聖魔の章

其の一 従者、姿を消す

 翌朝、イシュナグが目を覚ました時には、ギシュタークの姿はなかった。


「ギークの奴め、何を考えているのか。さっぱりわからん」


 冷めきった朝食の側に置いてあった置き手紙。


 つまらなそうに鼻を鳴らして、紙を丸めて離れの隅に放り投げる。


「リルアの手がかりを掴んできます、ねぇ。あいつ、いつの間に…………」


 朝食には手をつけず衝立の向こうに戻ると、夜着を脱ぎ捨てた。


 すでに、早朝とは言い難い頃。朝と昼の間。


 昨夜は、ギシュタークが厠からいつ戻ったのかもわからないほど、深い深い眠りについていた。疲れなど、関係ない。そういう難儀な体だ。


「いやな夢ばかり」


 異世界ニホンから帰還してから、よく夢を見る。

 始まりは、森の中で行った潔斎だったように思えた。

 最初の妻のことを始め、厳格な父や、それから――優しすぎた双子の兄。

 見たくもない過去ばかり。


「三千年、か。俺が最後の一人だから、その贖いに生と死を繰り返してきたとばかり……」


 違ったのかもしれないとは、イシュナグはまだ言葉にできない。

 言葉にできない苛立ちを、従者の少年にぶつけてしまったことを、今さらながらに後悔する。どうにもこうにも、調子が狂うのだ。

 あの獣人族の少年といると、思い出してしまうのだ。突きつけられてしまうのだ。優しすぎた兄のことを。最初の妻に狂わされた運命のことを。


「今さら、冗談だったと言ったところで、信じないだろうよ。妙に勘の良いところがあるからな……」


 やれやれとため息をつくが、それほど困っているようには見えない。


 青灰色のチュニックに袖を通す。まったく袖を通されたことのない、真新しいもののようだ。


「なるほど……」


 イシュナグが青灰色の衣を好んでいたことを知る者は少ないはず。それも、真新しいにも限らず、まるでイシュナグのためだけに誂えられたかのような着丈に着心地。


「これを、どうとらえたらよいものか」


 リルアだ。

 リルアの他にいるだろうか。


 イシュナグが求め、ウームルが存在を否定する茜色の翼の娘。


 リルアの存在を示すようなチュニックを、イシュナグはどうとらえるべきか、苦い笑いを口元に浮かべる。


 まるで、探し出してみろという挑戦状を突きつけられた気分だ。

 そんなことをするような娘だとは思わなかったが、面白いとイシュナグのやる気は俄然増した。


 いつしか、苦い笑いが不敵なものに変わっていた。


 と、衝立の向こうの戸口のほうから、ウームルが入室を求める声がした。


「イシュナグさま。ウームルです」


「入れ」


 もっとも、身分を隠して休暇中なので、遠慮するなと言っているのだが、そのあたりは『いい性格をしている』ウームルでも遠慮するようだ。いや、イシュナグが嫌がる態度を遠慮なくとっているのかもしれない。

 猫耳カチューシャをはめたイシュナグは、手をつけなかった朝食の前で胡座をかく。


「よほど、その飾りがお気に召しているのですね」


 ウームルは二人きりなのだから外せと真紅の目で訴える。


「ウームルよ。ヨミのことで尋ねたいのだが……」

 イシュナグの前の敷物をずらして、板張りの床に直接胡座をかいたウームルは眉間にしわを寄せた。まるで、神経質な先代のように。


「ヨミが呪いの研究をしていたことは、知っておったのか?」


「ええ。魔の森に近い我らが郷。ヨミさまは、魔族を知ろうと、呪いを研究しておりました。……書庫でお知りになったのですか?」


「ああ。今日も、書庫を借りるぞ」


「承知しております。では……」


「いや、今日はお前の手をわずらわせるつもりはない。休暇中の俺に、気を遣いすぎるな」


 スクッと立ち上がった、イシュナグは薄い外套を頭からかぶる。

 すぐに付き従おうとしたウームルに、ニヤリと笑いかける。


「ウームルよ。俺が青灰色の衣を好むと、よく知っておったな」


「…………」


 押し黙ったウームルが、イシュナグの黄金色の瞳にどう映っただろうか。

 イシュナグが言外にリルアを知っているなと告げていたことを、ウームルが理解しているように映っただろうか。


 けれども直接何を追求したところで、ウームルが頑なにリルアの存在を否定することは、嫌というほどイシュナグも理解していた。ならば、それは時間の無駄というもの。


「夕刻まで書庫から出るつもりはない。ギシュタークには……そうだな、先に飯を食わせて寝させてやれ」


「…………かしこまりました」


 主君が去っても、ウームルはしばらく膝の上で握りしめていた拳を開くことができなかった。


 結局のところ、青灰色のチュニックは、ウームルの失態以外の何物でもなかった。ある事情からイシュナグが青灰色のチュニックを好むことを知っていいたウームルが、気を利かせて用意させただけのことだった。

