其の八 従者、少年と友情を築く

 ギシュタークは、久々に夢も見ずに眠りを貪った後も、しばらく動けずにいた。


「うへぇ」


 魔獣化の反動だ。

 床の絨毯にうつ伏せに転がっている彼は、食欲すら感じることができないほど、疲弊しきっている。

 全身フサフサの体毛に覆われている彼は今、服を着ていない。全身を魔獣化した際にボロボロ破れてしまったのだろう。

 彼は今、服のかわりに白い薄衣を頭からかぶっているだけだ。

 獣人族にとって魔獣化した姿で全裸でいることは、とても恥ずかしい行為だ。もし、同族の女たちに知られでもしたら、軽蔑され相手にされなくなるだろう。女社会の獣人族の中で、ある意味死よりもつらい。


 見慣れぬ小部屋に一人きりにしてくれたのは、獣人族と親しい者の配慮だろうか。

 意識を失う直前、女たちの悲鳴のような声が聞こえたような気もしないでもないが――。


 試合に勝ったというのに、ちっとも嬉しくない。


「はぁ」


 少しずつ体力が戻るに連れて、空腹も意識せずにはいられなかった。


 グルルルルゥゥゥウ


 絶え間なく聞こえてくる楽の音に混ざると、ただでさえ情けないお腹の虫が、余計に情けなく聞こえる。


「……起きよ」


 一回り小さくなったギシュタークは、薄衣の中で両手をペタペタと顔に押し当てる。フサフサの体毛が残っていないか確認しないと、とてもとても薄衣から頭を出せない。


 そっと頭を出すと、目の前に服が一揃い用意してある。


「なんか、すごく申し訳ないなぁ」


 試合に勝ったというのに、気をつかわせてしまったと眉尻を下げるのが、なんとも彼らしい。


「翼人族の人たち、意地悪な人たちばかりじゃないんだな」


 昨日の湯殿での出来事を忘れてもいいとすら思ってもいいくらい、ギシュタークは翼人族の配慮に感謝した――――のも、つかの間のこと。


「こ、これって……」


 薄衣からはい出たギシュタークは、用意されていた服が女物だと知るまでのこと。





 ◇◇◇


 憤懣やるかたないギシュタークが、女物の服を着終わったのを見計らったように、薄衣を下ろした戸口の向こうに誰かが動く気配がした。


「ギーシュ殿、入ってもよろしいでしょうか?」


 おそらく試合で審判をつとめた藍色の翼の青年だろう。


「どうぞっ」


 ギシュタークの返答が不機嫌だったのはしかたがない。

 萌黄色のふんわりとしたワンピース。背中が多く開いているのは、翼人族の装束だからだろう。


「では……っ」


 ランプ片手に薄衣の向こうから現れたワーギスは、ギシュタークの愛らしい姿は想定外だったらしく、ポカンと口を開けたまま戸口で固まってしまった。


「ワーギス兄さん、突っ立ってないで……っ」


 次兄を続いて入室しようとしたティーゲルも、ポカンと口を開いて固まってしまう。


「あのっ、僕、男ですからね。昨日は、ご主人さまの趣味であんな格好してましたけど……」


「ナギさまの……っ」


 なぜか生唾を飲み込んで我に返ったワーギスは、その場で膝をつき床の絨毯に額がつきそうなほど頭を下げる。


「失礼いたしました。すぐに、他のお召し物を用意させます。その前に……ティー、お前、いつまで呆けている」


「……は、はい」


 ワーギスの鋭い声は、ティーゲルを有無言わせずに膝をつかせ頭を下げさせる。


「ギーシュ殿、このたびの弟の無礼、大変申し訳ございませんでした」


「ひゃい?」


 部屋の中央で頬を膨らませてツンとしていたギシュタークは、目を丸くしてスカートの中に隠れていた尻尾がピンと立った。


 確かに、ティーゲルにからかわれたことが試合の原因だが、なぜ深々と頭を下げられることになるのか、ギシュタークは理解できなかった。


「聞けば、弟が大事な客人の従者であるギーシュ殿をからかったのが、火種となったと……」


「そ、そうですけど、あ、あの……」


 聞いた話では、君主の二番目の息子ワーギスは四十歳を超えているはずだ。妻子もいると聞いているし、立派な大人だ。そんな彼が、床に頭を擦り付けて謝罪してくる。

