其の十 従者、見えない月に決意する
ギシュタークは一人で夜風に吹かれながら、イシュナグの話を思い返していた。
『俺なんぞ……聖王なんぞいなくとも、この世界はやっていけるではないか。いや、いっそのこと、いないほうが良いのではないか』
初めは、酷い冗談だと思った。
「はぁ……、そりゃあ……」
彼にとって、聖王は伝説的な存在だった。その生還に立ち会うまでは。
外套を羽織って、回廊を支える柱を背にして庭に腰を下ろす。美を愛でる翼人族の君主の館でも、さすがに回廊の下は白い砂利が敷き詰められているだけだ。
厠で用を足したはいいものの、なかなか離れに戻ることができずにいる。
あいにく、今夜は月が見えない。月を見上げることが好きなギシュタークにとって、月を隠す雲たちが憎たらしくてしかたない。
「聖王さまのいない世界なんて……」
ギシュタークには想像もできない。
それでも、
「民が主君を選ぶなんて、僕たちと人間族は、ずいぶん離れちゃったんだな。すごすぎて想像できないや」
主君が間違いを犯せば民が主君を罰して新たな主君が選ばれる。
やはり、ギシュタークには想像もできない。
なにより、イシュナグが間違いを犯すはずがない。
「確かに、僕に意地悪なところもあるけどさ、民のこと考えてくれてるし。意地悪だけど、ちゃんと……」
イシュナグの言動を思い返すと、だんだん不安になってくる。不安になってくるが、不思議と不信感はなかった。
やはり、イシュナグが間違いを犯すはずがない。
今は休暇とか言ってふざけたりしているが、ギシュタークもしっかりとすれば、きっと――。
「それに、母上だって言ってたじゃないか。イシュナグさまに会うために、民たちは聖山を登っていたって」
母からよく聞かされた。
白亜宮殿の聖王イシュナグは、門前払いすることなく民たちの訴えに耳を傾けてきたと。
若き日の母の心を奪ったのも、そんな聖王の姿だったのだと。
もし、民が選ぶとしたら、それはイシュナグ以外にあってはならない。
どれほど力になれるかわからないが、側にいる者として支えなくてはならないだろう。
「うん。僕も従者としてしっかりしなきゃね。そうすれば、きっとわかって……ん?」
声が、聞こえた。
夜とあって、さすがに楽の音は響かない。
「……そうですか。イシュナグさまは……」
藍色の翼のワーギスの声だろう。
その声がはらむ緊張感にギシュタークは耳をピンと立てて、息を潜める。
「ああ、そうだ。…………よりによって、リルアを妻に迎えたいなどと……」
ウームルの声も。
ギシュタークも、ウームルが何かを隠していることに感づいていた。
大好きな主のために、しっかりしようと心に決めたばかり。
リルアのいう人の手がかりをつかめることができるかもしれない。
ゆっくりと、声のする方にギシュタークは回廊の下を這うように移動する。
「それで、どうするの? ワーギスのいうように、誰かをリルアの親族に仕立て上げて、死んだことにするの?」
どこか楽しげな女の声。おそらく、ウームルの第一夫人のウェリンだろう。
夕方、ティーゲルが母だと教えてくれた美しい人だ。
数瞬の沈黙。ウームルは悩んでいるのだろうか。
「これ以上、イシュナグさまに嘘をつかせる者が増えるのは、忍びないがしかたあるまい」
「では、明日さっそく……」
「待って、ワーギス」
ウェリンの軽やかな声が、息子を呼び止める。
「親族というのは、やっぱり不自然よ」
「しかし、母上……」
「こういうのはどうかしら。百年前、一度は戻ってきたリルアが、イシュナグさまに心奪われ、仕事をおろそかにして、先代のヨミの怒りを買ったというのは。そういうことなら、激怒したヨミがリルアの記録を書き換えた理由になるはずよ」
「…………それで、リルアが先代の怒りを買ったあとはどのように」
なぜか、ウェリンの考えの先を促すワーギスの声が遠慮がちだ。
「居場所を失ったリルアは、郷の外で旅芸人の一座に拾われて、イシュナグさまを思いながら、生涯を終えたの。ほら、ワーギス、貴方、元旅芸人の武人を……」
「ジェームですね。確かに彼は、イシュナグさまと魔王の帰還を知る数少ない男です。……父上、いかがいたしましょうか?」
どうやら、遠慮してるのはウームルらしいと、ギシュタークは考えた。
「ウェリン、よくそんないい加減な話を思いつくな。鳥肌が立ったぞ」
唸るような低い声を、妻のウェリンは軽やかな声で笑い飛ばす。
「ええ。でも、ありえない話ではないわ。それとも、真実を打ち明けられますか?」
「もっとありえんな。……わかった。ワーギス、ウェリンの言ったとおりにことをすすめてくれ。明日の夕刻には、リルアの消息を知るものとして、ジェームをイシュナグさまに引き合わせられるように」
「かしこまりました」
