其の六 聖王、泉に潜り身を雪ぐ
青以外を受け入れないとばかりに、ただただ青い。
この世界の創造主は、水面から現れたのだという。
創造主の血を引く聖なる一族の最後の一人イシュナグは、青が嫌いだった。
もしかしたら、創造主も青が嫌いだったから世界を創ったのかもしれない。そう彼と話して笑いあったのは、いつのことだっただろうか。
帰還をはたした聖域の泉のほとりで、イシュナグは
創造主の血を引いているためか、その見事な体躯には讃える以外の言葉はどこにもない。
「迷いは
聖王は泉に背を向け頭上を見上げる。
「まったく、どうしてこうも……」
天井を飲みこんだ暗闇に向かって嘆息する。
激しい水音とともに、彼の背中が水面を叩いた。
波立った水面が踊る。
清らかな水は、冷たすぎもせず、熱すぎもせず、男を歓迎する。
底を知らぬ泉に、男は沈む。沈む。沈む。沈む。
男は、ゆっくりと目を閉じた。
『兄上は、本当に優しいですね』
『なぜ、なぜ、なぜっ』
『許さ、ぬ。決して、ゆる、さ……』
『わたくしは、イシュナグが……』
『兄上? 兄上、やめてくれ。やめろぉおおおおおお』
『イシュ、ナグ、さ、ま、わたく、し……』
『許さない。兄上、貴方を許さない』
声、声、声、声、聞きたくもない声ばかり。
『それは俺の台詞だ。なぜ、俺が貴様と異世界で手を組まねばならんのだ』
『まぁ、なんだかんだ言っても、二人とも仲いいじゃん』
『それって、兄弟喧嘩だよね?』
男は、ゆっくりとまぶたを押し上げた。
ゆっくりと浮上し、ほとりに上がったイシュナグは、虚空から掴み取った白い衣を羽織る。
「らしくなかったな」
リルアと過ごすはずだった休暇。
それが叶わぬというなら――。
『イシュナグさ……し、しし、し、失礼いたしましたっ』
この泉のほとりで潔斎を終えたばかりの彼を見て、顔を真赤にさせた乙女。
「探すしかない、か」
存在した痕跡ごと消えた翼人族の乙女の姿を覚えている。声を覚えている。ぬくもりを覚えている。
迷うことなど、もうない。
いつの間にか乾いていた白い髪をかきあげると、あるものが目に止まった。
「よいことを思いついた」
黒猫の耳をかたどったカチューシャを拾い上げた彼は、子どものように無邪気な企みごとをしているような笑顔を浮かべた。
◇◇◇
その頃、白亜宮殿の一室では諸侯らが額を突き合わせて議論に議論を重ねていた。
最年長のニグルスは、愛用のパイプをもてあそびながら再び頭から湯気を出している。
「百年も不在だったというのに、休暇などもってのほかじゃ」
「もちろんですわ。イシュナグさまの不在の間、妾たちが平和に治めてきたというのに……」
「休暇なら、俺たちが欲しいくらいだ」
ヴァルバルの言うとおりだとヒュンデとニグルスは、口々に同意した。
ただ一人、ウームルだけが険しい顔で首を横に振る。
「わたくしたちの休暇などと言っている場合ではありません。魔王ガラムの奴も戻ったのですよ。魔族は、魔王ガラムの血肉を分け与えられて力をつける。今すぐには、攻め込んでこないでしょうが、備えは必要です。少なくとも、魔の森への警戒は強めるべきかと」
「…………」
車座になっていた諸侯らを、重い沈黙が包み込む。もっとも、イシュナグの話に耳を傾けていたウームル以外の三人は、話を聞いていなかった気まずさを含む沈黙であったが。
しばし続いた沈黙を破ったのは、ヒュンデの甲高い声だった。
「ああっ」
「なんじゃ、いきなり大きな声を出すでない」
いつの間にか、湯気がおさまっていたニグルスの抗議の声は、彼女に届かなかった。
「ああ、妾の可愛い息子のことを忘れておったわ」
二十六番目の息子のもとへ、ヒュンデは急ぐ。
その慌てぶりに、ヴァルバルは苦笑を禁じ得ない。
「やれやれヒュンデの奴、やはり一度帰ったわけではなかったようだな」
聖王イシュナグに熱い眼差しを送り続けるヒュンデだが、とても子煩悩な母親でもある。
やれやれと場がなごんだところで、どうイシュナグの思いつきを思いとどまらせるか、三人で議論をかわすが、なかなか良い考えが出てこない。
間もなく、夜が明ける。
三人も疲れと焦りが隠しきれなくなっていても、無理もない話だろう。
ひたすら、彼らがああでもないこうでもないと言い合っていると、ヒュンデが恐ろしい顔つきで戻ってきた。
「お前たち、のんきにお喋りしている場合ではないわっ」
彼女の手にあった紙切れを、むかっ腹を立てた三人の前に突き出す。
”諸君へ
余はしばらく、旅に出る。
宮殿でゆるりと休暇を満喫するつもりだったが、気が変わったのだ。
気が済んだら戻るつもりだ。
留守をよろしく頼む。
聖王イシュナグ
追伸
一人旅はつまらんから、ヒュンデの息子を連れていく。無事に返すから、許せ。”
数瞬の後、白亜宮殿に諸侯らの悲痛な叫びがこだまする。
そう、これは聖王イシュナグの休暇の物語。あるいは、従者ギシュタークの受難の物語でもある。
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