終の章

終 聖王、従者を連れて前へと進む

 一度言われたことを聞き返そうものなら、サイシャは女将さんにひどい目に合わされてきた。

 だから、彼女が聞き返すことは、とても珍しいことだった。


「恩赦、です、か?」


 小人族のサイシャは、収容所の所長室で困惑している。


「そう、恩赦だ」


 首から上が熊の獣人族の男が、所長だ。顔が熊だけに、年齢も表情も読みづらい。巻物を広げている手を見れば、年季が入ってゴツゴツしている。

 おそらく、若くはないだろう。おそらく。


 宿屋で人売りをしていた咎で収容所にいる彼女は、実に模範的な囚人だった。


 あの夜。

 駆けつけた警邏隊の手で縛につき役所に連れてこられた時、宿屋でさせられていた悪事のすべてを淡々と白状した。その時は人生を諦めたような態度だったが、この収容所に来てからは、真面目に作業をこなす模範囚となった。


「なんでも、聖王さまが帰還されたらしくてな。その、恩赦らしい」


「聖王さまが、帰還?」


 困ったように、熊頭の所長は頭の黒い剛毛をかく。


「正式な公表はされていないが、街じゃその噂でもちきりだ」


「へぇ……」


 百年前に魔王ガラムととともに忽然と姿を消した聖王が帰ってきたと聞いても、彼女はいまいちピンとこなかった。


「噂じゃ、休暇だとか行って身分を隠して各地を旅しているらしい。だから、きっちりとした時期は言えないが、お前を恩赦してもらえるように、考えているんだ」


「ありがとうございます。でも……」


 正直、彼女にとって恩赦は喜べないしらせだった。ようやく罪を償って、新しい人生を始めたいと思えてきたところ。それに、今の彼女には、どこにも行き場所がなかった。

 うなだれたサイシャに、耳の後ろをかきながら所長が、遠慮がちに口を開く。


「お前さえよければ、俺の近所に住んでいる小人族のばーさんの面倒を見てやってくれないか。身寄りがなくて、頼れる人がいないらしい。金には困ってないようだし。住み込みで面倒見てくれないか。もちろん、考える時間はある。どうだ?」


 サイシャは言葉にならないほど嬉しくて、頭を下げるのがせいいっぱいだった。


「そうか、ゆっくり考えてくれ。聖王さまが白亜宮殿にいつ戻るのかは、諸侯さまたちにもわからないらしいから」


「何から何まで、本当にありがとうございます」


 用はすんだだろうから、退出しなくてはと頭をあげようとしたサイシャに、そういえばと、熊頭の所長は口を開いた。


「そういえば、聖王さまがこの街を通ったらしい」


「え?」


「噂だがな。噂じゃ、なんでも聖王さまは猫の耳の形をした飾りをつけて、俺達のような獣人族になりすませているらしい。それから、これはおそらくデタラメだろうが、獣人族の従者は女装癖があるらしい」


「っ!」


 ドクン、と脈打つ音がした。

 もしかしたらといいう考えが脳裏をよぎった。そんな都合のいいことがあるわけがないと言い聞かせるが、そうであったらいいという思いで、彼女の胸が熱くなる。

 できることなら、この恩を返したい。

 いや、恩を返すだなんてだいそれたことを考えてしまったが、せめて伝えたい。


 ありがとう、と。


 サイシャは、この収容所でより一層真剣に丁寧に作業をこなすようになる。




 ◇◇◇


 あの日、親友が誘拐された崖の上で、ティーゲルは笛を吹いていた。

 この頃、毎日のように彼はこの場所で笛を吹いている。

 いつもの軽やかな鳥のさえずりのような軽やかな音色ではなく、優しい子守唄のよう。

 心ゆくまで吹き渡る風に子守唄を乗せ終わると、彼は吹き口を唇から離した。


「ギーシュ、今ごろ、どこにいるんだろうな」


 あれからまだ十日あまり。


 崖の上から見下ろす景色は、あいかわらず黒い靄に覆われている。


 ギシュタークが教えてくれたことは、真実だろうか。この目でいつか確かめたい。

 どうしたいかまでは、まだわからない。


「ヤーシャって子も、今思えば、可愛かったよなぁ」


 ガシガシと頭をかきながら、頬を膨らませている少女の顔を思い浮かべる。ギシュタークさえいなけりゃ、いい感じになったかもしれない。

 非常に残念だ。


「可愛かったよなぁ」


 いつかまた会える気がする。

 そんな根拠のない予感に、彼は胸を膨らませる。


「よしっ! もういっちょ吹くか」


 崖の下で眠る哀れな同胞たちのために、この笛の音が届きますように。





 ◆◆◆


 庭師のフェンスンは、今日も平和だとヤーシャの癇癪を耳にして口元を緩めた。


「もう、こんなの無理ぃいいいい」


 ばたっと文机に突っ伏したヤーシャの後頭部を、ガラムは小突く。


「いやいや、無理ではないだろう」


「おとーさま、無理ったら無理ぃ。アタシ、こんなの覚えられないぃい」


 ヤーシャはグリグリと文机に額を押しつける。


 文机の向こうで、養父のガラムは異世界ニホンから持ち帰った伊達眼鏡をクイッと押し上げる。


「ヤーシャ、大人になるのではなかったのかな? 大人になって、愛しの彼と結婚したかったら、それなりの教養は身につけてもらわなくては困る」


「あー、うー」


 ギシュタークに嫌われたくない。あの夜、彼が木馬にまたがった自分にまたねと手を振ったのは、気のせいなどではないはずだ。


 実のところ、ガラムが教鞭をとっている内容は教養とは程遠く、彼がいなくなった時に、養い子の彼女が魔族の公主として為政者になるための膨大な知識だ。もちろん、知識だけではうまくいかないだろう。彼自身がそうだったのだから。