とんでもない話を聞いてしまった。
ギシュタークは、なぜそうまでして、リルアという娘を隠したいのかわからない。今の会話では、ヨミが記録を書き換えたととれる発言も――とんでもないことだ。
イシュナグに知らせなくては、と床下を移動しようとした時だった。
「ところで、父上。ティーはいかがいたしますか?」
ギシュタークは、心臓の音が彼らに聞かれてしまうのではないかというくらい、驚いた。
今日知り合ったばかりの友人は、イシュナグを獣人族の要人だと思いこんでいた態度だったというのに、騙されていたということか。
「何も知らせるな。ティーだけが真実を知りながら、イシュナグさまの帰還を知らない。期日は明後日まで。下手にイシュナグさまのことを知れば、ティーから真実が暴かれるかもしれん」
「もし、わたしたちが真実を隠していたとバレたら、罪を贖わなければならないでしょうね。ティーだけでも、お許しいただけるように、あの子には此度のことを秘密にしておきましょう」
重苦しい沈黙が続いたが、ギシュタークはそれどころではなかった。
明日、笛を教えてくれると約束したティーゲルから、リルアにまつわる真実が聞き出せるのかもしれないのだ。
ギシュタークは、早る気持ちを必死でおさえながら、来たときよりも慎重に離れに戻る。
◆◆◆
ヤーシャは、今夜もご機嫌斜めだった。
「なによっ、なによっ! おとーさまったら、サヤ殿、サヤ殿ってぇ」
ぷぅっと頬を膨らませた顔には、蔦のような赤い文様が広がり怪しく光る。
たまたま足元にあった小石が遠くに蹴り飛ばされる。彼女の癇癪に、樹上で羽を休めていた野鳥たちが逃げ出す。
「なによっ、なによっ! なんなのよぉおおおおおお!!」
鬱蒼とした夜の森に、ヤーシャの怒りの声が響いて、虚しく消える。
人間族であれば十歳になるかならないかの背格好のヤーシャの背には、小さな緑青色の翼がある。あまりにも小さすぎて、飛ぶという役割すらはたせない翼が――。
「おとーさまも、意地っ張りなんだからっ! サヤっちをさっさと森の外に放り出せば、全部解決するのにぃ」
昼間でも薄暗い森だが、ヤーシャにとっては森のすべてが我が家のようなもの。
意地悪に地面から突き出ている節くれだった根っこにも足を取られることなく、ズンズンと進んでいく。
「ほんっとに、おとーさま、優しすぎるんだからぁ」
その優しさのせいで嫉妬したり傷ついたりすることは何度もあったが、たいていのことは優しすぎると諦め感情を流してきた。しかし、今回ばかりはどうにも我慢ならなかった。
「あぁああああ! もぉおおおおおおおおお!」
急に立ち止まったかと思うと、両の拳を木々の向こうにある夜空に向かって叫ぶ。
緑青色の巻き毛を高い位置に二つに束ねていた組み紐がほどけ、小さすぎる翼を隠してしまう。
ォオオオオオオオォォォオオオオオオン
彼女の怒りに答えるように、暗がりから低い低い嘆きの声のような唸り声が響いてくる。
はっと我に返ったヤーシャは、いつの間にか森の外れに来てしまったことに気がついた。
「あ、ごめんね。起こしちゃって、ごめんね」
慌てて髪を束ね直したヤーシャは、怒りをおさえて心を落ち着かせようと深く息を吸い込む。
ォォォオオオオオオオオオ…………
「大丈夫、大丈夫だからね」
それまでの癇癪はどこに行ってしまったのだろう。
ヤーシャの声は、優しく。温かい。怪しく光っていた文様も、今はもう左頬にある赤い小花のただの入れ墨のようだ。
ォオオオオオオオォォォオオオオオオン……
「ごめんね。起こしちゃって。本当にごめんね」
ヤーシャは再び深く息を吸いこむ。
そして、ぷっくりとした可愛いらしい唇から紡ぎ出されたのは、優しい調べだった。
優しい優しい調べは、まるで子守唄のよう。
可哀想な『ガケノシタ』たちのために、小さなヤーシャができる精一杯のこと。それが、子守唄を歌うことだった。
低い悲しい声が静まっても、ヤーシャはしばらく歌い続けた。もしかしたら、彼女自身のために歌っていたのかもしれない。
「ふぅ……」
朝日を見ることはかなわない森の中だが、夜明けが近いことを肌で感じることはできる。
「こうなったら、このヤーシャさまが、なんとかしてやるんだから」
森の外れとはいえ、木々に遮られて断崖絶壁を見ることはまだできない。
けれども確かにヤーシャの心は、木々の向こうにある断崖絶壁を――その上にあるという翼人族の郷に向かっている。
腕を組んで勝ち気な笑みを浮かべるヤーシャを止められる魔族は、幸か不幸か近くにいなかった。
そう、これは聖王イシュナグの休暇の物語。あるいは、聖魔分かたれた双子の物語の大事な一幕である。
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