわずかな間が、やけに長く感じられたことだろう。
「いい性格をしておったよ。貴様ほどではないが、言いたいことを遠慮なく言ってくる娘だった」
ざっと目を通し終わった紙をくるくると巻きながら、イシュナグはちらりとウームルを見やった。口元に浮かんでいた笑みは、薄暗い書庫にいるせいか陰りがあった。
「いもしないと言っておるのに、知ってどうする?」
「イシュナグさまがよろしければ、よく似た娘に身の回りの世話をさせようかと……」
「いらん」
イシュナグの声は、冷ややかだ。広げた巻物を膝の上に置いて、崩れそうな山の向こうで強張っている臣下を見上げる目も、冷ややかだ。
「リルアに身の回りの世話をさせたくて、探しているのではない」
「あの時、白亜宮殿ではそうおっしゃられたではありませんか」
信じられないと目をむくウームルに言われて、イシュナグは初めて思い出したようだ。あれほど冷ややかだった視線が宙をさまよい、頬をかく。
「あー、言ったな。確かに言った。……すまん、あれは口実だ」
「は?」
ピクリとウームルのこめかみがひくついた。
「口実? いもしない娘を探すとか無茶苦茶な口実で、努めも果たさずにふらふらと……」
「そうではない。そうではない……」
広げた紙束に視線を落としたイシュナグは、さぞかし居心地が悪かったことだろう。早々に居心地の悪さに耐えられなくなった彼は、大きく息を吐き出して白状した。
「俺は、リルアを妻に迎えるつもりで……」
「は? 妻にとか冗談じゃ……いもしない娘を妻になど冗談じゃない!」
ウームルの秀麗な顔が青ざめて見えたのは、書庫の薄暗さのせいだっただろうか。
「だから、いもしないと決めつけるな。貴様とて、郷の外の同族まで把握できていないだろう」
時間が惜しいと、イシュナグは先代のヨミが書き記した記録に視線を落としたまま。
何を言っても無駄だと悟ったのか、ウームルは深いため息をついて肩を落とした。
「わたくしは、地上に戻ります。見つからなくても、三日の期限は守ってもらいますからね」
「あー、わかっている」
ウームルには不機嫌そうな主君の声が、さっさと出て行けと聞こえたことだろう。
ぐるりと囲む書棚の奥にウームルが消えると、イシュナグは面白くないと鼻を鳴らした。
「やはり、なにか隠しておるな」
いもしない娘とウームルが否定すればするほど、彼が嘘をついているのだと確信してしまう。
「いもしない娘、か」
先代の君主が残した記録の量に辟易しながら、イシュナグは巻物に目を通していく。
創造主が世界の裏側で眠りにつく前に、聖なる一族以外の五つの種族に筆をさずけ、ありのままを記録するように命じたという。
その記録は、すべて各部族の頂点に立つものがしたため、その館の地下の書庫に納める。
時を数えることすらできぬ悠久の歴史の記録。
神経質なヨミは、実に事細かに記録をしていたようだ。
「
書き記した紙を丸めてあるだけでは、目当ての記録を探すのも一苦労。イシュナグは、
「今後の記録は、すべてマンガにするべきだ。文字だけでは、伝わらんこともあるしな」
楽しみができれば、滅入ってた気分もいくぶん楽になる。
「ハピハピにゃにゃ〜ん、マジカルルンルンにゃ〜ん……」
一人きりになった書庫の奥で、イシュナグは
「にゃにゃんがプイッ……これは?」
ふいにイシュナグの上機嫌な歌声が止まった。
唇もきゅっと一文字に引き結ばれる。
しばらく巻物の文字を目で追った彼は、唸るような声を絞り出す。
「ヨミのやつ……」
それは、先代の君主が魔族の呪いを研究していた記録だった。
◇◇◇
地下から地上に戻ったウームルは、眩しそうに目を細める。
親しみのある楽の音も、ひどく新鮮に感じられた。
「…………最悪だ」
地下の書庫に生気を置き去りにしてしまったのか、ウームルはヘナヘナとその場に崩れ落ちる。
幸い、普段は人が立ち入ることのない小部屋だ。心置きなく胸の奥にたまったものを吐き出すことができる。
「なんで、なんで、こうなった。妻とか、馬鹿じゃないのか。馬鹿だろ、馬鹿。薄々そんな気はしていたけど、馬鹿だ」
もし、イシュナグの耳に入ったらなど頭にないのだろう。
それほど、ウームルは精神的に追い詰められていた。
「無理。無理。ほんと無理。ヨミさまも、ヨミさまだ。肝心なこと言ってないとか。あり得ない。あり得なさすぎるだろ、馬鹿聖王。ほんと馬鹿」
初めは弱々しかった声も、主君への恨み言を吐き出すうちに少しずつ力強さを取り戻していく。
「とっとと諦め…………」
「フフッ」
背後から聞こえてきた軽やかな鈴の音のような笑い声に、ウームルの心臓は止まりかけたに違いない。
ぎこちなく振り向けば、薄紅色の翼の第一夫人が座っていた。
「驚かさないでくれ、ウェリン」
安堵の息を吐き出したウームルに、第一夫人のウェリンは口元に手を当ててクスクスと笑う。
「いつからここに?」
「貴方さまが、書庫から出てくる前から」
「…………そうか」
情けない姿を見せたことを恥じる余裕すら、今のウームルにはなかった。
「それで、何か?」
「白亜宮殿のオーウェスより、言伝をあずかってますの」
「何か、いい方法が見つかったか?」
首を横に振りながら側ににじり寄ってきた美しい妻に、案の定とウームルはため息をついた。
「早く帰りたい、とのことですわ」
「だ、ろうな。オーウェスには、本当にすまないと思っている」
げんなりと落とされた夫の肩に、ウェリンはそっと頬を寄せる。
「フフフッ。貴方さまも、あの子と変わらないくらい参っていると思いますわ」
「ああ、そうだよ。こんなことなら、最初に死んだとでも言っておくべきだった」
情けない声を出すウームルの頭を子どもにするように、ウェリンは撫でる。とても、人様には見せられない姿だ。
「今さら言ってもしかたないわよねぇ」
「まったくだ。しかし、いもしない娘を妻にしたいなど無理難題を……」
妻は思わせぶりに笑って、夫の真紅の髪を一房、指に絡める。
「愛することに、理由がいるのですか?」
「しかしだな……」
まだ情けない声で言い募ろうとする夫の唇に、妻はほっそりとした人差し指を押しあてる。
「泣き言は、もうやめにしましょう」
そうだなと、ウームルは力なく笑った
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