其のニ 聖王、魔の森に向かう
ティーゲルは、ひどく混乱して興奮していた。
「ワーギス兄さん、どういうことだよっ」
次兄に掴みかかるティーゲルは、今にも泣き出しそうだった。
見回りをしていたワーギスが駆けつけてから、ずっと混乱したままだ。
「なんだよ。人質って、聖王って!」
「ティー、落ち着きなさい」
「落ち着いていられるかよ!」
まだ知り合ったばかりで、互いのことをよく知っているとはいい難いが、獣人族の少年は大切な親友だ。少なくとも、ティーゲルにとっては、そうだ。
「なんだよっ、なんなんだよ!」
「ティー!!」
ビクリと肩を震わせてうつむいた弟が、自分を責めていることが嫌でも伝わってくる。
常に黒い靄に覆われた魔の森の本当の脅威を、ワーギスも知らない。
百年前の戦を知らない世代は、彼に限らず皆知らない。
魔族には、二通りあるとされている。
一つが年に数えるほどだが、群れをなして崖を登ってくる実態のない黒い獣のようなモノ。もう一つが、魔王ガラムより血肉を分け与えられたとされる元人間族。
ワーギスもジェームも、もちろんティーゲルも、本当の脅威である後者を知らない。年長者たちから、伝え聞くことしかできなかった。
確かに、ティーゲルは一人でも対処できると油断していた。だから、ティーゲルに責任がある。彼自身も、わかっているはずだ。自分が友人をここに連れてきてしまった責任を感じているからこそ、冷静でいられない。
「ティー。お前だけのせいではないよ。僕らが、イシュナグさまと、魔王の帰還を教えていなかったせいもあるんだ」
「…………なん、で、俺に教えてくれなかったんだよ」
ティーゲルも、数日前から急に見回りが強化されたことに気がついていた。
ただ、一年に一度、白亜宮殿で行われる諸侯らの会合の後だったこともあって、他の種族たちとの間で何かあったのかと、ほとんど気に留めなかった。大人たちに任せていられる程度には、彼もまだまだ子どもなのだ。
けれども、まさか聖王と魔王が帰還していたなど、夢にも思わなかった。
魔王が帰還していると知っていたら、こんな場所に近づかなかったのに。
次兄を責めるのは間違っているとわかっていながら、そうでもしないと親友が連れ去られたという事実に押しつぶされそうで――。
「すまなかった。本当に」
ワーギスは、震える弟の肩に手をおいた。
弟のせいではないと言えないが、ワーギスは歳の離れた腹違いの弟にまだまだ甘い。
間もなく、知らせを受けた父のウームルが来るだろう。
一緒に叱られたいとすら、彼は考えてしまう。
声に出してこそ言わないが、長兄のオーウェスとともに彼は、先代の君主の一粒種ウェリンの息子であるティーゲルを、次の君主にと決めている。
今のうちに泣けばいいと、弟の背中を撫でる。
それに、人質とあるからには、ギシュタークの命だけは保証されているはずだ。
「本当に、すまなかった。ティー」
大切な弟のためにも、連れ去られた獣人族の少年を無事に取り戻さなければならない。
胸に泣き顔を押し付けている弟を優しく撫でながら、ワーギスは血が滲むほど強く唇を噛んだ。
「大丈夫。僕らが必ずギーシュ殿を無事に取り戻すから。大丈夫だよ、ティー」
必ず――嘘ではない。大切な弟のためなら、なんだってできる。翼人族の戦士たちの大将であるワーギスは、本気でそう考えていた。
◇◇◇
大剣を佩いて飛んできたウームルは、ことの次第をあらかじめ聞いていた。それでも、いざその目で脅迫状を確認すると、ありとあらゆる悪態が口から飛び出してしまいそうになった。
目を閉じて悪態のかわりに胸のうちに残っていた息をすべて吐き出した彼は、末の息子に飛翔館に帰るように命じた。
嫌だと声を上げるティーゲルを、ワーギスやジェームたち、その場に駆けつけた戦士たちが力づくで拘束させてまで、君主ウームルは末の息子を安全な飛翔館に帰らせた。
申し訳なさで胸を締めつけられながら残ったワーギスは、ゆっくりとまぶたを押し上げた父の唇から一筋の血が顎を伝っているのを見た。