 まさに、リルアの存在を否定したいウームルの失態以外の何物でもない。


 楽の音があふれる飛翔館の回廊を、イシュナグはいくつ渡っただろうか。

 誰も、イシュナグの存在に気がつかない。


 あれほど、女たちを騒がせた容姿を持つ彼が誰の目にも止まらないとは、不自然極まりない。

 実際、彼がその気になれば、人の目に触れることなく移動することはもちろん、一瞬にして飛翔館の地下にある書庫に行くことができる。


 けれども、彼は今、あえて回廊を渡っている。


 考えたいことが山ほどあったからだ。

 リルアのことだけではない。

 先代の君主が研究していた呪いのこと。

 それから、ウームル自身のこと。


 ヨミが書き記した記録の中に、リルアの名はなかった。

 聖王に差し出した娘の名を、神経質なヨミが書き忘れるはずがない。

 それから、もう一人。記されてしかるべき名がなかった。

 

 それが、今の君主ウームルの名だ。

 翼人族の君主にして、先代のヨミの一粒種ウェリンを妻に迎えた男。

 後継者の名がないなど、リルアのことよりも不自然だ。


「呪い、か」


 地下に通じる戸を開ける。

 螺旋階段は、数段先ですでに闇に飲まれている。

 手を一度叩けば、ふんわりと光の玉が浮かぶ。


「……呪い、ねぇ」


 元々、この世界にはなかった力。それが呪いだ。

 双子の兄ガラムを、地に落とすまでは、確かにこの世界にはなかった力だ。


 ゆえに、万能であるはずのイシュナグは、呪いに関することにまったく力が使えないのだ。――そう、考えてきた。


 光の玉の従えて螺旋階段を降りるイシュナグは、腹立たしくてしかたなかった。


 ただ消えてしまった娘を探しているだけだったはずなのに、いつの間にか自分の愚かさに気がついてしまった。

 まだ確信が持てない真実だ。

 知ってしまえば、自分自身の意義すら揺らいでしまいそうだというのに、イシュナグは知らねばならない――そんな気がしてならないのだ。


「そもそも、俺が聖王になったことが、間違っておったのだ」


 ギリリと奥歯を噛みしめる。


 聖王であるイシュナグにできぬ三つのことのうちの一つ、過去に干渉すること。

 今この時ほど、忌々しく思ったことはない。




 ◇◇◇


 ティーゲルは体中を襲う痛みをこらえながら、上体を起こした。


「つぅ……いったい何が……」


 彼は、昨日獣人族の少年と約束したとおり、笛を教えていた。なんでも、獣人族で楽器が扱えるだけでモテるらしい。

 しかし昨日試しに吹かせてみれば、聞くに耐えない音ばかり。とても、飛翔館では教えられない。

 だから、朝から二人乗りの飛行魔車でひと気のない場所で笛を教えていただけだというのに。

 そう、ひと気のない魔の森に近い崖の側で。

 魔王が不在の今は、それほど脅威ではない。黒い靄に覆われた魔の森を見た友人が、帰ろうと言った時に、そう説き伏せた。


 それから、それから、それから――。


 どうも、記憶が定まらない。

 最後に覚えているのは、なんの前触れもなく崖の向こうから何かに体を打ちつけられた衝撃。そこで、気を失ったのか、それからのことは何も覚えていない。


「くっそっ! ギーシュ、大じょ……ギーシュ!!」


 辺り一帯の短い丈の草がなぎ倒されている。彼の目の前にあるのは、それだけ。


 獣人族の少年の姿は、どこにもなかった。


 全身を打ち付けただけで、大した怪我はない。あったとしても、親友を探さなければならない。

 ティーゲルは、歯を食いしばって立ち上がった。浅葱色の帯にさしていた短剣を抜く。


「ギーシュ! どこだよ! 返事しろよ! 俺より強いんだから、こんな冗談やめろよなぁあああ!!」


 崖の向こうから吹く風が、ティーゲルの母親譲り薄紅色の髪を揺らす。


「ギーシュ! ギーシュ! どこだよ、なぁ! なぁあああああああ!!」


 親友の下手くそな笛を笑っていたあたりまでやってくると、練習用にとわたした縦笛が転がっていた。

 その縦笛には、なかったはずの折りたたまれた紙が結び付けられていた。


 恐る恐る紙を開くティーゲルの手は震えていた。紙を破いてしまいそうなほどに、震えていた。


「人質を返してほしいなら……」


 震える声で読み上げなくては、クセのある文字をとうてい受け付けられそうになかった。


「明日、太陽が最も高い位置に昇る頃、聖お…………っ!」


 ティーゲルの目が、ゆっくりと見開かれている。

 信じられない脅迫状に、いつの間にか手の震えはやみ、体中の痛みをわすれた。

 ただ、早鐘のように打ちつける心臓の音だけが、彼の内側からうるさいほどに響いているだけ。


 クセのある文字で書かれた脅迫状の続きには、こうあった。


『……高い位置に昇る頃、聖王イシュナグを連れてこい』

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