 だから、せめてあの夜弟のイシュナグが約束した聖王のいない世界が作り上げられるまでに、彼女にはよき公主になってもらわなければならい。


 養い子が可愛くてしかたないガラムが、そう簡単に弟の従者を婿に認めるかどうか、疑問が残る。が、それはまだ先の話と、緩んだ顔を見られまいと窓の外を見やる。


「手を差し伸べることよりも、民たちと苦楽を共にすることをえらんだイシュがうらやましかったがな」


「なに? おとーさま」


「独り言だ」


「なんだぁ」


 百年前、彼が一騎討ちを申し込んだのは、魔族が外の世界に対する憎しみが忘れてしまったからだ。

 無理もなかった。三千年という時の長さは、魔族の祖である人間族の恨みを忘れさせるには、充分すぎた。


「ヤーシャ、さて復習だ。小人族の成り立ちにおける、一番最初の……」


 あと何十年かかるだろうか。あるいは何百年。どちらにしても、その程度だろう。その程度なら、弟を信じて待ってやってもいいはずだ。


「もう、わけわかんないぃ」


 今日も魔の森は平和を享受している。




 ◇◇◇


 とある栄えた街の大衆食堂で、若い娘たちが昼食を囲んでおしゃべりに夢中になっていた。

 栄えた街ならではの、種族入り乱れてのおしゃべりだ。


「飛翔館に勤めている従姉から聞いた話なんだけど、その聖王さま、獣人族の従者に女装させるのが趣味なんですって」


「聞いた聞いた。とても可愛らしい従者だそうね。なんでも女王の末の息子とか……」


「末の息子といえば、その従者、聖王さまだけでなく、君主さまの末の息子まで虜にしたそうよ」


「きゃーっ! 素敵っ! じゃあなになに、聖王さまが恋敵? やだ、妄想が……」


「アタシもぉ」


 彼女たちの会話を、衝立越しに聞いていたギシュタークの三角の耳がピクリピクリと、いちいち反応している。


「ご主人さまぁ」


「お? あー、気にするな」


 そんなことを言われても無理だと、ギシュタークはスカートの裾を握りしめる。


「ご主人さまは気にならないんですか?」


「慣れだ。慣れ。俺くらい偉くなれば、気にするのも馬鹿馬鹿しいぞ」


「ひゃい」


 この主人に訴えた自分が馬鹿だったと、ギシュタークはうつむく。


 衝立の向こうでは、いよいよ娘たちのおしゃべりは盛り上がっている。


「なぁ、べっぴんさん、じゃあ、この辺りは物騒だ。俺が守ってやるから、一緒に来ないか?」


 巨人族の若い男が、イシュナグの丸みをおびた肩に触れながら、わかりやすく誘ってくる。


「必要ない」


 素っ気なさすぎるイシュナグの返事に、男は歯をむき出した。


「おい、ちょっと……っ」


 パンとイシュナグが手を叩くと、フラフラと男は去っていく。


「まったく、男はどうしてこうも……女の身になってわかったが、実に男は単純で馬鹿だ」


 やれやれと肩をすくめたイシュナグの豊満な胸が揺れた。

 そう、イシュナグは今、女になっている。

 もちろん、彼自身がしたこと。


『女の苦労を知るには、女になるのが一番だと思うのだ』


 三日前、突然わけのわからないことを言い出したかと思ったら、ギシュタークも道連れに女の体になっていた。

 あの日、崖の上で見た悪夢が、とうとう現実のものとなってしまったのだ。

 確かにイシュナグの言っていたことも、女装ではなく女の身にならなければ、わからないこともたくさんあった。

 いつになるか定かではないが、イシュナグが白亜宮殿に帰還したらきっと役立ててくれるだろう経験ばかり。


 ギシュタークは知らなかった。

 たわわな胸を強調するように腕を組んでブツブツとつぶやいているイシュナグには、下心があった。女の身になれば女を見る目が培われるかもしれないという下心が。

 彼はまだ最高の伴侶を諦めてはいなかった。


「ご主人さま、そろそろ行かないと、船が出てしまいますよ」


「ああ、もうそんな時間か」


 イシュナグは腕をほどいて、酔えもしない酒杯を空にした。酔えはしないが、この味が好きなのだ。



 聖王イシュナグが心ゆくまで休暇を満喫し、従者を従えて白亜宮殿に戻るまでには、今しばらく時を要する。

 白亜宮殿に戻った彼は、不在の百年と休暇の一年あまりを埋め合わせるかのように、精力的にその勤めをはたした。時に、異世界ニホンの文化や技術、慣習なども、取り入れながら。

 すべては、双子の兄ガラムと約束した聖王なき世界を作り上げるため。

 約束が果たされるまでには、もう百年余り時を要するのだが、それは別の物語。


 そう、これは聖王イシュナグの休暇の物語。あるいは――























「遅いぞ、ギーク。ついてこい」


「はーい」


 あるいは、聖王なき世界で、初代の上王となる少年の物語でもあった。

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異世界帰りの聖王、休暇を満喫する 笛吹ヒサコ @rosemary_h

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