姉を魔族に殺されたことから、激しい憎しみを魔族に抱いていることを、ワーギスが知らないわけがなかった。
「父上、いかがなさいますか? イシュナグさまに……」
「まだ伏せておけ」
ワーギスは残って正解だったと、こっそりため息を吐き出した。
こんな事態に、誰もが冷静でいられるはずがない。
だから、一人にならないほうがいい。
おかしな話だが、父ウームルの取り乱しようが――目ではわからないが確かに取り乱していたことは間違いない――ワーギスに取り乱していたことを思い知らせ冷静さを取り戻させた。
今すぐにでも崖の向こうの魔の森に飛び出してしまいそうな父に、冷静さを取り戻させることができるのは、おそらく自分だけだ。ワーギスは、ため息で吐き出した倍の息を呑みこんで拳を握りしめる。
どの道、すぐに騒ぎになる。女たちの目を甘く見てはいけない。追いかけ回すほど人気の獣人族の少年が帰ってこないとなると……考えるだに恐ろしい。そんなことくらい、父のウームルの方がよく理解しているだろうに。
「父上。お言葉ですが……っ」
進言しようとしたワーギスの藍色の目がこれでもかと見開かれて、顔をこわばらせる。
「なんだ、ワーギ……っ」
息子の見開かれた視線の先をたどって振り返ったウームルの顔もまたこわばる。
こわばるのも無理もない。
忽然としかいえないのだが、ウームルの背後にはイシュナグが腕を組んで立っていた。
「何があった?」
不機嫌さを隠そうともしない凍てついた声。それから、頭から被った外套のフードの奥にある
「何があった?」
イシュナグの左手に巻いてあった布が、ほどける。
「俺の従者に、なにがあった? ヒュンデに無事に帰すと約束したからな。念のために
「イシュナグさま、申し訳ございません」
まだ動けずにいる父の手から、脅迫状を奪い取ってワーギスはイシュナグの前にひざまずく。
「従者殿は……」
言葉をつまらせたワーギスの手から、イシュナグは脅迫状を奪い取った。その左手の甲には、聖槍の穂先を象った黄金色の紋が刻まれている。
「ほぉ……」
責任を問われたら、自分すべてとワーギスは体の芯からすくみあがりながら心に決めた。
だが――
「ずいぶん、らしくないことを……」
クシャリと脅迫状を握りつぶしたイシュナグは、額の黒い布もほどいた。
「明日と言わずとも、今すぐにでも迎えに行ってやるというのに」
ひざまずいていたワーギスは理解した。イシュナグもまた、冷静ではないと。
止めなければ、そうわかっているのに、体が動かない。
聖王の怒りが、これほど恐ろしいものだったとは。
なんと情けないのだろう。
強く目を閉じて、彼は歯を食いしばる。
ひざまずくワーギスの横をゆっくり歩いてきたイシュナグは、呆けていたウームルに意外な台詞を口にした。
「ウームル、着いてこい」
「え?」
魔族を憎むウームルにとって、願ってもないことだが、なぜという戸惑いが勝り体が動かなかった。
「俺一人で行けば、森を消し去りかねん。着いてこい」
鼻を鳴らしたイシュナグは、口元を歪めて笑う。
「かしこまりました」
可愛い従者を人質に取られたイシュナグの怒りは、そうとうなものだ。
おかげで、ズンズンと崖に向かう主君の背中に、いつものように遠慮ない言葉を投げかけることができたのかもしれない。
「イシュナグさま、頭の飾りは外されたほうがよろしいのではないでしょうか?」
ピタッと一瞬足を止めたイシュナグは、外套の上から猫耳のカチューシャに手をやった。
「いや、このままでよい。気に入っておるからな」
それに今は休暇だと、イシュナグは崖のふちを蹴る。
「ワーギ……」
「必ず、三人で帰ってきてください」
苦労をかけるなと、ウームルは真紅の翼を広げる。
もし生きて帰ることができなくとも、彼は憎き魔族に一矢報いたかった。
茜色の翼の美しい大切な
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