其の九 聖王、薄い本を作る

 ギシュタークは、悩んでいた。

 目の前には、冷めかけているが美味しそうなご馳走。

 離れには、今、彼一人きり。


「ご主人さま、遅いなぁ。うーん……」


 そう、彼は今、先に一人で夕食を食べようかどうか迷っていた。


 お風呂好きではない彼は、水浴びで汗を流して男物の夜着を着ている。

 女たちが用意した夜着の生地が薄すぎると、明日文句を言わねばと心に決めていた。下半身の体毛だけではなく、上半身のみずみずしい肌が透けて恥ずかしくてしかたないからだ。


 男物の服を用意させる際に生真面目なワーギスが、彼の女装は『ご主人さまの趣味』だと余計なことを伝えてしまったがために、女たちがあらぬ妄想――たとえば、ご主人さまと可愛い従者の禁断の関係とか――を駆り立ててしまったことを、彼は知る由もない。いや、いっそのこと、知らないままのほうが幸せかもしれない。


 なにがともあれ、女たちの妄想のせいで気恥ずかしい姿を強いられながら、彼はひたすらイシュナグを待ち続けた。

 日が暮れると、離れにあるランプの灯りを着けて回って、再びご馳走の前に座る。さすが君主の館だ。小人族の特級のしるしが入った魔法道具は、一晩中離れを昼間のように明るくすることもできそうだ。


「よし。これでいつでもご主人さまが帰ってきたらすぐに食べられるぞ」


 水浴びの前に軽く食事をとったから、それほど空腹ではないが、目の前に美味しそうなご馳走が並んでいると、どうしても腹の虫がその存在を主張してくる。


「食べちゃおう、かなぁ……でもぉ」


 でも、イシュナグに何かされたら嫌だ。

 それこそ、あの悪夢が正夢になどなったら――


 ギシュタークは、ブンブンと激しく首を横に振った。


「あんなの、絶対やだ。僕は、男の子なんだからっ」


異世界ニホンでは、女装する男をおとこむすめと書いて、オトコノコと読むらしいぞ」


「ひゃっ!!」


 いつから、ギシュタークの背後に立っていたのだろうか。

 驚きあたふたとしている従者を、イシュナグは意地の悪い笑みを浮かべて見下ろしていた。


「わわわ、ごご主人さま、あ、あの……」


「先に食べておればよかったものを」


 よほどギシュタークの慌てぶりがおかしかったのか、イシュナグはクスクス笑いながら寝台のある衝立の向こうに消えた。おそらく、両手に抱えていた大量の紙束を置きに行ったのだろう。


 さすがに、ギシュタークも傷ついた。

 何も笑うことはなかったのではないか、と。

 せっかく待っていたのに、先に食べてばよかったのにと笑うことはないじゃないか、と。

 フサフサの耳をぺたんと垂らして、うつむいてしまう。子どもっぽいことをと悔しいが、情けない顔を見られてまたからかわれるより、マシだと思えた。


「おい、ギーク」


「ひゃっ」


 最初の街で買い与えられた丈夫な外套を、イシュナグに頭から被せられた。


「着ろ。そんななりでは、風邪をひくだろう」


「ご主人さまぁ」


 いつもは意地の悪いことばかり言う主人が、こうして優しさを見せてくれると、嬉しくなってしまう。それこそ、涙ぐんでしまうほどに。


「ありがとうございますぅ」


 ズズッと鼻をすするギシュタークに苦笑しながら、イシュナグはご馳走の向こう側のクッションに腰を下ろす。


「さっさと食べろ。どうせ、腹空かせているのだろう?」


「ひゃい。……ありがとうございます」


 ギシュタークは、待ってましたと目を輝かせ、耳を立てて尻尾を振る。そして、勢いよく食べ始める。


「……まったく」


 ガツガツ食べるギシュタークに対して、イシュナグは食事にほとんど手をつけない。昨夜からそうだ。

 酒杯をあおってばかりでは、さすがにギシュタークも心配になる。


「ごひゅふぃんひゃま、ひゅこしくりゃいたべふぁふぉふがふゅいでひゅよ」


「食べるか、喋るか、どちらかにしろ」


 呆れたように苦笑いを浮かべられて、ギシュタークは大好物のウサギ肉の炒め物を飲みこむ。


「ご主人さま、少しくらい食べたほうがいいですよ。って言ったんです」


「ああ、そうだな」


 意外と見ているのだなと、心のなかで舌を巻いた。


 別に食べなくとも、かまわない体だ。毒や薬の類が害をなさないのと同じように、どんな滋養のあるご馳走も、彼の体に影響を与えない。酒もまた、わずかな酩酊感すら与えてはくれない。


