其の四 聖王と魔王、夢の中で約束を交わす

 ゆっくりとまぶたを押し上げた瞳に映るのは、青。

 どこまでも続く青の世界――アワイの水面みなもの上に、イシュナグは立っていた。

 異世界ニホン人のサヤが、気がつかせてくれた。

 ガラムが色々と試したというのは、おそらくこのアワイで異世界ニホンを探していたということだろう。このアワイに来ることができなければ、試せることなど何一つとしてない。


「大嫌いなんだよ。青は……」


 一人きりのアワイで、イシュナグはゆっくりと足元の水面に映る自分に手を伸ばす。水面に映る自分もまた、まるで身をかがめて自分自身に手を差し伸べているようだ。


『……父上っ、そのような……そのようなことで、俺ではなくイシュを指名したと』


 ひどく取り乱した男の声が耳に飛びこんで来た。

 ああ、やはりそうだと、イシュナグはかがめていた体を起こす。その表情は硬いが、強張ってはいなかった。


『もう一度、お考え直しください。彼女の言い分はあまりにも……』


 厳格な父にひざまずき懇願するのは、聖なる一族の正装である青の衣を纏った双子の兄。

 ここは、イシュナグが聖王太子に指名された後、取り乱したガラムが父王を追いかけていった過去だ。

 純白の髪を振り乱し床に膝をついて懇願しているガラムは、鮮明に見えているのに、父の姿は霞に包まれているようにぼんやりとして、輪郭すらとらえられない。それは、自分の記憶の中で父の面影を思い出せなくなったせいか、あるいはガラムの記憶のせいか――