 戸惑うしかない。


「き、気にしないでほしいんですけど。……ほ、ほら、僕の勝ちだったしぃ……」


「……そうですか」


 ギシュタークのオロオロした態度に、これ以上の謝罪は不要と判断したのか、ワーギスは父親譲りの秀麗な顔を上げた。


「では、短い滞在ですが、弟のティーゲルをこき使ってやってください」


「ひゃい?」


 ティーゲルの薄紅色の翼が震えたが、ワーギスに負けないくらい床に頭を擦り付けている彼の表情をうかがい知ることはできない。


「ティー、顔を上げなさい」


「……はい」


 顔を上げたティーゲルの左頬は、見事に腫れあがっていた。

 試合で、ギシュタークの攻撃が当たったのは、最後の頭突きの時だけ。それも、しっかりと狙った胴に決まったはずだ。場外に転がった時に――いや、違う。あれは、明らかに誰かに叩かれたものだろう。粗相をして叩かれたことがあるから、ギシュタークにもよくわかる。


「本当にごめんなさい」


 心から謝罪ではなく、ティーゲルは兄にとことん怒られてしかたなく謝罪の言葉を口にしていた。本心ではないだろうとは言え、謝罪は謝罪。

 ギシュタークが許さないわけがなかった。ただでさえ、心優しい彼だ。それに、先ほどの気遣いもある。


「いいよもう。これ以上謝られたら、僕どうしたらいいのかわからないよ」


 ワーギスは心からの安堵の表情を浮かべる。


「それから、女たちにもよくよく聞い聞かせました。彼女たちも、ギーシュ殿にご迷惑をおかけすることはないと思います」


「ほんとに?」


 それまでの態度はどこに行ってしまったのだろうというほど、ワーギスの言葉は頼りないものだった。


「僕の目が行き届かないところで、女たちが迷惑をかけるかもしれません。その際は、ぜひこのティーゲルを盾にしてください」


「…………」


 盾にと言われたティーゲルは、とても嫌そうな顔をしている。だが、兄に文句を言う勇気もなかった。


「うーん」


 散々からかってきた相手を盾にしろと言われて、ギシュタークは腕を組んでしばし考えこんだ。というか、ティーゲルと翼人族の女たちを天秤にかけた。もちろん、女たちに追い掛け回されて、女湯に……などは、もう二度とごめんだ。意地悪だけど頼りになるご主人さまも、昨夜から機嫌が悪いし人探しに忙しい。ならば――


「じゃあ、僕に笛を教えてよ。それなら、いいでしょ。無理に仲良くなることないし……」


 ワーギスは、ギシュタークの弟への気遣いに自然と頭が下がった。女たちが他種族の少年に熱を上げていることを、面白く思わないのは何もティーゲルだけに限ったことではない。弟が、目の前の少年の優しさを少しでも持ち合わせていたら――ワーギスはそう考えずにはいられなかった。


「ティー。ギーシュ殿に、笛を教えてあげなさい。それから、ギーシュ殿たちが滞在される間は、修練場への出入りを禁じます。わかったね?」


「……はい」


 どこまでギシュタークの気遣いに、ティーゲルが気がついたのかどうかはわからない。たとえ気がついていたとしても、素直に認めて感謝するほど彼は大人ではない。もしかしたら、屈辱と受け止めたかもしれない。なにしろ、ギシュタークは彼よりも三つ年下だ。


 どちらにしても、ティーゲルに選択権はなかった。


 所用があるからとワーギスが去ると、張り詰めていた何かを肺から吐き出した。ギシュタークも、ティーゲルも。


「……なに?」


「……なんだよ」


 がっくり肩を落とした彼らは、しばらく睨み合って笑いだした。


 なんのことはない。

 ワーギスが間に入らなくとも、仲良くなれたのだ。

 そうでなければ、ティーゲルは彼をかくまったりしなかっただろうし、ギシュタークも笛を習いたいなど思わなかっただろう。


 この二人の友情が、数年後の獣人族の危機を救うことになるのだが、それはまた別の機会に。


 何がともあれ、下手くそな笛の音が、彼らの笑い声に取って代わるまで、さほど時間はかからなかった。

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