「……まったく、難儀な体だ」


「ご主人さま?」


「いや、何もない。そんな目で見てくれるな、よっと」


 くすりと意地の悪い笑みを浮かべて、ギシュタークが食べていたウサギ肉の炒め物の皿を取り上げる。


「あーっ!」


 抗議の声を無視して、イシュナグはウサギ肉の炒め物をあっという間に平らげてしまう。


ご主人さまぁごしゅひんしゃまぁひどいですぅひゅどいでひゅぅ


 などと泣きながらも、ギシュタークは大好物を奪われた分ガツガツと胃袋に納めるのだった。

 次からは、大好物を奪われないように確保しようと心に誓いながら。




 ◇◇◇


 大量に並べられていたご馳走は、あっという間にきれいになくなった。器を重ねて、戸口の向こうに片付けて戻ってきたギシュタークは目を丸くする。


「ご主人さまっ?」


 片付けたはずの離れの衝立の向こうに置いてきた紙束、チョキチョキとハサミを入れていた。


「ん? あー、これか……」


 どうやら、長方形に切りそろえているようだ。

 ニヤリと笑いながら手招きされて、ギシュタークはイシュナグの横のクッションにちょこんと正座する。夜着の丈が短いせいで、男らしく胡座をかくことができない。


異世界ニホンにあった『本』を作っておるのだ」


「ホン?」


 うむと頷いたイシュナグは、無邪気な子どものような顔で紙を重ねていく。


「こうして、紙を重ねて一辺をこうして…………ほら、できたぞ」


 一辺に二つ錐で穴を開けて麻ひもを通して縛っただけの紙束を押し付けられても、ギシュタークは困惑するばかり。


異世界ニホンでは、巻物のかわりに『本』が使われておるのだ」


「巻物のかわり?」


 うむと頷いたイシュナグは、再び『本』手に取るとパラパラと一枚ずつめくっていく。どうやら、手習いに使われた反故紙のようで、文字というよりも落書きが目についた。さすが、美を愛でる翼人族。落書き一つとっても、捨てるのがもったいないほどだ。


「そうだ、ギークよ。これならば、持ち運びも保管も便利だ」


 横からのぞき込んでいたギシュタークは、二人の獣人族が見つめ合う落書きが目に止まった。おやと思った時には、イシュナグは落書きのあった紙をめくってしまう。

 気のせいでなければ、あれは自分とイシュナグによく似ていた。けれども、ギシュタークは気のせいだということにしておきたかった。まるで恋人同士のような、そんな熱い眼差しの落書きが自分たちに似ているなど、あってはならない。それに、イシュナグは平然としているではないか。そう言い聞かせるが、掴みどころのない主人の考えていることなどわかるわけがない。


「俺が見よう見まねで作ったから、薄っぺらい上に、めくりづらい。だが、人間族は何百枚も紙をまとめた『本』を当たり前のように使っておるのだ。物によっては、ノートとか呼び方は様々だったがな」


「へぇ……」


 次第に熱を帯びていくイシュナグに対して、ギシュタークは不自然に困惑したまま。


「特に、漫画とか同人誌はよかったぞ。絵に吹き出しとかでセリフというものがあってな………」


「…………」


 まるでついていけない話だ。やはり、あの落書きは気のせいに違いない。

 ギシュタークは、あくびを一つ噛み殺す。

 そろそろ、話を切り替えなければ、朝まで付き合わされそうだと、次のあくびをこらえつつも危機感を抱いた。


「今は薄い本だが、小人族の手にかかれば、すぐにでも何百頁という本が……」


「あの、ご主人さま、それでリルアさんという人、見つかりそうなんですか?」


 リルアという名前に、イシュナグは一気に熱が冷めたようだ。


「……まったく、手がかり一つ見つからなんだ」


「諦めたほうがいいんじゃないですか? 期限は短いし、書庫に手がかりがないなら……」


「ギシュタークよ。まだ二日残っておるだろうが」


 パサリと床に置いた出来損ないの『薄い本』に向かって、ため息を一つ。イシュナグの黄金色こがねいろの瞳がランプの灯りのせいか、どこか寂しそうに見えた。


「百年。ずいぶん、翼人族は変わったものよな」


 イシュナグがハッと短く笑ったのは彼自身をあざ笑ったようで、ギシュタークはなぜだか悲しくなった。


「いや、翼人族だけではないか。のう、ギシュタークよ……」


「ひゃ、ひゃい」


 ビクリとその身を震わせて、ギシュタークは居住まいを正してしまう。

 それほど、しっかり聞かなければならない気がしたのだ。なぜだか、わからないままに。


 イシュナグの手には、いつの間にか酔客の酒杯が――。


「俺なんぞ……聖王なんぞいなくとも、この世界はやっていけるではないか。いや、いっそのこと、いないほうが良いのではないか」


 酔うことすらできぬとわかっていながら、イシュナグは酒杯を煽らずにはいられなかった。

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