「……どうでもよいことだったな」


 どうでもよかったのだ。

 似ていない双子として生まれた彼らにとって、どちらの記憶かなどどうでもよかった。ずっと、記憶をこうして共有してきた。

 今見ているガラムの記憶も、自分の記憶と同じように共有するはずだったのだ。


『…………』


 父の声も、その姿のように不明瞭で聞き取ることができない。

 それでも、双子の兄のこれまでのすべてを否定していることは、充分すぎるほどわかってしまう。


『俺にはできない。今さら、今さら……』


 頭をかきむしりながら、激しく首を横に振る兄の肩に手を置こうとした父は、取り乱した兄にひどく戸惑っているような気がした。


『…………』


 何を言ったのかわからないが、父の短い言葉が取り乱した兄の平静さを取り戻させた。


 これは、ガラムが腰に佩いている聖剣で父の心臓を貫いた過去の一幕ではないのか。今まで、イシュナグが目を背け続けた一幕ではないのか。


『……』


 父が肩に置いて手を取って、ガラムは立ち上がろうとした。その顔は、晴れ晴れとは呼べなくとも、つい先ほどまで取り乱していたとは思えないほど平静さを取り戻していた。

 ならば、なぜ父を殺したのだ。

 おぼろげな輪郭であっても、父は穏やかに兄に笑いかけているではないか。あの厳格な父の穏やかな笑みを、イシュナグは見たことがなかった。


 抱き寄せたガラムの肩を優しく叩く父。

 イシュナグは、ガラムが羨ましいと思った。


「そうか、兄上は愛されていたのだな」


 目を背けまいと心決めたというのに、イシュナグは両の拳を握りしめてうなだれた。

 父に手を差し伸べられた記憶もないのに、ましてやあのように――


「ああ、そうか、俺は兄上のように誰かに手を差し伸べてこなかったからな……」


 当たり前だと、嫉妬でどうにかなりそうな自分をなだめる。


 と、うなだれいる彼の横を、幾重にも重ねた薄衣に包まれた細い足が通り抜けていった。


『ミスリア……』


 ガラムのぎこちない声に、イシュナグはハッと顔を上げた。

 純白の髪を結い上げた美しいその女性ひとの登場が、イシュナグが羨むほどの父と子の抱擁をぎこちないものにしてしまった。


「まさか、ミスリアだったのか!」


『ガラム、あなたが取り乱して出ていってしまったせいで、広間は大騒ぎよ』


「違うっ! そんなことはなかった!!」


 ガラムは父の腕をほどいた。


『…………』


 父の声がより一層不明瞭なものになる。


『やはり、あなたは聖王にふさわしくなかったのよ』


「ミスリア、やめろっ! それ以上は……」


 過去は変えられない。わかりきったこと。どんなにイシュナグが手を伸ばしたところで、過去に手は届かないというのに。


『まるで自分が選ばれるのが当然と言わんばかり。傲慢よ。あんなに取り乱すなんて、無様、ね』


「やめろ。やめてくれ! もぅ……」


 父の不明瞭な叫びも、聖剣を抜く音も、ミスリアの悲鳴も、はるか遠くに。


「なんてことだ。俺は、俺は……」


 とんでもない思い違いをしていたのだと、イシュナグは床に膝をつく。

 たちまち辺りの光景は霧散して、目の前には穂先に血がついた聖槍が転がっている。


「俺は、俺はなんてことを……」


 かつて、世界が若かった頃、世界の外側からやってくる異形の侵略者たちを迎撃するための武器だった。

 それなのに、ガラムの聖剣はミスリアをかばった父を貫き、イシュナグの聖槍は兄の血で汚れてしまった。


『しかたのないことでしたわ』


「ミスリア、あの時、そう言って俺を慰めてくれたな」


 背中から伸びてきた細い腕。

 きっと、ひどい顔をしているはずだ。あの時も、そんなことを他人事のように考えていたことを思い出す。


『わたくしは、イシュナグこそが聖王にふさわしいと……』


 ふざけるなと声を荒らげようとして、やめた。

 そんなことをして、なんになる。

 この妻もまた、過去の幻影なのだから。


 かわりに、イシュナグは妻の手に兄の血で汚れた左手を重ねた。


「ミスリア、聞いてくれ。俺をなぜ聖王にふさわしいと言ったのか、今でもわからない。三千年経って今でも、だ」


 ミスリアが父王に、ガラムは聖王にふさわしくないと助言したことは、本人の口からすでに聞いていた。

 その理由も聞いたような記憶はあるが、思い出せない。きっと、三千年も記憶にとどめておくに足る理由ではなかったのだろう。

 ただ、彼女が兄を愛していなかったことを知っていた。そして、兄の妻となることを嫌がっていたことも。


「ミスリア。俺は、お前のことが好きだったよ。お前が思ってくれていた以上に、だ。気が強いところも、嫉妬深いところも、全部好きだった。だから、兄上と約束していたのだ。兄上が聖王となっても、ミスリアを妻に迎えるのは、俺だと。兄上は、優しすぎるから、快諾してくれたよ」


 重ねた手で、最初の妻の手を握る。


「だから、父上に進言する必要なんてなかった。兄上を否定なんかするべきじゃなかった。ミスリア、聞いてくれ」


 イシュナグは顔をあげようとしなかった。


「俺はもう、お前の顔を覚えていないのだよ。あれほど、お前に熱を上げていたというのに、な」


 ほんの些細な行き違いだったのだろう。

 あの厳格な父が、ミスリア一人の進言で、イシュナグを指名するわけがない。おそらく、前々から考えられていたことだろう。


「ミスリア、おかげで俺はお前を心から愛せなくなってしまった。なぁ……」


 握っていた手が、するりとイシュナグの手からすり抜ける。


「なぁ、ミスリア、もし、世界の裏側で、もう一度会えたら、やり直せるだろうか?」


 頬を優しく撫でた細い指先が、待っていると言ってくれたような気がした。


 最初の妻の気配が霧散すると、イシュナグはそっと妻の指先の跡をなぞる。

 気のせいだとわかっている。

 過去の幻影だとわかっているのに、彼は淡い期待を抱かずにはいられなかった。


 さてと、イシュナグは目を閉じる。


 いつまでも寄り道をするわけにもいかない。三千年もの間、ずっと寄り道をしてきたのだから。


 つかの間の溺れるような浮遊感。


 目を開けると、どこかの街の大通りの真ん中に立っていた。

 実に賑やかな通りだった。

 活気に満ち溢れ、通りを行き交う人たちを眺めているだけで、心が躍る。

 小人族も、巨人族も、獣人族も、翼人族も、それから人間族も、実に楽しそうだ。


「やっぱり、いたんじゃないか」


 通りの反対側で、木箱に腰掛けて足をぶらぶらさせている少年を見つける。年は、おそらくとうになるかならないかくらい。

 純白の髪に、黄金色の瞳を輝かせている少年。

 ふとイシュナグが自分の手のひらを見れば、自分も子どもになっている。


 雑踏をかき分けて、通りを半分ほど渡ったあたりで、向こうもイシュナグに気がついたようだ。


 驚いたように目を見開いた彼は、すぐに嫌そうな――あるいは、気まずそうな顔をした。けれども、イシュナグから目を背けようとはしなかった。


「なんで来るんだよ」


 小さな舌打ちをした少年が木箱から飛び降りると、雑踏も町並みも霧散する。


 青い空と、青い水面。

 ただそれだけのアワイに戻ってきた。いや、初めから二人ともアワイにいたのだ。

 双子と呼ぶのがはばかられるほど、似ていない双子の兄を目の前にして、イシュナグは途方にくれてしまった。

 言いたいことは山のようにあったはず。それなのに、その言葉たちは、この青い世界で迷子になってしまったようだ。


「昔、よくこうして、夢の中で創造主の真似事をしていましたね」


 沈黙に耐えきれなくて、ようやく口から紡ぎ出した言葉は、さぞかし間が抜けていたことだろう。


「……そんな昔話をするために、押しかけてきたわけではないだろう」


「…………嘘つき」


 何かを誤魔化そうとする時、隠そうとする時、ガラムは左の口の端が引きつる。

 今も、そうだった。


「嘘つき。何が借りが二つだよ。三千年前から、俺は兄上に返しきれないほどの貸しを作っていたじゃないか」


「…………」


 またガラムの口の端が引きつる。

 迷子になっていたはずの言葉たちが、いつ戻ってきたのか。一度口を開いてしまえば、溢れ出して止まらない。


「ええ、ええ、わかっていますとも。兄上が優しすぎたことくらい。だからといって、こんな茶番、ひどすぎる」


 体が子どもになったからといって、口ぶりまで子どもじみてしまう必要などどこにもないというのに。

 ガラムは双子の弟が真相を知ってしまったのだと、気がついた。


「茶番、か。イシュの目にはそう映ったか」


「茶番でしょうが!! 自分を憎ませるようにと俺からたくさんのものを奪って、ずっと俺に道化を演じさせてきたのでしょう? 馬鹿みたいだ」


 拳を握りしめて、五歩も離れていない正面に立つ兄にイシュナグがぶつける怒りは、子どもじみているようで、どこまでも真っ直ぐで素直だった。

 ガラムは初めて、弟から目をそらしてうつむく。


「イシュ、違うんだ。確かに、俺はお前の怒りを利用して、俺たちに呪いをかけた。お前が俺を許さない限り、世界の裏側に行くことがないように、生と死を繰り返す呪いを。だが、茶番などではなく……」


「茶番ではないですか! とうに許せたはずなのに、どうして……」


「俺は、ミスリアが憎かった!」


 うつむいたガラムが握りしめた拳が震えている。


「彼女さえいなければ、父上を誤って手にかけてしまってから、ずっと考えてきた。何度も許そうとした。だが、どうしても許せなかった。なぜ、俺を愛してくれなかったんだ」


 イシュナグは、兄もまたミスリアを愛していたことを知り、肩を落とした。

 ハハハというガラムの笑い声は、悲しいまでに虚しく響く。


「だが、ミスリアを殺してしまったら、聖王はお前の代で閉じてしまう。それは、俺が民たちを裏切ることになる」


 どれほどミスリアを憎んでも、民を裏切れないという葛藤。

 魔王となって、白亜宮殿を襲撃するまでに、どれほど彼が悩み苦しんだのか。イシュナグは想像することすらはばかられた。


「イシュ、お前が考えていたよりも、人間族の他種族への憎しみは凄まじいものがあった。良い考えだと思ったよ。お前の目の前でミスリアを殺せば、お前は俺を許さないはずだ。その憎しみを呪いに利用すれば、何度でも俺たちは蘇ることができた。この世界から、聖なる一族はなくならない。人間族に力を与え、憎しみを発散させることもできた。今は、魔族として独立して安寧を手に入れた」


 ガラムは、何も変わっていなかった。どれほどミスリアを憎んだとことで、民のことを思わずにいられない優しすぎる少年のままだった。

 乾いた笑い声をあげた紙の仮面のように薄っぺらい笑みを浮かべるガラムを、イシュナグは殴ってやりたかった。だが、それもおそらく生と死を繰り返す呪いに変えられてしまうだろう。

 さすが、三千年もの間、茶番を繰り広げてきた男だ。

 かなわない。やはり彼が聖王になるべきだったと、イシュナグは胸に溜まった思いを息に変えてすべて吐き出した。


「終わりにしましょう」


「イシュ……」


「もっと早く、終わりにするべきだった」


 イシュナグが手を叩くと、どこかの街の大通りの真ん中に二人は立っていた。


 先ほど、ガラムが作り上げていた幻影よりも活気に満ち溢れている。


 角が生えた魔王の姿に戻ったガラムは、ゆっくりと目を見開いた。


「これ、は……」


「聖王のいない世界です。今すぐには、無理ですが、必ず――必ず、作り上げてみせます」


 だから、と言葉を切ったイシュナグは、いつの間にか青年の姿に戻っていた。


「だから、待っていてください。そして、その時は――」




 ◇◇◇


 朝が訪れた。

 聖王が帰還して八度目の朝が。


 創造主の御代より、朝が訪れなかった日はない。

 聖山の頂にある白亜宮殿にも、麓の街にも、雅な翼人族の郷にも、黒い靄に覆われた魔の森にも。

 もちろん、飛翔館の離れにも。


 けれども、静まりかえった離れには、朝の訪れを歓迎する者は誰もいない。


 ただ、一枚の書き置きだけが、つい先刻まで人がいたと教えてくれる。

 聖王イシュナグを迎えに来た諸侯らが、その書き置きを見つけて、思わず叫ぶのだが、今しばらく後のこと。




 そう、これは聖王イシュナグの休暇の物語。あるいは、因縁の相手である魔王ガラムとの和解の一歩を踏み出した物語。

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